頼朝と政子の墓

 

鶴岡八幡宮から歩いて10分ぐらいのところに頼朝の墓がある。

狭く急な石段の上に登っていくともうそこが頼朝の墓で、

他には何もない。潰れかけた茶店が一軒あるだけだ。

天下の将軍の墓にしてはあまりにも粗末である。

 

実は、この墓は、

島津忠久が建てたものであると言われており、

よく見ると、

香炉に丸に十の字が彫ってある。

島津忠久は、島津家の初代だが、どうも頼朝の庶子であったらしい。

政子が頼朝の墓を建てないで妾の子が建てた。

これは一体どういうことか。

 

 

 

 

政子の墓は、

鶴岡八幡宮の頼朝の墓とは反対側、寿福寺にある。

源実朝の墓と同じところにある。

寿福寺は美しく格調の高い寺である。

 

その裏山の「やぐら」に政子と実朝の墓がある。

「やぐら」とは、鎌倉で、泥岩を掘抜いた洞窟のことをいうのだそうだが、

この「やぐら」は他にもかなりあって、これらはいづれも鎌倉時代のものであろう。

そのほか、新しい一般の墓地には大仏次郎や高浜虚子の墓などもある。

まあ、頼朝の墓と比べて、寺といい墓地といい、えらい違いだ。

これはどうしたことか。

 

それでは寿福寺の山門に入っていきましょう。

 

[苔がきれいだ] [本堂も美しい] [裏山の緑が深い]

 

 

 

それでは、

木立の道を通って裏山の墓地へ向かいましょう。

[多くのやぐら]

[政子のやぐら]  [実朝のやぐら]

 

 

(註)政子の墓は、安養院にもあるようですので、

安養院へ行ってみましょう。ここをクリック!

 


 

もう一度言いますが、

頼朝の墓と比べて、

政子の墓は、寺といい墓地といい、えらい違いですね。

政子の寺もある。頼朝はその魂をお祭りするものは何もない。

これはどういうことなのでしょうか。

 

先にも触れましたが、鎌倉幕府の誕生を考える際、

北条一族の策略というものを考えざるを得ないのではないか。

頼朝は相模川での落馬が原因で病気が悪化して遂に命を落したと言われているのですが、

一部に、暗殺説も有力ですね。

 

もしそうだとしたら、

頼朝の墓があまりにも粗末であることも・・・・

十分頷づけることではありませんか。

 

鎌倉の大仏というのは、

奈良の大仏がそうであったように、

怨霊を鎮めるためにつくられたのではないでしょうか。

頼朝、頼家、実朝らの怨霊です。

 

私はそんな思いがしてならないのです。

そしてこれが歴史の必然だと思えてならないのです。

 

歴史は、

武家社会を作りその仕上げのために北条泰時を登場さすのではないか、

・・・それが私の考えであります。

そして今又歴史は、誰を登場させようとしているのか。

いやいやまだ先を急いではならない・・・・、そんなことかも知れませんね。

 

現在の怨霊は・・・? 

それをどう鎮めればいいのか・・・・? 

明惠(みょうえ)に代わる哲学者は・・・・?

 

 私はそんなことを考えながら、今、武家社会源流の旅を続けてきました。

そしていよいよ鎌倉の大仏に辿り着いたようです。

その後どこへ行くのか今は判りません。

しかし、今は、ともかく鎌倉の大仏に辿り着いたことだけは確かです。

 


それでは、鎌倉の大仏を見に行きましょうか。

行きましょう!  行きましょう!  

 

Iwai-Kuniomi