源頼政 1105‐80(長治2‐治承4)

みなもとのよりまさ

 

平安末期の武将。清和源氏の本宗摂津源氏の流れをくむ源仲政の子。母は勘解由(かげゆ)次官藤原友実の娘。弓の名手であり,歌人でもあった。1155年(久寿2)兵庫頭。56年(保元1)保元の乱で渡辺党以下200騎を率いて後白河天皇方につき勝利を得る。59年(平治1)平治の乱では初め源義朝方に加わったが変心して平家方につき,以後は源氏として唯一人六波羅政権下で生きのびることとなる。66年(仁安1)内昇殿を許され,78年(治承2)12月平清盛の奏請により74歳で念願の三位となった。ほどなく出家して法名を真蓮(一説に頼円)といい,源三位入道と呼ばれた。80年5月後白河院の皇子以仁王(もちひとおう)を奉じて挙兵,平氏方は頼政の行動を掌握しきれず,以仁王の討手の一人に頼政を予定したほどであった。同月26日近江の園城(おんじよう)寺から南都へ向かう途中,宇治で敗死した。頼政の和歌は《源三位頼政家集》(《群書類従》所収)のほか勅集や諸家集に多数見いだせる。

[伝承]  頼政は史実があまり確認されないのと対照的に,《保元物語》《平治物語》《平家物語》《源平盛衰記》など軍記物には再三登場する。三位昇進について《平家物語》は〈のほるへきたより無れは木の本にしゐをひろひて世を渡る哉(かな)〉の一首が清盛の目にとまり,頼政を哀れと思って三位に推したとする。また武人として朝廷警固に当たっているとき,仁平年間(1151‐54),応保年間(1161‐63)の両度にわたり鵺(ぬえ)を退治して天皇の病を治したという。さらに挙兵の動機については,頼政子息仲綱の名馬を平宗盛が所望したことに端を発すると説明している。これらが題材となって後世,謡曲《頼政》《鵺》,古浄瑠璃《よりまさ》,浄瑠璃《頼政追善芝(ついぜんのしば)》などが作られた。                   飯田 悠紀子

 

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