
鶴岡八幡宮の詳しい説明は、

千葉常胤(つねたね)の全面協力
数人のわずかな手勢とともに命からがら三浦半島より小舟で房総へ渡り安房国に上陸した頼朝は、房総を拠点として再期を計ることにしました。当時、房総で最も勢力があったのは、上総の上総介広常と下総の千葉常胤でした。とくに上総介広常は安定した荘園経営で自力をつけており軍備力では関東一と言われておりましたので、とりあえず頼朝らは、上総介広常を頼り、そこを新たな拠点とすると決めました。
「上総介殿は、未だ態度を曖昧にしております。いかに内諾があるとはいえ行動に現そうとしないのは不自然です。とりあえず使者を送って確認してみてはいかがでしょう。」
そう源頼朝に進言したのは安房で最初に頼朝を受け入れた安西景益でした。この安西景益の案はさっそく取り入れられ、上総介広常のもとには和田義盛、千葉常胤のもとには安達盛長が派遣されていきました。
安達盛長を使者に迎えた千葉常胤は、すぐに一族の長を集め申し渡しました。
「かつて我が祖は、八幡太郎義家公の恩に報いるために清和源氏の嫡宗が号令したなら、ただちに従うと誓った。今こそその時である。今は弱小とはいえ、源頼朝殿はいずれ国を治める魅力を持った方である。わしは頼朝殿に直ちに従おうと思う。一同いかがか。」
千葉一門にはもとより異論があろうはずはなく、その場で安達盛長にその事が伝えらました。
一方、使者を迎えながらも態度を明確にしようとしない上総介広常の様子は逐次報告され、この結果、源頼朝は、上総介の元には行かずに千葉常胤の元に向かいました。源頼朝に味方すると決めた千葉常胤の行動はすばやいものがありました。出陣の小手調べがわりに下総目代の館を襲い、続いて千田荘(多古町)の領家判官平親政を襲い、下総内に源頼朝に敵対する勢力は一掃されました。
こうして千葉常胤は源頼朝への忠誠を明確に宣言し、頼朝軍を下総国府(市川市国府台)へ迎えました。敗戦の痛手から、いまだ立ち直れずいた源頼朝を励まし、「頼朝殿、この常胤が参りましたからには関東中の敵を一掃して見せましょうぞ。」
と力強く言いました。
「おお、それは頼もしい限りだ。これよりは常胤殿を父とも、兄とも呼ばせて貰おうぞ。」
感激した源頼朝はそう言うのでした。
千葉氏が頼朝についたという情報はいち早く各地の有力な武士団にも伝えられました。雪崩をおこしたかのように頼朝の元には関東各地からぞくぞくと武士団が集まってきました。
上総介氏の遅参
千葉氏と上総介(こうずけのすけ)氏は同族で、平忠常の子常将が千葉庄に本拠を構えたことに始まるという。支族も多く、所領は上総・下総一体に広がっていった。千葉氏と上総介氏との間には、相馬御厨(みくりや)をめぐる所領争いがあった。この当時、房総平氏の盟主は千葉氏ではなく、上総介氏だったらしい。
安房で頼朝をいち早く迎えた安西景益も千葉氏の一族だが、上総介広常(ひろつね)も同族であった。しかし、上述のように、千葉氏と上総介氏は同族ながらも仲が良くなかったということである。千葉氏が親頼朝であったとしたら、上総介氏は複雑な気持ちであったに違いない。
上総介広常(ひろつね)は、周東・周西・伊南・伊北・庁南・庁北の兵を率い、相当遅れて頼朝に合流した。平家方となっていた兄常茂一党を制圧するのに時間がかかったらしい。若い頃の上総介広常は頼朝の父源義朝に仕え、鎌倉に邸を持っていたというから、基本的には源氏びいきであるに違いないのだが、「頼朝が大将の器でなかったら討ち取るつもりだった」とことらしい。頼朝は、広常(ひろつね)の遅参をこっぴどく叱り、なかなかお目通りを許さなかった。それがかえって上総介広常の頼朝に対する畏敬の念を強めたらしい。
江戸氏の反抗
江戸氏が秩父盆地から東京湾は今の皇居ないし品川方面にでてきたのは12世紀の前半である。一般には江戸太郎ということになっているが、その父秩父重継(ちちぶしげつぐ)がその子供重長(しげなが)をつれてでてきたらしい。
その子供・重長(しげなが)が世に言うところの江戸太郎である。
頼朝が鎌倉入りの際、武蔵の国に渡るため太井川(ふといがわ)の東岸に達したが、西岸には江戸太郎が頼朝の行く手を遮って立ちはだかっていた。最初は徹底抗戦するつもりであったようだが、千葉氏や葛西氏の説得により江戸太郎は頼朝の軍門に下る。以来、鎌倉幕府のご家人に加えられ江戸氏はおおいに繁栄する。
それでは、太井川(ふといがわ)における江戸太郎と頼朝の出合いを見てみよう。
現在、利根川は太平洋に流れ出ているが、これは、「利根川の東遷」といって江戸時代に徳川幕府の一大事業として利根川が鬼怒川の流れと合流するかたちで大きく東に付け替えられたためにそうなっているのであって、当時は東京湾に流入していた。また、荒川も、現在のものは比較的最近に付け替えられたものであって、当時は、利根川と同様、入り乱れて東京湾に流入していた。
したがって、頼朝が鎌倉入りに際し、渡ろうとしていたところは、一応太井川(ふといがわ)としたが、実際は東京湾との区別がつかないような状況のところであったと想像してもらいたい。それが東山道の分かれ・武蔵路であり、頼朝は下総の国からそこを渡って武蔵の国を経て鎌倉に入ったのである。東山道のメインルートは相模の国の三浦半島から房総半島は安房の国に向かうルートであり、東京湾は湾口で渡った。これが、ヤマトタケルの命が東征の時にその妻・オトタチバナヒメが入水したとして有名な・・・あの「走り水」である。横須賀と富津岬の間の海峡がそうだ。
武蔵の国には大豪族江戸太郎がおり、頼朝が石橋山の合戦に敗れ箱根山中に逃れた直後に、三浦半島の豪族・三浦大介義明を討っており、頼朝の鎌倉入りを遮るかたちで太井川(ふといがわ)の東岸をかためていた。下総の国の豪族・葛飾氏と上総の国の豪族・千葉氏が日頃のつき合いのよしみを以て江戸太郎を説得、結局、江戸太郎は頼朝に帰順するのだが、太井川(ふといがわ)の対峙場面は誠に緊迫した場面であり、もし最後まで江戸太郎が徹底抗戦していたら或いは歴史は変わっていたかも知れない。
頼朝は江戸太郎の懐柔に手をつくし、使者を送って、「令旨(りょうじ)を守りて相従い奉るべし。専らたのみおぼしめさるの上は、便宜の勇士を催し具して予参すべき・・・・」と説得したが、江戸太郎は承諾しなかった。やむなく頼朝は、浮き橋を組んで・・・敵前渡河を敢行した。江戸太郎が躊躇しているのを同族である葛飾氏と千葉氏がこれをとりなし、やっと頼朝軍の渡河ができたのであった。
江戸太郎が帰順すれば鎌倉までもう敵はない。頼朝の大軍は、意気揚々・・・旗竿を風になびかせながら一気に鎌倉入りである。

それでは、頼朝以前の鎌倉、まずは・・
もっとも古い甘縄(あまなわ)神社へ!