山寺の自然環境・・・・・・・(山寺の奇岩、怪岩)

山寺の地形

縄文遺跡とその生活

山寺の弥生文化

古墳時代の生活と文化

大和朝廷の東北開発

慈覚大師の伝記

慈覚大節の東国巡化

入唐求法

円仁の入寂

立石寺の開山と開祖

慈覚大師の入定窟

大師の遺言

山寺入定窟調査・・・・・・・・・(昭和25年の学術調査)

磐司磐三郎としし踊り

鎌倉幕府の祈願寺

叡山再興と立石寺

中世の遺跡と遺物

最上氏と立石寺


第一節 山寺の自然環境>

塔地形と風化穴

 山寺の奇岩怪石と称される岩塊の特異な景観は、立石寺への信仰と深く結びついて、宝珠山の独得の聖域をつくりあげた。奇岩怪石の地質学的な問題点は、山腹の斜面に直立する岩体(塔地形)と、その岩体に掘り込まれた多数の穴(風化穴、タフォニ)の成因に関する点である。

 塔地形には山寺層の凝灰岩から成る天華岩(てんぐいわ)(天狗岩)・馬口岩・立岩等と、安山岩からなる甲(かぶと)岩・黒岩等の二群がある。塔地形が形成されたのは洪積世の間氷期の温暖な気侯のもとであろうと推定されている。温暖多湿な間氷期に深層風化をうけたものと推定されているのである。

 風化穴(タフォニ)ができているのは山寺層だけで、他の地層中には発達していない。風化穴の大きさは、小さいのは一〇センチメートルから三〇センチメートルほどのもの、大きいのは五〇センチメートルから一〇〇センチメートルにもおよび、一定していない。最も多いのは七〇センチメートルから八○センチメートルほどのものである。形は楕円形・長楕円形等が多く、なかには垂直状に五メートル以上にも達するものがある。長軸の方向も、水平・斜め、あるいは垂直のものなどさまざまである。

 穴部(凹み)の縁辺は鋭く、水磨された形跡は認められず、穴部の岩質は径一ミリメートルより一〇ミリメートルぐらいの小岩片を多量に含んでおり、火山噴出のさいに火山灰とともに堆積したもので、多様な岩質からなっている。

 これらの形跡からみて、山寺層中の風化穴は風蝕によるものであることは明らかである。風化穴は節理に沿って並ぶものや、凝灰岩中の礫の剥落によるものなど、地質的な条件の相異による差別風化によるとみられる。成因としては凍結・融解などの周氷河作用的な営みによると推定されるのである。

 宝珠山は三崎に分けられ、東岩は釈迦堂岩で胎内くぐりより入る。中岩は中央部で、入定窟のある入定岩が中心となる。入定窟は雨蝕、風蝕の連合作用に因るものとみられている。対岩の馬口岩も同様である。根本中堂の後山は、姫岩と呼ばれている。三崎の西端をなすのは天華岩(天狗岩)である。高橋のたもとには、対面石が盤踞している。慈覚大師と磐司磐三郎が山寺の開山について折衝したとの伝説をもつ岩である。

 

 

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(二) 山寺の地形>

奥山寺

 山寺から立石川に沿一て二口峠に向うと、馬形の集落を過ぎて先ず目を惹く巨石は甲岩(かぶといわ)である。輝石安山岩の集塊岩である。この岩の前面に安山岩の一ツ岩・黒岩等が対立している。谷の南側に凝灰岩の一大岩壁が連立している。人語を復唱して鸚鵡(おうむ)に似るところから、鸚鵡岩と称されている。遊仙峡の東方、標高九〇〇メートルから一〇〇〇メートルのあたりに、灰黒色の断崖絶壁が連なっている。屏風岩である。二口(ふたくち)峠(九三四メートル)への旧道入口付近には柱状節理のよく発達した安山岩が露出しており、二口峠を越えて名取川の上流に出ると、磐司岩の下に出る。右岸の日陰磐司、左岸の日向磐司、名取本流の表磐司、大沢の裏磐司等に分けられているが、三キロメートル余にわたって一大懸崖をなしている。この一帯を奥山寺と称し、古くは磐司磐三郎の本処であったと伝えられている神秘の名勝である。磐司岩は垂直柱状節理がよく発達し、その節理面に沿って雨蝕作用が著しく作用した結果、山寺の凝灰岩の風蝕地形とはまったく異る景観を呈している。

 

 

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<縄文遺跡とその生活>

 慈覚大師が平安時代の貞観二年(八六〇)に山寺を開山する際に、地元の盤司盤三郎という狩猟を生業とする人びとの首領と対面し、寺院を建てる諒解をえたという伝説が今に伝えられている。それはせいぜい今から千百年余り前のことにすぎない。その遥か以前、一万二〜三〇〇〇年前から断続的ではあるが、狩猟や植物資源の採集によて生活を営んでいた人びとの歴史があつたのである。それは山寺開山以来の年代の十倍以上もの太古であった。前節まで述べた通り、地下から掘り出された遺物や遺跡が何よりも雄弁に山寺の前史を物語っている。

 

 

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<縄文遺跡とその生活・その2>

 この時期は、後氷期以来気温が少しずつ上昇し、大森B遺跡が営まれたころは今より平均気温が二度ほど高くなつた。マツやスギなどの常緑樹の他に、ブナやナラなどの落葉広葉樹林がいたるところに繁茂し、人びとは森林の大きな恵みを受けることになった。上荒谷遺跡や大森A遺跡では、石鏃や石槍が比較的多く出土していることから、シカやイノシシなどの狩猟に食料資源のかなりの部分を依拠したと思われるが、やはり基本的には堅果などを主とした植物資源により多くのカロリー源を求めたらしい。最近発掘調査された高畠町押出遺跡は白竜湖の南の平地にひろがる縄文前期後半の大遺跡である。低湿地であったために腐ることなく住居跡や木製の道具が残されていた。その中から三〜四センチのハンバーグ状の炭化物が出土した。表面にはデコレーションケーキのように渦巻文様がみられ、縄文クッキーの名で紹介されたことがある。それは分析の結果、クリやクルミなどのナッツ類をすりつぶして粉にし、マツの実やシカ、イノシシの肉が混合されて、発酵されたものであることが明かになつた。その他剥き身のクリやクルミの殼が多量に出土した。澱粉のほかに脂肪や蛋自質を含むクルミは重要な食料資源であった。

 またこれらの豊かな食文化のほかにも、赤漆を地にして黒漆をもつて渦巻き文様を見事なモチーフで描いた土器も出土しており、日本の伝統工芸である漆の技術は高度に発達したものとして六〇〇〇年前のこの時代からあったことがわかったのである。その他木工技術にしても、金属器を使用したとまちがうほどの鋭利で精巧な痕跡を木製品の木胎やらん胎漆木の器、木の器、杓木、箆、櫂などに残しており豊かな文化を持つていたことがうかがわれる。

 おそらく立谷川流域の上荒谷や大森に六〇〇〇年以前にすんだ人々もこれと同じ文化階程にあったことは容易に推測できるであろう。

 それより二〜三〇〇〇年後の縄文晩期人たちは、平地部よりも山間の上流部に居住地を移したが、これは食料の獲得と密接な関連があったのであろう。立谷川中流の縄文前期人の生活圏にけものや植物資源がとぼしくなったことが要因かとも考えられる。中位段丘というかなり川に近い場所を生活の場としたことは、秋の季節になると定期的に河川をさかのぼるサケやマスなどの水産資源の獲得を目的としたからに違いない。しかもそれは燻製や干魚などにするという保存技術の進歩があってはじめてて食料としての重要度が増したのである。

 立谷川をサケやマスが遡上することはごく最近まであった。明治二〇年(一八八七)の全国のサケの漁獲高二三九万貫のうち九〇パーセントは北海道・東北の各河川でとれたもので、東北では三二万貫を越す漁獲高であったという。まして二千数百年前には立谷川も水量が豊冨で、サケやマスが群をなして遡ってきたことは想像にかたくない。東北地方に縄文文化が栄えたのは、サケ・マスの食料資源が豊かであったからだとする説もある。それに立谷川上流には、イワナやヤマメなどの渓流魚も豊冨であった。

 さらにブナ帯といわれる落葉広葉樹林帯はクルミ・クリ・カヤ・ドングリ・トチなどの堅果類を無限に供給した。トチやドングリは生食できないので、アクぬきが必要であるが、その技術も縄文晩期には行われていたといわれる。ブナ帯の森林には多くの動物たちが棲息していた。とくに縄文人が好んで食したものに、シカやイノシシがあり、今も時折姿をあらわすツキノワグマ・カモシカ・ニホンザル・アナグマなども多かった。

 これらの豊かな食料資源があって、はじめてあの精巧で緻密な手づくりの極致ともいうべき縄文晩期の土器の出現が可能であった。文様はきまった約束と順序で施され、それがつけられるべき位置もさまっていた。作るにも使うにも一定のきまりがあり、それをおかすことは禁忌とされた。地蔵堂や千手院から出土する土器の主流をなす文様は工字文といわれるものであるが、流れる水を表現したもののようにも思われ、それ自体のなかに魔よけの信仰や農穣の祈りがこめらていたのであろう。

 山寺地区の遺跡では余り多く収集されていないが、縄文晩期の遺跡からは石棒・石劔・石刀などの非実用的な石器や土偶・土版などの呪術や信仰に用いられた遺物が多い。地蔵堂の石刀や干手院の異型土器などもこの類であるが、食料資源を獲得経済に依拠する社会では、ことに資源の保護と自然との共生のためにきびしい規制が必要であった。そこから人びとを規制する呪術が複雑化し、人びとの生活をすべて律することとなり、また人びとの行動原理ともなったのである。

 従来、縄文時代については、生産力が低くみじめで貧しい生活をしていた原始人というイメージで考えられてきた。しかし最近の研究によって、獲得経済の高度に発達した社会で、自然とともに生きてきた人びとの豊かな生活があった。地蔵堂や千手院から出土した土器の一片をみても実に精巧で美しい。貧しく余裕がなかったならば、このような土器を生み出すことができなかったであろう。

 

 

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<(三) 山寺の弥生文化>

水田稲作の普及

 弥生時代は、日本で水田稲作を基盤とする農業生産が始まった時期である。紀元前三〇〇年頃、朝鮮半島を経て北九州に伝えられた稲作りは、またたく間に日本海を舟で北上し、河川をさかのぼって、本州の北端の下北半島や津軽平野までひろまった。東北地方でも紀元前一〇〇〜二〇〇年には水稲農耕が伝わってきたことが明かになった。

 庄内平野の北部の酒田市生石2遺跡や内陸部の東根市蟹沢遺跡からは、縄文晩期の系統を引く在地の土器とともに、九州の弥生時代前期の遠賀川式系の土器が発見されている。稲作技術とともに九州からもたらされたものであろう。紀元前一世紀頃には、山形盆地でも稲作が行われるようになり、二〇〇〇年前の紀元前後には水稲農耕が定着するようになったものと思われる。

 

 

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<(四) 古墳時代の生活と文化>

山形盆地の古境時代

 米沢盆地では意外に早く古墳の築造が開始された。米沢市宝領塚は全長八○メートルの前方後方墳であり、川西町天神森古墳は同じく前方後方墳で全長七五・五メートルを測る。つづいて南陽市稲荷森古墳は全長九六メートルの前方後円墳で、県内最大の古墳である。これらは四世紀後半から五世紀前半にかけての大型古墳で、この頃地域政治勢力の結集が行われ首長墓としての古墳が築かれたのである。

 山形盆地においても、馬見ケ崎川や立谷川扇状地の末端部の湧水帯に四世紀後半の集落が出現する。

 

 

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<山形盆地の古境時代>

 今のところ山形盆地でもっとも古い古墳は山形市街の西南にある菅沢二号墳である。蔵王連峯を遠く望み、山形盆地を一望におさめる丘陵上に築かれた円墳で、二段築成、底径五〇メートル強、高さ五メートル。東北地方最大の円墳である。それに県内では珍しく埴輸を伴っている。平坦な墳頂部周辺、下段上面、下段墳麓に円筒埴輪列や朝顔型埴輪がめぐる。それに家形・盾形・甲胃形・靱(ゆき)形・衣蓋(きぬがさ)形など、東北地方では類例の少ない器財埴輪が出土している。年代は五世紀後半と推定されているが、五世紀に山形盆地に君臨した首長の墓であろう。

 

 

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<山形盆地の古境時代>

 古墳時代に入ると、呪術が支配した縄文時代より宗教観念は高まり、神は天上にあり、それが降り立つ場として美しい山やひときわ目立つ巨岩、大きな古木などが神まつりの場となることが多かった。そのようなところに祭祀遺跡があり、石製模造品や子持勾玉などが発見される。山寺の奇岩怪石も古代の人びとにとって祭祀や信仰の対象となっていたことは容易に想像されるところであるが、そのような遺跡や遺物はまだ発見されていない。

 

 

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<第二章 出羽国の建置>

<第一節 大和朝廷の東北開発>

(一) 出羽群の設置

渟足柵と磐舟柵

 大化の改新によって天皇政治の基礎を確立し、大宝律令を公布して(七〇一)律令政治を推進した大和朝廷は、その後東北地方の開発に積極的にのり出した。

『日本書紀』に武内宿禰(たけうちのすくね)の言として、蝦夷(えみし)は「土地は沃壌にして曠(ひろ)し、撃ちて取るべき也」と記しており、蝦夷地の開発は大和朝廷の大きな課題であった。

 斉明天皇四年(六五八)から六年にかけて、阿部比羅夫(あぺのひらふ)は水軍を率いて日本海岸を北上し、秋田・能代か渡島(わたりじま)まで進出し、東北開発を一だんと進出させた。越後国では大化三年(六四七)に渟足柵(ぬたりのき)を設けて柵戸(きのへ)を置き、翌四年には磐舟柵(いわふねのき)を設けて蝦夷に備え、開発の北進をすすめている。渟足は現新潟市付近であり、磐舟は村上市岩船付近である。当時蝦夷(えみし)と呼ばれたのは、東北地方の原住民のことである。

 和銅元年(七〇八)越後国の申請にもとづいて、越後の北方に続く庄内地方に出羽群(いではぐん)を新設した。この地域は、後に田川・出羽・飽海の三郡に分割された庄内平野全域であると推定される。出羽(いでは)の語源は、越後の出端(いでは)の意と解されている。建郡の翌年、陸奥・越後(出羽郡)の蝦夷が叛乱を起し、鎮東将軍や征蝦夷将軍が任命され、関東各地の兵士を徴集し、兵器とともに出羽柵(でわのき)に送り、大規模な掃討作戦を展開している。

 

 

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(二) 出羽国の建置

出羽国衛と出羽柵

 和銅五年(七一二)九月二十三日、出羽郡を越後国から分離して出羽国を建て、次いで十月一日に今まで陸奥国に属していた置賜・最上二郡を分けて出羽国に属させて、新たに出羽国を設置したのである。置賜郡は今日の置賜郡とほぽ同じであり、最上郡は今日の村山郡と最上郡の内陸部全域である。

 陸奥国が建置されたのは明らかでないが、大化改新の直後であろうとみられている。置賜・最上の両郡が設置された年月も明らかでないが、現山形県の内陸部の地域は陸奥国からの開発によって、大和政権に帰属した経過が推測される。置腸・最上二郡が陸奥国から出羽国に所管替なったのは霊亀二年(七一六)九月二十三日であるとする説もある。

 国司が政務を執る所を国衙(こくが)と称し、国衙(こくが)の所在地が国府(こくふ)である。出羽柵は敵対する蝦夷を討伐レ、出羽国の開拓を推進する善線基地である。周辺に柵戸(きのへ)が配置され、武力討伐と開拓に従事した。出羽の国府も当初は、出羽柵の中に設けられていたとみられる。出羽柵趾とみられる遺跡は、東田川の助川や鶴岡市太平山麓・藤島町平形等にある。天平五年(七三三)に出羽柵は秋田村高清水岡(現秋田市)に移り、国府も同地に移った。出羽国建置後二〇年ほどで、秋田県のほぼ全域を管轄するまでに至っているのである。

 

宝亀年間、蝦夷の反乱によって国衙(こくが)は河辺府については諸説があるが、城輪柵とみる説が有力である。出羽国の国衙(こくが)は出羽柵とともに庄内地方から秋田方面まで北進したが、蝦夷の反乱によって再び庄内地方に後退したのである。

 

 

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<第三節 出羽国の駅制>

(一) 山道駅路

大野東人の遠征

 東北地方の開発をすすめるに当っては、陸奥国と出羽国の連絡を緊密にすることが必要であった。そのため両国の連絡の整備に積極的にとり組んだのは、大野東人(あずまんと)であった。東人は天平九年、六千の大兵を率いて多賀城を出発し、出羽柵を目指して進撃した。三月一日色麻柵を発し、出羽国大室駅(尾花市内)に到着した。そこには出羽国守田辺難破が出迎えていた。

 東人と難破は平戈(ひらほこ)駅まで進んだが、ここから引返している。天平宝字三年(七五九)には玉野・避翼(さるはね)・平戈(ひらほこ)の三駅が置かれ、秋田県側には横河・雄勝・助河の三駅が設置された。避翼は舟形の猿羽根とみられ、平戈は金山町の入有屋のあたりとみられている。

 

(二) 水道駅路

駅馬・伝馬

 奈良蒔代の山道駅路は、平安時代になると圧内経由の駅路に変更された。これは出羽国府が秋田方面から庄内方面に戻ったからであるとみられる。『延喜式』の「諸国駅伝馬条」によると、出羽国の駅馬・伝馬は次のように定められていた。

 

 

出羽国

駅馬

最上十五疋 村山・野後各十疋 避翼十二疋 佐芸四疋・船十隻 遊佐十疋 蚶方(きさかた)・由理各十二疋 白谷(しらや)七疋 飽海・秋田各十疋

 

伝馬 最上五疋 野後三疋・船五隻 由理六疋 避翼一疋・船六隻 白谷三疋・船五隻

 

 

水駅

 駅制の駅馬・伝馬において、船を設置された駅を水駅と称するが、水駅が設けられたのは全国でも出羽国だけであった。野後駅は大石田地内、避翼駅は舟形地内、佐芸駅は最上郡鮭川地内とみられ、白谷は秋国県の雄物川畔の白谷であろうとみられている。水駅は最上川畔および雄物川畔であった。

 

 駅には駅長・駅子が置かれ、中央政府と地方機関との連絡の業務に従事した。

 

 

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<第四節 出羽国の荘園>

墾田政策

 積極的な墾田政策をとつた政府は、養老七年(七二三)に三世一身の法を令し、続いて天平十五年(七四三)には懇田永世私有法をしいたので、労働力を動員できる権門勢家や寺社は開墾をすすめて拡大な私有地を獲得するに至った。

 

 

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<第四節 出羽国の荘園>

 出羽国には次の一二個の荘園があったことが知られている。何れも出羽国の南半分のうちに位置し、北部には荘園は形成されていない。

 

置賜郡、成島荘 屋代荘 北条荘

最上郡、成生荘 大山荘 山辺荘 大曽禰荘

村山郡、寒河江荘 小田島荘

田川郡、大泉荘 海部荘

飽海郡、遊佐荘

 

 最上郡は公領をあますことなく、総べて四荘に占有された観がある。山形から上山にかけての一帯は大山荘であり、乱川から南部の地域は成生(なりう)である。この二荘はともに鳥羽天皇の第三皇女八条院領で、大覚寺統の皇室御領であった。

 出羽国の荘園の大部分は藤原摂関家領か、あるいは皇室御領であつた。小田島・寒河江・成島・屋代・大曽禰・遊佐の六荘は藤原摂関家領であり、成生・大山・大泉の三荘は皇室御領であった。左大臣頼長の荘園であつた屋代・大曽禰・遊佐の三荘は、保元の乱によつて没収され、後院領となった。

 遠隔地の東北に位置する荘園は、年貢としては米を納付せず、砂金や馬。絹織物等を納入していた。

 

 

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<第一節 慈覚大師の生涯>

(一)慈覚大師の伝記

慈覚大師の開創した寺院

 慈覚大師円仁が開創した寺、あるいは衰頽していたのを大師が再興したと伝えられている寺は全国でおよそ三四〇余ケ寺もあり、とくに関東地方に多く、東北地方がこれに次いでいる。東北地方では歴史上著名な中尊寺をはじめとし、毛越寺(もうつうじ)・霊山寺・松島の瑞巌寺・象潟(きさがた)の蚶満寺(かんまんじ)・恐山の地蔵堂等すべて大師の開創に成ると伝えている。山形県内では山寺立石寺をはじめとして一三ケ寺あり、その約半数の八ケ寺は現山形市内に集中している。そして、行基が開創し、慈覚大師が再興したと伝えているのが若松寺(天童市)・石行寺(山形市岩波)・平泉寺(山形市平清水)・宗福院(山形市鉄砲町)の四ケ寺である。

 円仁の生涯の経歴からみて、これらを総べて寺伝のとおりに理解することはできないが、この地方にも慈覚大師円仁への信望が深く浸透していたことを察することができるのである。慈覚大師から直接に、あるいは間接に教導を受けた者が、その徳を慕つて行業を修する道場を形成し、法義の信奉と地方民の教化に献身したところから寺院が形成され、慈覚大師の開創ないしは中興の寺伝が後世になって形成されたものと考えられる。それだけに、また大師への信仰の深さがしのばれるのである。そうした数ある慈覚大師縁(ゆか)りの寺々のうち、山寺の宝珠山立石寺は大師の霊骨を安置した「入定窟」のある特異な寺である。慈覚大師の生涯の行業について理解を深め、そして立石寺開山の由来と大師の入定について考察してみよう。

 

<慈覚大師の伝記>

 慈覚大師円仁の伝記は、(一)『三代実録』貞観六年正月十四日の卒伝と(二)『続群書類従』および『改訂史籍集覧』所収の『慈覚大師伝』、ならびに(三)京都三干院所蔵の『慈覚大師伝』の三本が知られている。このうち(二)の『慈覚大師伝』は、初め園城寺宮真寂親王が大師の伝記編成に着手したが半途にして死去し、その子の源英明が遺志を継いで編成したものであろうと考えられてきたが、近年の研究では菅原道真の執筆になるものであろうとの説が有力になっている。真寂は宇多天皇の皇子の斉(とき)世親王であり、菅原道真の娘を室としていたので陰謀ありと讒され、出家した法親王である。それらの伝記は間題があるときに引例することにし、いま大師の伝記としては最も簡明にして要を碍た『大日本国法華経験記』の全文を掲げてみよう。

 

 慈覚大師は、俗姓壬生氏、下野国都賀郡の人なり。母の胎を出でし時、紫雲舎(や)に覆ひ、瑞鳥聚り囀れり。広智菩薩遥かに瑞相を見て、家を尋ねて来り至りて、父母に教へて言はく、生るるところの子においては、敬を加へて守りほんぷ養へ。これ凡夫(ぼんぷ)にあらず。瑞相かくのごとしといへり。大師年九歳にして、広智の許に詣りて、誓ひて有縁の経を求めて、法華経の普門品を探り得たり。それより以降(このかた)、法華を読誦し、弘く経論を学び、深き理を解悟す。夢に聖人摩頂して与に語るを見たり。夢に傍の人告げらく、この聖人はこれ比叡の大師なり。汝の師と成るべしといへり。夢覚めて乃至終(つい)に叡山に登り、始めて伝教大師を見奉り足を礼(らい)せり。大師咲(ゑみ)含(ふく)みて歓喜(くわんぎ)すること限りなし。昔の夢の形貌(ぎゃうめう)と異ならず。大師に随順して広く顕密を学びぬ。

 承和二年にもて選ばれて唐に入り、天台山に往き五台山に登りき。多年経廻し、遍く名徳(みやうとく)に謁して、顕教密敦を受学せり。大唐の人言はく、我国の仏法は、和尚尽くに学して日本に移し伝ふという。承和十四年に朝に帰りぬ。弥陀念仏・法花懺法・灌頂・舎利会は、大師の伝ふるところなり。およそ仏法の東流せる、半はこれ大師の伝ふるころなり。天安・貞観の両帝、淳和・五条の二后、皆もて師となして、菩薩戒及び灌頂等を受けたまへり。大師嘗(むかし)熱病ありて、飲食(おんじき)例にあらず、気力減損せり。夢に天の甘露を食(じき)すとみたり。夢覚めてより以後(のち)に口に滋昧ありて、身に余患なし。

 大師楞厳院(れいごむゐん)に蟄居して、殊に精進を致せり。石の墨、草の筆をもて、手づから法華経一部を書写す。如法経と名づけぬ。即ちかの経をもて堂の中に安置せり。即ち今の如法堂なり。大師上野・下野に趣き向ひて、二千部の妙法花経を書写供養せり。また一千部の法華経を書写供養して、総持院に安置せり。また金光妙経千部を書写供養して、文殊楼に安置せり。伝授真言の弟子、道俗一百五十七人、受戒灌頂の男女一千二百七十一人なり。大師、金剛頂経疏七巻・蘇悉地経疏七巻・顕揚大戒論八巻を製造(つく)れり。

 貞観六年正月十四日、一道和尚来りて云はく、徴細の音楽を唐院(大師の坊、唐院と名づく)に聞くといへり。大師最後の種々の遺誡(ゆいかい)已に畢りて、手を洗ひ口を嗽ぎ、新しき浄衣を着し、威儀具足して、令祐法師に告げて曰く、客僧数十来り向ひて列に入る。早く香を焼(た)き花を散ぜよといふ。令祐申して云はく、ただ今客なしといへり。大師弥(いよいよ)もて敬重し、一心合掌して西に向ひて安座し、円純法師に命じて、帰命頂礼、弥陀種覚、平等大慧、一乗妙法を唱へしむ。乃ち子(ね)の剋(こく)に至り、大師弥陀仏を念じ、妙法華経を誦す。諸の弟子に命じて念誦せしめ、手に定印を結び、口に真言を誦し、北首右脇にして永くもて遷化しぬ。春秋七十一、夏臈四十九なり。同年二月に勅ありて法印大和尚の位を贈りぬ。七年諡(いなみ)を慈覚と賜へり。

 

 以上の簡明な伝記を基にし、さらに『慈覚大師伝』等によって、円仁の生涯の概要をみてみよう。円仁は延暦十三年(七九四)十一月十三日、下野国下都賀郡に生れた。俗姓は壬生(みぶ)氏で、その先祖は崇神天皇の第一皇子豊城入彦命であるという。豊城入彦命は天皇の命によって東国に派遺され、その子孫が土着して壬生氏を称していたのである。

 

 「大師誕生、是日紫雲覆屋上」(『慈覚大師伝』)とあるように、円仁の生れた日に紫雲が壬生家の屋上にたなびいたという。家人は気が付かなかったが、これを認めたのは大慈寺の僧広智禅師であった。広智は「唐僧鑒真(ママ)和尚第三代弟子也。徳行該博、戒定具足、虚己利他、国人号広智菩薩」(同前)とあるように、天平勝宝六年(七五四)に苦難の末に来朝した唐僧鑑真(がんじん)の孫弟子にあたる。広智禅師は、鑑真の弟子の道中禅師に就いて学んだのである。大慈寺は、薬師寺・国分寺とともに下野(しもつけ)国(現、栃木県)の三大寺の一つで、広智禅師は道中禅師のあとを継いで三代目の住職となったのである。広智が紫雲の起ったところを訪ねてみると壬生家であり、男子が誕生したとのことである。広智は、これは尊い聖者の生れた徴(しる)しであると心中に想い、成長したら必ず我に預けるようにと堅く頼んだという。

 延暦十七年(七九八)四月十四日円仁の父が死去し、その後は母の手で育てられた。この頃から長兄について漢籍を学びはじめたが、延暦二十一年九歳にして大慈寺に上り、僧侶への修行をはじめた。大同三年(八○八)円仁一五歳のとき広智禅師に伴なわれて比叡山に登り、最澄(伝教大師)の弟子となった。この時はじめて最澄から円仁の名を与えられたのである。最澄はこの年四二歳で、延暦四年(七八五)にはじめて比叡山に入ってから、三二年目であった。

 円仁は最澄の教えに従って・天台大師の著『摩詞止観』をはじめ、法華経の勉学に専念した。叡山での勉学の様子の一端として、『慈覚大師伝』には「若し人来りて止観を学ばんと欲する者有れば、大師をして之が為に講説せしむ。先師身自証明す」とある。『摩詞止観』について講義を請うたり、質問する者があると、最澄は円仁をして講義をさせ、そしてその説明が正しいことを最澄が証明したというのである。円仁がいかに勉学に励み、そして深奥に悟達していたかを示すとともに、また最澄からの信任の深かったことを物語る逸話である。弘仁四年(八一三)に官試を受けて及第し、翌弘仁五年正月十四日に得度(とくど)を受けた。この官試は二十歳いじょうでないと受験できない規定であり、また特度とは在俗の生活を離れて、専心仏道に仕えるとの誓いを立てる儀式である。特度を受けると沙弥という身分になり、頭髪を剃り、僧服を身に着けて僧侶となるのである。円仁はさらに翌弘仁六年に奈良の東大寺戒壇院に上り、具足戒を受けて比丘僧(びくぞう)となり、円仁法師と呼ばれることとなった。

 弘仁六年(八一五)八月、最澄は天台法門の弘通のため上野国・下野国等の巡化の旅に出たが、この時随行を命じられたのが円仁法師と兄弟子にあたる円澄法師である。円仁は七年ぶりに故郷に帰り、尼僧となった母と再会している。円澄法師は武蔵国埼玉群の生まれで、円仁と同じ壬生姓であり、はじめ道中禅師の弟子となり、後に叡山に登って最澄に就き、叡山の第二台座主となった僧である。弘仁八年正月、緑野寺において、弟子の中から十人を撰んで灌頂がおこなわれ、最澄から密法が伝授されたが、円仁もその一人に撰ばれた。最澄はさらに上総・常陸等を巡化して、弘仁八年二月に叡山に帰った。そして円仁は三月六日に一乗止観院において、徳円法師とともに最澄から円頓菩薩の大戒を伝授された。二百五十戒の小乗戒を身に体し、菩薩道を行事流僧侶の道にはいったのである。

 弘仁十三年(八二二)六月四日叡山の開祖最澄(伝教大師)は、「我が為に仏を作る勿れ。我が為に経を写す勿れ。我が志を述べよ。」との戒を遺して、五六歳にて入寂した。叡山をはじめ天台一宗を遺託されたのは高弟の義真和尚であった。円仁は、一五歳のときから一四年間にわたって、慈父のように慕って仕えてきた師の最澄を失ったのである。円仁は二九歳であった。弘仁十四年二月二十六日に比叡山寺を延暦寺と称するよう勅諚が下され、寺額が下賜された。年号を寺号とした始めである。

 円仁は先師最澄の教を深く開悟するため、一期篭山の修行にはいった。一期十二年の間、比叡山に閉ぢ篭って山門を出ることなく、專心修行するのである。しかし、篭山六年を過ぎた天長五年(八二八)、一山の要請によって篭山を打切り、天台弘通の教化活動にはいった。奈良法隆寺において、安居(あんご)講師となって南都七大寺の学匠に対して法華経の講演をなし、天長六年の夏には大坂四天王寺の安居(あんご)において法華経と仁王経を講演し、引き続いて東国に旅立った。

 

 

慈覚大節の東国巡化>

 『慈覚大師伝』には、この後の東北巡化については、「自後遙向北土、弘暢妙典」とあるだけで、具体的な巡化の地域や業跡は全く記していない。

 しかし、慈覚大師の研究者は天長六年から約四年の間は関東各地から東北地方まで巡化し、天長九年に比叡山こ帰山したものと推定している。僻遠の陸奥・出羽地方まで巡化したのは、天長七年正月三日の出羽地方の大地震による被害地の救済にあたるためであったとみられている。円仁は二年ほどの間、出羽・陸奥の各地を巡錫して救済と教化にあたったが、円仁の深い慈悲の精神に感化された人たちは、その精神を受け継いで精進するための道場を開き、それが発展して寺院となったものが多いのであろうと考えられている。

 

如法写経

 久しぶりに比叡山に帰った円仁は、また盛んに「講場を開き」「多くの者を教化」し、布教活動に尽力したが、疲労のためか体力が衰え、視力が弱まり、心身衰弱したので養生することとした。比叡山の北端の静寂なところに草庵を結んで、篭山することとなった。円仁法師は、四十歳であった。ある夜天人から「三十三天不死妙薬」を与えられた夢をみてから、しだいに健康をとりもどし、視力も回復した。円仁は報謝供養のため如説修行をなすこととし、「石墨草筆」をもって法華経一部を書写した。これを小塔に納めて堂中に安置し、この堂を如法堂と称した。石墨草筆とは、石を砕いて墨とし、草の芯を集めて筆として、一字を書くごとに香華を捧げて供養し、経文の所説の心境に住し、作法に従って写経するので如法写経という。わが国では、この時の円仁の写経が最初の如法写経である。円仁の草庵の周りには、教えを受けようと願う弟子僧が集住するようになり、堂宇も整備されて、後には横川(よかわ)楞厳院と呼ばれるようになった。天長十年(八三三)七月四日、比叡山の第一代座主(ざす)であった義真和尚が入寂し(五五歳)、翌承和元年三月十六日円澄和尚が勅命によって第二代座主となった。

 

 

p59

<(二)入唐求法>

請益僧撰任

 承和元年(八三四)正月十九日、藤原常嗣が遣唐大使に任じられ、小野篁(たかむら)が副使に任じられた。そのほか判官四人や録三人も任命されて、遣唐使派遣の準備がすすめられた。翌承和二になって、円仁法師は請益(じょうやく)僧として入唐留学するよう撰任された。承和三年(八三六)四月、京都御所の紫震殿において遣唐使一行の餞別の宴が催され、五月十四日摂津国難波(大坂)から出航して九州太宰府に向った。七月二日九州を出発したが、数日後大風に遭って四船とも大破し、九州に帰航した。船具を整備して承和四年七月再び出航したが、逆風に遭つて第一・四船は壱岐島に、第二船は値賀島に漂着し、第二回も失敗に終つた。第三回目は承和五年六月十七日に九州を出航し、途中大風に遭って非常な苦難を嘗めながらも、七月二十五日ようやく揚子江岸に上陸することができたのである。

 

入唐求法巡礼行記

 これより円仁法師が帰国した承和十四年(八四七)十月までの九年五ケ月間の在唐中のことは、円仁の目記『入唐求法巡礼行記』に詳細に記している。これは円仁の在唐中の行動や所感を記した旅行記というばかりでなく、唐代の当時の情勢を知りうる貴重な史料でもある。この『入唐求法巡礼行記』の研究を成しとげたのは、先の駐日アメリカ大使であったライシャワー(E・O・Reischauer)博士である。博士は一九五五年一月に、『円仁の日記−入唐求法巡礼行記』Ennin's Diary―The Record of a Pilgrimage to China in Search of the Law)を出版し、その日本語訳『円仁唐代中国への旅』は田村完誓氏によって、一九六三年四月に刊行されている。ラィシャワー博士は原版の序文において、「彼のさすらいと、苦難と、勝利を記した厖大な記録は、極東の歴史における始めての偉大な日記であるばかりでなく、中国の生活に関して外国人が書きあらわした最初の記録でもある。」と紹介している。また「日本語版への序文」においては、「おそらく世界史上最初の偉大な日記作家として、更に確かに中国に関しては最初の偉大な外人解説者として、円仁は(中略)事実日本仏教の歴史においても指導的人物であったのである。彼の経歴は、宗教的献身と知的深求と高貴な冒険との驚くべき結合なのである。」と円仁を評価している。

 承和五年(八三八)八月、揚州に着くと、大使一行は唐の都の長安をめざして出発したが、円仁は台州の天台山に赴きたい希望から、大使一行と別れて揚州にとどまった。天台山国清寺は師の最澄が勤学したところであり、円仁是非登山して天台の奥義を究めたいと願ったのである。翌六年二月、大使一行が使節の任を果して楚州に引上げてきたが、円仁への天台山行きの許可証は与えられなかつた。入唐以来格別の勤学の機会に恵まれなかった円仁は、このまま帰国するに忍びず、唐に残留して更に求法の修行を続けることを願い、惟正・惟暁らとともに登州に至り、法華院に逗留した。以来「諸処を巡礼して師を尋ね、道を問うことを請う」旅を続けて、翌承和七年(八四〇)登州から青州・唐州・趙州・鎮州を経て、五月にようやく五台山に登り、その中心道場である大華厳寺に到着した。その間各地で法門書や祖師像等を写したり、真言密教の秘法を伝授され、また悉曇章(梵語の経文)の研究もすすめた。

 この年八月長安に入り、この後四年一〇ケ月間長安に滞在することとなったが、その間に武帝による会昌の廃仏に遭遇し、非常な苦難を嘗めさせられた。武帝は宦官(かんがん)仇士良に惑わされて道教を信奉し、仏教を壊滅させようとしたのである。会昌元年(承和八年)から仏教に対する圧迫が始まり、それが次第に厳しくなって会昌四年には総べての寺院僧房を破壌し、翌五年(承和十二年)三月には全部の僧侶を還俗させ、仏教に関する総べてのものを焼却させたのである。還俗した僧尼の数は二六万余人という。勅命に背いて斬罪に処された者は、三〇余人もあった。

 会昌五年八月、円仁らは長安を去り、危難を被りながらも比叡山から派遣された使僧惟海法師らに迎えられた。日本への便船を求めて登州・明州を往返したが、ようやく新羅船に便乗することができた。承和十四年(大中元年)九月赤山浦から出航して、九月十九日に無事博多浦に上陸することができた。承和五年の渡航以来九年半ぶりの帰国であり、円仁は五四歳であった。円仁が唐から将来したものは、「入唐新求聖教目録」によると、念誦の教法・経論章疏五五九巻、その他の経論章疏・伝記等計五八四部・八○二巻、金剛胎蔵両部曼茶羅、高僧真影、修法具等五十種という大量のものであった。

 帰国した円仁は、北九州や山陰地方を巡化して比叡山に帰山したのは嘉祥元年(八四八)三月二十六日であった。六月二十七日、円仁は朝廷より伝燈大法師位を授けられ、さらに七月一日には内供奉(ぐふ)に任じられた。内供奉とは、宮中の仏事を修する道場に供奉する僧で、定員は一〇名と定められていた。この年九月二十八日、母実相比丘尼が死去し・円仁は母の供養をしたあと日光山に参篭し、翌嘉祥二年三月に比叡山に帰つた。斉衡元年(八五四)四月三日、円仁は天台座主に補された。義真・円澄に次いで、第三昏の座主である。円仁は六一歳であつた。翌々年文徳天皇に両部灌頂を授け、また清和天皇に菩薩戒、淳和太后に菩薩戒を授けた。その後円仁は経疏の著述に励んでおり、仁寿元年(八五一)には『金剛頂疏七巻』を書き、斉衡二年(八五五)には『蘇悉地経疏七巻』を著している。

 

 

p62

<円仁の入寂>

円仁の入寂

 貞観六年(八六四)正月十四日、円仁は七一歳の高令をもって入寂した。入寂の前日の十三日には安慧阿閣梨以下の主だった弟子たちを病室に召し、法門一切を安慧に付嘱し、自分の成し得なかつた宿願や諸事をそれぞれの弟子僧に依頼し、とくに「此山上勿造諸人廟、唯留大師廟、我没之後、植樹験其捕處」と遺言している。「比叡山には最澄(伝教大師)の廟のほか、その他の人の廟を造ってはならない。私が没したら、その埋葬したところに樹を植えて目印とせよ」というのである。また遍照大徳および常済大法師にそれぞれ遺言し、とくに常済には病躯を押して両部灌頂の密印を伝授した。そのあと円仁は剃髪して浄衣を着け、東谷の習禅房に移って、手に印契を結び、口に真言を誦しつつ、静かに往生を遂げた。星が流れて文殊楼の東北角に落ち、どこからともなく妙なる音楽が流れてきたと、『慈覚大師伝』に書かれている。

 朝廷は二月十六日少納言良岑経世を遣わして、円仁の廟前に法印大和尚位に上せる詔を下し、また別に宣命を下して安慧和尚を天台座主に任じた。貞観八年(八六六)七凡十四日、円仁の供養会の席上において勅使良岑経世によって慈覚大師の謚号がおくられた。わが国における大師号の最初である。

 ライシャワーは、円仁の人柄とその業績について次のように述べている。「円仁の人となりは、(中略)極めて稀な精力と知性と性椿の調和を持ったすぐれた人物であり、聖者のように、果敢な行動にみられる際立った能力の持主であり・強い不動の信仰をもって貫ぬかれているのである。彼は一見知性の新しいひらめきを見せる独創的な想像力の人ではないが、自らの決定の力と人を鼓舞してやまない彼の性格とによって、彼の先輩たちが発見した新しい領域を開拓する地味な、しかし、より困難な仕事に多くの人々を導くことができたのである。(『円仁唐代中国への旅』)。

 

 

p63

<第二節立石寺の開創>

(一) 立石寺の開山と開祖

開山と開祖立

石寺の創立について、古来書き伝えてきたのは次の文書のようである。

 

開山 慈覚大師円仁大和尚位

貞観六年甲申正月十四日御入定、年七十一

弟子僧

心能律師 安養院開山也

実玄律師 千手院山王院之開山也

義円大徳

自休大徳

開祖 第四座主安慧大和尚位

貞観十年四月三日寂年七十四

阿覚尊者安然大和尚位

延喜十五年乙亥二月十九日入定

(立石寺文書)

 

 立石寺においては、慈覚大師円仁を開山とし、安慧を開祖と称し、そして慈覚大師の弟子の心能律師は安養院を開き、実玄律師は千手院と山王院を開いたことを記しているのである。そのほかの義円・自休・安然等は創建開山にあたって協力し、種々の点で関与したことを示しているのであろう。言いかえれば、立石寺を開山したのは慈覚大師の意志によったものであり、弟子の心能と実玄はその命に応じて安養院・千手院・山王院等を開山したことを述べていると解されるである。また安慧は、慈覚大師の意をうけて、寺領その他の寺基を堅めたので、一山の開祖と尊称されたのであろう。

 

阿蘇郷と芳賀郷

 慈覚大師が阿所川(あそがわ)の清流のほとり、巨巌のそそり立つ景勝の地宝珠山を相して、天台教学の道場を創始しようと決意されたのは何時のことであろうか。先の「慈覚大師の生涯」の項で述べたように、慈覚大師が天台教学の弘通のため、東国巡化の旅に出たのは天長六年(八二九)であった。以来天長九年までの三年余の間、陸奥・出羽地方を巡遊したのである。慈覚大師が親しく山寺の景勝の地であることを観察し、天台教学の道場を開創しようと決意し、弟子の心能・実玄を留めて開山にあたらせたのは、この巡遊の折と推定されるのである。なお大師をして山寺の地をとくに撰ぱせた条件として、阿所川(立谷川)の下流に阿蘇郷・芳賀郷があったことが注目されるのである。阿蘇郷は漆山・七浦から渋江方面にかけての立谷川左岸一帯であり、芳賀郷はその対岸の清池・高擶から天童・寺津方面であると推定されている。この両郷は下野(しもつけ)国の阿蘇郡・芳賀郡からの移民によって開発されたところから郷名として残されたものとみられている。そうすれば、下野国は大師の故郷であり、同郷の縁から両郷の協力と援助を期待して、立石寺開山を決意したことも推察し得るのである。

 

安慧和尚

 慈覚大師に継いで出羽国内の天台宗の弘通に尽力したのは、安慧和尚である。安慧は承和十一年(八四四)に羽州講師に任じられ、それから嘉祥二年(八四九)まで六年間にわたって出羽国内に滞在して、天台宗の布教にあたったのである。『元享釈書』には「時に管内皆唯識を学び、台教を知らず。慧講を開いてより、州人相を棄て性に帰す」とあるように、当時羽国内では法相宗が広く行なわれていたが、安慧が講説してから多くの寺では法相宗を棄てて、天台宗に改宗したというのでである。この頃慈覚大師は在唐中であったが、弟子の心能や実玄は山寺で安養院・干手院・山王院等の建設に努力しており、安慧も積極的に協力し、開山に尽力したので開祖と仰がれているのであろう。安慧は伝教大師最澄の弟子となって比叡山に上り、最澄の没後は円仁に従い、円仁の没後は第四代の天台座主となった僧である。このようにして天長年間から承和末年にかけての約二〇年にわたる教化の間に、安養院をはじめ千手院・山王院、および馬形の常願寺等も建てられ、一山の寺容が整えられたと推定されるのである。

 立石寺の開山を貞観二年(八六〇)と記したものが多いのであるが、立石寺の文書やその他の資料にも貞観二年開山を裏づける資料は存在しないのである。「貞観二年十二月三十日」の期日を記しているのは、『円仁置文』もしくは『円仁注進状』と呼ばれている文書である。この文書は、立石寺領三八○町歩の四至を示し、そしてこの寺領は円仁が沙金千両と麻布三千反をもって買取ったものであることを述べ、「上は天子より下は弊民に至るまで平等利益を乞う」ために、「累代の良吏」が当山を保護することを求めた内容のものである。その内容の叙述からみて、慈覚大師の『置文』あるいは『注進状』などとするには疑念のあるもので、恐らく後世(鎌倉末期)に寺領安堵を申請するにあたって、開山の大師の権威に仮託したものかと推定されるのである。そしてこの『置文』には、山寺立石寺が貞観二年に開山されたとのことは全く記されていない。立石寺の創建開山は先述のように天長から承和にかけての頃に漸次整備されたと推定されるのであるが、あるいは貞観二年は寺領の申請にあたっては、一山を大表するものとして円仁法師の名においてなされたであろう。そして清和天皇の崩後、宝塔を中堂の傍にたてて供養をなしたのであろうと推察されるのである。

 

 

p67

<(二) 慈覚大師の入定窟>

立石寺入定窟

 立石寺の山門から奥の院に向かって登り、仁王門をやや過ぎたあたりから左手の小道を登ると、中岩とも呼ばれる百丈巌がある。その南側に通常「慈覚大師の入定窟」と呼ばれている巌窟があり、傍らに開山堂が建てられてある。古来、慈覚大師の遺骨を納めた金棺を安置してある霊窟として、一山の中でも最も尊崇されてきたところである。天養元年(一一四四)の「如法経所碑」にも「殊ニ大師之護持ヲ仰ギ、更ニ慈尊之出世ヲ期シ、之ヲ霊崛ニ奉納ス」とあるように、当時すでに慈覚大師の霊窟として知られていたことが分るのである。

 しかし、慈覚大師は貞観六年(八六四)正月十四日、叡山東谷の習禅房において入寂し、天梯の尾の奥まったところの華芳に葬られたことは、疑いのないところである。しかるにどうして、大師の遺骨が遠く離れた羽州山寺の巌窟に安置されてあるのか。このことについては、諸書は阿れも神秘的な神仙譚を以って糊塗しているようである。大江匡房の著した『本朝神仙伝』には、慈覚大師の入滅の様子を次のように記している。

 

 その入滅の期に及びて、忽然として失せてある所を知らず。門弟相尋ぬるに草鞋を如意山の谷に落して、その余(ほか)を見ず。ここに知りぬ、大権の人なることを。あに神仙の類にあらざらんや。

(岩波書店「日本思想大系」)

 

 また『山門秘伝見聞』には、「正月十四日於彼叡峰、雖被示御入滅、自棺中飛出、乗紫雲片時至彼国」とあり、その行先を出羽国と明記しているのは『山門建立秘訣』である。

 

 慈覚大師前唐院に於て御入寂し畢んぬ。妻に御棺より飛出し、東方に行く。御草鞋を華芳峰に落し、其目其時出羽国に至る。

 

 これらの諸書は、慈覚大師が入滅の後に棺中より飛出し、紫雲に乗じて出羽国に至ったことを記しており、門弟等が相尋ねたところ、華芳峯に草鞋が落ちていただけで、遺骸等その他は何も残っていなかったというのである。大江匡房が著作活動をなしていた一二世紀初頭には、慈覚大師の遺骸は叡山華芳にはなく、出羽国山寺の霊窟に安置されていることが知られていたのである。唯がどのようにして移したか不明なので、紫雲に乗って大師自ら飛来したという神仙譚に転じたものと考えられる。しかも、それが大師の自らの意志によるとしている点が、注目される。

 

大師の遺言

 慈覚大師は入寂に臨んで諸弟子を召して、「此山上ニ諸人ノ廟ヲ造ル勿レ、唯大師ノ廟二留メヨ、我没スル之後、樹ヲ植エ其処ノ験トセヨ」と遺言している。この叡山には伝教大師最澄の廟だけにとどめ、他の諸人の廟を作つてはならない。慈覚大師が没したら、廟を作らずに樹を植えて目印とせよというのである。慈覚大師の遺骨を叡山から出羽国立石寺に移すということは、大師生前の遺言によらなければ何人にもできないことであり、また大師の遺言によるとは言え公然とはなし難いことであり、極秘裡にすすめられたことであろう。この遺言を与えられたのは、入寂にさいしての状況からして弟子の常済であろうと推察されるのである、常済は、慈覚大師から入寂の前日の十三日に両部灌頂の密印を伝授された弟子である。大師は臨終の迫った病躯を押して、手や口を漱いで袈裟を着け、常済一人を召寄せて、口に真言を誦し、手に印契を結び、密印灌頂を授けたのである。常済は、「歓悦二堪エズ、涙ヲ流スコト雨ノ如シ。地ニ伏シテ稽首シ、大師ヲ礼拝ス」(『慈覚大師伝』)とあり、恐らくこの時常済は大師の遺言を堅く委嘱されたものと推察されるのである。そして大師の遺骨移遷は、第四代の新座主安慧の了解の上に常済等少数の者たちによって極秘裡に実施されたものと考えられる。極秘裡に行なわれたとしても、何時しか大師の遺骨は華芳の峯には存荏しないとの噂が広まり、一山ではその真偽を確かめるため埋華地を発掘して確認したものと考えられる。そして、大師は入寂後自らの意志で紫雲に乗じて出羽国に飛び去ったという神仙譚にして処理したものと推察されるのである。

 

山寺入定窟調査

 昭和二十三年八月、県の史跡名勝天然記念物調査委員会が設置されると、最初に山寺立石寺の慈覚大師入定窟が調査されることになり、十一月一目に開扉された。霊窟は左右の長さ四・一八メートル、中央部の高さ九七センチメートル、奥行一.一六メートルであり、中に金棺が一個安置されていた。金棺は桧の柾板造りで、外部の長さ一.八三メートル、幅五〇センチメートル、高さ二七.二七センチメートルで桟蓋をもって覆ってある。砥粉と漆を混じたもので下塗りし、その上に黒漆を二回塗りし、外部は金箔を押したものであったが、大部分は剥落していた。

 中には頭部木彫一個と、十数片の骨が納められていたので、翌年文部省および国立博物館に調査員の派遣を申講し、小林剛(当時、博物館技官)・鈴木尚(当時、東大人類学助教授)両氏の専門的な調査がおこなわれることとなったのである。小林氏は二十四年六月および十月に、鈴木氏は二十四年十月に来県して、精密な調査をおこなった。『山寺の入定窟調査について』(昭和二十五年四月、山形県文化遺産保護協会)によって調査の結論だけを簡単に述べることにしよう。

 人骨は火葬骨二体、土葬骨(非火葬骨)三体あり、火葬骨の第一号骨は熟年男性、第二号骨は老年男性、土葬骨の第三号骨は熟年女性、第四号骨は老年男性、第五号骨は熟年以上男性骨と判定された。これらのうち第五号骨のみは四肢骨だけで、橈骨(右)・大腿骨(右・左)脛骨(右)の四本に過ぎない。非火葬骨のうち最も古いのは第五号骨で、平安朝期と推定され、鈴木博士はその調査報告書に、「私は慈覚大師の遺骨が若し確実に棺内にあるとするならば、第五号人骨が最も可能性があると考えている。然し上の考えはあくまで可能であって、決定は出来得ない」と結論している。

 次に木造頭部を調査された小林剛氏は、まず「そもそも棺の中に木造の頭部が納められてあったと云う例は他に全く知られていないぱかりでなく、こんな事があり得ると云うことさえも普通の常識では殆ど考えることが出来なかったのであるから、それだけでもこの木造頭部がもつ史的な意義にかなり重要なものがあることが考えられるが、それがまた彫刻としても極めてすぐれたものであることは、更にこの価値を倍加するものと云わなければならない。」と、驚きを表明するとともにその価値を高く評価している。木造頭部は全長が二二.一センチメートル(七寸三分)、顔だけの長さが二〇・三センチメートル(六寸七分)、幅一六・六センチメートル(五寸五分)で、等身よりやや少さく作られている。欅の一木造りで、いまは木地が露出しているが、一部に胡粉下地の跡が残っている。様式は写実的であるが、風格をもった高僧の理想像であり、こうした表現は平安時代初期の特色である。当代の代表作良弁僧正像と比較してもいささかも遜色がないばかりか、造像年次はむしろそれより古いものと思われると述べている。後頭部が平たくそがれているのは、仰向げに置くことを予想して造られたもので、全体を通じて見られる手法は極めて洗練されたもので、京都における正統な仏師によって造られたものであるとの調査結果から、小林氏は慈覚大師との関係を次のように推定している。

 

 

 慈覚大師が貞観六年正月十四日に比叡山慈叡房で入滅した時、その遺骸は取り敢えず付近の「華芳」に一時葬られたが、その後彼の遺言を尊重した弟子達が嘗て彼が東北地方を巡錫した際に開いた立石寺にその遺骨を移したものと考えることが出来ると思う。そしてその最初に遺骸を埋葬したところに頭骸骨だけを留めて置くことになったので、その代りに立石寺に移した胴体部の骨の方に木造の頭部を付け加えたものと推察される。その際胴体部の骨の方には、恐らく丁重に衣を着せて、さながらこれが示寂直後の遺該の様な装いで立石寺に運ばれたものと想像される。現在残っている黒漆塗金箔押の立派な木棺は、その仮装遺骸を比叡山から運ぶ時に用いられたそのままのものであろうと思われる。

(小林 剛「慈覚大師の木造頭部について」)

 

 

p79

磐司磐三郎としし踊り>

 五大堂の側の岩窟に、磐司磐三郎の像が安置されている。磐司磐三郎はこの周辺の猟師の頭で、磐司岩(二口峠を越えて宮城県側にはいったところ)を本拠にして、日々猟をして暮らしていた。慈覚大師が立石寺を開創するにあたって、磐三郎に交渉して宝珠山の一帯の山地を借り、なお大師は殺生戒を悟して猟をやめさせたという。磐司磐三郎は得心して快く山地を譲り、種々奔走して大師の事業を助けたという伝説が伝えられている。大師と磐三郎が対面して交渉したのが、川原町にある大岩の上で、この岩を対面と呼んでいる。そのように立石寺の創建に助力したことによって、祀られていると伝えられているが、謂わば立石寺の地主神とみられるのである。

 磐司磐三郎を二人の兄弟とする説もあり、また諸書によって文字も違っている。なおこの伝説には後日譚がついている。磐司が猟をやめたことによって生命を脅かされる怖れがなくなった獣たちが集って大師に御礼を述べると、大師は礼なら磐司に申せと悟したので、獣たちは磐司の許に集って喜びの舞を踊ったのが山寺の「ししおどり」の始まりであるという。毎年旧暦の七月七日(現在は八月二十日)の祭礼には、山寺および近村の人々によって「ししおどり」が奉納されている。山寺の「ししおどり」の「しし頭」は獅子や鹿ではなく、「あおしし」(かもしか)の頭部を模した特異なものであるという。

 

 

p81

<(一) 鎌倉幕府の祈願寺>

<立石禅寺>

 鎌倉幕府は国ごとに一箇寺の祈願寺を設け、幕府の直轄としたが、出羽国では宝珠山立石寺が将軍家祈願寺に指定された。陸奥国では松島瑞巌寺であり、下野国では日光山であった。立石寺の院主別当職は幕府から任命され、寺領も幕府によって安堵された。

 

 

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<(四) 叡山再興と立石寺>

信長の叡山焼討

信長の寺社に対する方針は、「近年社人僧徒等、無用の領地を大分に知行せしめ、法式学問を相めず、奢侈遊楽を事とし、剰へ武士に組して、ややもすれば兵乱に交ること、国家の蠧害(とがい)なるを以て、其邪威をおさへんが為めに、神社仏閣の領地を勘査せしむ」という『総見記』の文に要約されている。美濃国にある延暦寺の寺領は真先に没収された。以来延暦寺は信長に敵対し、浅井長政・朝倉義景と結んだ。元亀元年(一五七〇)九月、信長は叡山の僧徒を召して、信長に昧方するなら山門領は悉く返還すするが、若し昧方することができない場合は僧徒として厳正な中立を守ることを要求し、若しこの何れにも背いたなら一山悉く焼払ことを言渡した。しかるに山門僧徒は、浅井・朝倉と結んで信長に敵対したため、遂に元亀二年(一五七一)九月十二日の叡山焼討となったのである。信長は叡山を包囲して諸方から攻め立て、火を放って諸堂社を焼払ったのである。根本中堂・山王廿一社・東塔・西塔・無動寺以下十二谷の堂塔すべて灰燼となったのである。焼失した堂社は日吉社頭百八社・社外百八社、山上坂本都合四五百箇所に及んだという。また斬殺された僧俗男女は数千人にのぼり、死屍は山谷に満ち、目も当てらない有様であったという。ただ豊臣秀吉の部署に属した華芳谷口だけは頗る寛大で、聖衆来迎図や慈恵大師画像等は華芳谷口から持出すことを許されたと伝えられている。信長の叡山焼討は、まさに仏法の破滅を思わせる凄惨な事件であった。

 

叡山再興と常燈奉遷

 信長は叡山の再興を許さなかったが、その死後秀吉ほ本願寺をはじめ諸寺の復興を許した。比叡山延暦寺は、天正十二年(一五八四)五月に至って再興を命じられた。その時の秀吉の判物の写しが、立石寺にも伝えられている。法燈を立石寺より移すに当って、延暦寺が秀吉の再興許可証として立石寺に送ったものである。

 

豊臣秀吉判物写

 比叡山根本中堂戒壇院事、豪盛法印全宗為本願、可被再興於坊舎者、連々可為志次第、寔山門之儀者干他異、為王城之鬼門、守天下安全霊地云々、秀吉都鄙静謐、依思国家鎮護、欲起旧廃者也、仍状如件

天正拾二年五月朔日 筑前守

秀吉判

正覚院法印御房

徳雲軒

 

 叡山再興の中心になったのは、深題正覚院豪盛(ごうじょう)と擬講南光坊祐能らであった。豪盛は根本中堂の勧進に当り、南光坊は山上の大講堂と日吉社(大宮)の勧進に当った。根本中堂の本尊は美濃国揖斐郡横蔵村の横蔵寺より迎え、法燈は先に叡山より移したばかりの出羽国立石寺より移することとなった。豪盛より立石寺衆徒中に当てた常燈依頼の書状には、本尊は横蔵寺より将来したことを伝え、「然上者常燈之事、従御寺山上之様ニと願望侯、五智院被相談、運着可為●(玉偏に今と書く。かん。うつくしい玉。)奇侯」(天正十二年三月)と述べている。そして同年五月八日の南光坊からの書状には、「根本中堂常燈之事、来札遂抜露侯、貴寺之灯火可被差上通申定侯、末代之名誉不可過之侯」と、根本中堂の常燈は立石寺より移すことに定ったことを伝えている。

 

常燈を移すことは、「海陸共ニ遠路難渋之御大儀、難及筆紙侯」というように、非常な難事であった。『豪盛置文』は、立石寺の常燈の由来を述べ、天文十二年六月五日に円海が再び叡山の常燈を捧げ、その立石寺の常燈を今度は叡山に移すことになった事情を述べて置文としたものである。

 

 

豪盛置文

 

凡厥温古知新、君臣尊崇継絶興廃貴賎称誉矣、往昔慈覚大師所持之金剛杵投虚空、彼在地定燈田、此砌建迦藍、発誓造立所精舎、羽前松嶋号立石寺、金剛杵田于今為寺領云々、熟顧地景後巌崛嶮々兮、円仁入定処花芳峯不異、前渓川深々兮、大宮御在所波止土濃相似、根本中堂法花常行山王七社、常燈三火全移比叡山、然而不慮逆風消燈明、于時当寺僧円海憂之、去天文拾弐年林鐘五日、高祖伝授所挑中堂常燈、移比天地人所現三炬於立石寺、其後元亀二載仲秋十二日、不図兵旗●(雲偏に逮と書く。たい。雲のたなびく様子。)雲逆火耀麓、延暦寺堂塔半日灰燼、爰豪盛偶逃戦場之変災、●(黒偏に讀と書く。とく。けがれるの意。)顕密之職位、肆且恐皇祈之怠慢、且概学業之廃忘、因茲再建之徴志奏聞禁裡、請綸旨、天正十三暦余月八日造立中堂、欲挑昼夜燈光、招元明火於立石寺処、天正十七歳初冬廿五日仁、円海所移三燈運送為中堂常燈、本末雖異、不思儀一也、今昔以別火大無二、俗諦常住目前鎮護国家指掌、然則出羽守義光、預医王善逝之感応、弥増嘉運、一相坊円海蒙山王権現之冥助、倍満善願、兼又寺院繁隆民屋安穏而已

 

拾壱月日

執行法印探題僧正本願大和尚位豪盛 印

 

 

 この置文によって、一相坊円海が常燈を比叡山延暦寺まで運送したのは天正十七年十月であり、またその運送に当っては最上義光が助力したことを知ることができるのである。

 

油田寄進

 天正十三年以来、延暦寺と立石寺との間に常燈についての交渉がおこなわれたことが誘因となったものか、最上氏主従による常燈油田の寄進がこの頃相次いでおこなわれている。天正十四年正月には、最上義光が重澄郷内の畑二貫八五〇文の地を油田として末代に寄進している。義光は天正十二年中に天童氏や寒河江の大江氏を亡ぼし、村山地方から最上地方にかけての統一をほぼ完了した時である。

 義光の近習浦山光種は、義光の寄進状に添えて二貫八五〇文の畑地の明細を記しているが、その初めに「伝聞、本山之法燈相続雖及数百歳、近年断絶侯、山形依存御祈祷、則窺上意、常燈油之分、奉寄進地之事」と記している。即ち数百年相続した本山の常燈が一時断絶したと聞いたので、立石寺の常燈は断絶しないようにと義光の意を伺って寄進したというのである。そして「油無断絶様可有之候。彼是以神慮、御親子寿福増長武運長久、如意成就之加護」を祈願している。

 浦山光種自身は、天正十七年正月に如法堂常燈油田として荒谷郷重澄の地を寄進し、さらに天正二十年九月には蓑和田讃岐守と連名で、高擶村の五五○苅の田を買いとって如法堂常燈油田として寄進している。

 

 

<(五) 中世の遺跡と遺物>

山寺の経塚

 経塚は写経した経巻を銅や陶器の筒などに入れて埋納したものをいい、日本独特の遺跡である。釈迦入滅以後二千年を過ぎると、末法の世の中となり仏法が全くすたれてしまうという末法思想から起つたものである。五六億七千万年後の弥勒菩薩の出世の時まで経巻を埋めておくことを願ったタイムカプセルである。末法思想は山寺を開いた慈覚大師円仁が唐へ渡った際に、武宗が仏教を排斥しているのを目のあたりにして危機を感じ、比叡山の僧侶の間に広めたのが最初である。

 経塚はこのようにして天台宗と密接な関連をもって平安時代中期から造られはじめ、全国各地へ拡まっていく。現在もっとも古い経塚は寛弘四年(一〇〇七)に藤原道長が法華経など十五巻の写経を奈良県吉野の金峯山埋納したもので、これは文献にも明らかであるが、立派な金銅製の経筒や経箱をはじめ中国製の陶磁器や刀子、鏡や水晶玉など数々の遺物が発見されている。

 平安時代の経塚は、末法思想や弥勒信仰によったものであったが、中世やそれ以降になると極楽往生を願ったり、追善や逆修供養を目的とするようになり、江戸時代には水害が起こらないよう堤防などに礫石に一字ずつ経文を書写した一字一石供養が盛んに行われるようになる。

 県内では南陽市宮内別所山から発見された保延六年(一一四〇年)銘の鋳銅製経筒が銘のあるものではもっとも古い。おそらく十二世紀頃より各地の霊場を中心に埋納されたものであろう。

 慈覚大師にゆかりの深い山寺においても貴重な経塚遺物が残されている。そのもっとも大表的なものが国の重要文化財になっている如法経碑である。もともとは山寺奥の院までの中腹にあたる慈覚大師の霊窟上の百丈岩頭に立っていたものであるが、それが落下し三つに折損してしまった。今は補修され保存されているが、高さ一メートル九センチ、幅四六センチ、厚さ二三センチで、石材は安山岩である。頭部は三角形の山型で、方画内にぎっしり文字が陰刻されている。

 

 

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<第一節 最上氏と立石寺>

(一) 最上氏の支配

斯波兼頼の山形入部

 昭和三十六年から三十七年にかけて行なわれた中堂の解体修理工事あたっての調査によると、現中堂はその風蝕や古い様式等からみて室町中期以前の建築とみられ、寺伝にいう斯波兼頼の正平年間(一三四六―一三六九)の再建によるものと推定されるとしている。また慶長の銘ある「ぶな材」の使用状況からみて、慶長十三年(一六〇八)の修理は、解体かまたはそれに近い大修理であったと認められるとしている。慶長の大修理とは最上義光(よしあき)によるもので、神保隠岐と本間正任が工事の監督にあたり、三ケ年にわたる大工事であった。また先に触れたように、円海による常燈の奉遷にあたっては最上義守の母の春還芳公尼の尽力など、中世から近世初頭にかけての立石寺の最も有力な外護者は、斯波兼頼とその子孫の最上氏であった。

 斯波氏は足利氏の一門で、奥州管領であった斯波家兼の死後長子直持は奥州探頭職を継いで陸奥国を管理し、二男兼頼は出羽国を管理するため延文元年(一二五六)八月に山形に入部したのである。兼頼は山形城を築いて本拠とし、足利勢力(北朝方)の振張に努力したが、寒河江大江氏(南朝方)筆の勢力が強く、斯波氏の勢力拡張は容易でなかった。兼頼は武力による征服よりは宗教的な施策による人心収攬を計ったものとみられ、兼頼によって修復されたと伝えられているのは立石寺をはじめ宝幢寺(山形)・吉祥院(千手堂)・日吉神社(山形)・六椹八幡神社(山形)・熊野神社(山形)等がある。

 

最上義光の制覇

 斯波氏がいつの頃から最上氏を称したか明確でないが、当時山形を中心とした山形盆地の南半は最上郡であったところから、郡名をもって氏名を改称したものとみられる。最上氏は一族を要地に分封し、あるいは有力な豪族に養子として入嗣させるなどの政略で勢力を拡張した。しかしこれらは友好関係を保っているにすぎないものであったが、戦国期になって厳しい主従関係による支配体制が必須となると、最上義光による強力な征服戦が展開された。天正九年(一五八一)には真室城の鮭延秀綱を降し、三男の氏満(義親)を清水城に封じて庄内との境を固め、天正十二年には谷地の白島十郎を謀殺し、寒河江の大江氏および天童頼久を亡ぽし、置賜地方を除いた内陸部を征服した。義光はさらに庄内に進出して武藤氏を攻撃したが、越後の本庄繁長の援助を受けた庄内軍に破れて兵を引いた。天正十八年(一五九〇)義光は小田原城攻囲中の豊臣秀吉のもとに参陣して臣従を誓い、秀吉の死後は徳川家康に従った。家康のもとでは、関ヶ原戦にさいしての上杉藩直江軍との出羽合戦もあったが、それが却って義光の庄内に進出する好機となって、慶長六年(一六〇一)八月義光は戦功を賞されて庄内三群(田川・櫛引・飽海)と由利群を与えられ、五十数万の大領主となった。

 


 

山寺の歴史

平成四年十一月

著術者 伊豆田 忠悦

発行者 山寺歴史会

会長 武田 唯雄

山形市大字山寺四一五一番地

印刷 坂部印刷株式会社 

山形市旅篭町二丁目一−二一

Iwai-Kuniomi