日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

 

 日本武尊の伝説である・・・走り水における弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)の伝説については先に述べたが、秩父と同様に、房総半島には日本武尊の伝説が実に多い。記紀には走り水の伝説しか書いてないのであるが、それから派生したものであろう、後世の文書や口伝えが房総半島には実に沢山あって、数百に及ぶらしい。

 日本武尊とは、学問の世界ではそれが定説であるが、ただ一人の英雄をいうのではなくて、五世紀頃から数百年にわたって大和朝廷の武将たちが度重なる遠征をした・・・そのときの出来事や印象が凝縮されて出来上がったものである。だから、ヤマトタケルとは、「ヤマトにおける猛々しく荒々しい武勇優れた者」という意味であって、そういう点からは一般名詞に近いニュアンスを持っている。もちろん、物語としては一人の人物として語られているので、そういう点からは固有名詞である。日本武尊については、一般名詞といえば一般名詞、固有名詞といえば固有名詞という、ハイブリッド的な理解が必要であろう。

 

 三浦半島は横須賀の走り水というところに「走り水神社」というのがあるし、房総半島の木更津には「吾妻神社」がある。

 木更津には金鈴塚古墳(6世紀の終わり頃と推定される全長約90メートルの前方後円墳)があって、関東では珍しいほどのその豊かな出土品から、木更津と大和朝廷との深い関係が想定されている。したがって、東北経営がさかんとなった7世紀なかば頃はもちろんのこと、6世紀の終わり頃から、大和朝廷の武将たちが東北経営のために幾度となく浦賀水道を行き来したものと思われる。

 先に述べたように、その100年ほど前の5世紀後半には、おおむね関東平野が大和朝廷の支配下に入ったので、大和朝廷として6世紀の終わり頃には十分東北経営に力を注ぐことができたのであろう。関東地方最古の寺(龍角寺)が印旗沼(いんばぬま)の近くに建てられているが、その100年ほど前に、金鈴塚古墳がつくられている。東北経営の前線基地としてのこの馬来田(まきた。木更津)という地の重要性を想像して欲しい。そして、舟運の如何に発達していたかを思って欲しい。金鈴塚古墳には、秩父産の緑泥片岩からつくられた箱型石棺が安置されていて、舟運の如何に発達していたかを裏付けている。秩父にも日本武尊の伝説が非常に多い。日本武尊の伝説にはこれらのことが含まれて語られている

 

 記紀がつくられたのは7世紀初頭である。その頃の主役はいうまでもなく藤原氏であって、藤原氏によって、香取神社と鹿島神社が脚光を浴びるのはその頃からである。日本武尊が活躍するのは藤原氏の登場するまでであって、あえてヤマトタケル時代の主役を考えるとすれば、それは、物部一族しかいないのではないか。

 

 

Iwai-Kuniomi