妖怪
ようかい
広義には,人知の及ばない異常な事物や現象を意味するが,狭義には,恒常的に祭祀されていない,人々に恐怖感を与え,さらには災厄をもたらすこともある霊的存在もしくは怪異現象の総称。
妖異,妖物,魔物ともいい,またその多くがさまざまな事物に姿を変えることができるので,〈ばけもの〉〈おばけ〉などとも呼ばれる。妖怪の総称に相当する民俗語は,大別して,東日本に分布する〈モー〉系のモー,モーモー,モモンガー,モッコ,アモ,アンモなどと,西日本に分布する〈ガ〉系のガガマ,ガガモ,ガンゴー,ガゴジ,ガモなどに分けられる。
霊的存在ないしは神秘的力の総称である〈もの〉の示現としての〈物の怪(もののけ)〉は,歴史的文献に現れた妖怪の総称の代表といえる語であり,神の示現としての〈かみのけ〉と対比される場合には邪悪な〈もの〉の発現を意味していた。
この語は平安時代に多用され,その正体のほとんどが恨みをもつ生霊や死霊であって,鬼の姿でイメージされた。
古代から現代まで,さまざまな妖怪が登場しそして消え去っていったが,そのなかで,鬼や天狗,河童,山姥,一つ目小僧,やや性格が異なるが,つきものや幽霊などが,今日でもその名がよく知られている。
妖怪は,一般的には,人間に敵対する恐ろしい存在である。これは,認識の面でも行動の面でも,妖怪というものが人々によって制御されていないことを意味している。妖怪に対処するには,大別して二つの方法がある。一つは,素戔嗚(すさのお)尊の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の神話や源頼光の酒呑童子(しゆてんどうじ)退治伝説にみえるように,呪力や武力で威嚇して追い払ったり退治したりするという方法であり,いま一つは,妖怪と一定の関係を結ぶことを通じて制御可能なものにする,すなわち,妖怪を恒常的もしくは一時的に〈神〉としてまつり上げることによって妖怪の邪悪な側面を封じ込め,さらには幸福をもたらす霊的存在に変化させようとする方法である。たとえば,《常陸国風土記》にみえる,人々を苦しめる竜蛇の姿をした〈夜刀神(やとのかみ)〉は,その一部は退治されるが,残りは神社を作ってまつられることで人々の氏神・守護神となっている。民間でも,邪悪な妖怪を小祠に封じ込めたり,村落の外にまつり捨てたりすることで,その邪悪な側面を除去しようとした。この二つの方法は,〈夜刀神〉の記事にみえるように,互いに影響し合っているが,おおざっぱにいえば,前者の方法は,物語世界においてみられるものであり,後者の方法は,現実世界においてみられるものである。しかし,もっとも妖怪らしい妖怪は,人間に制御されていない状態の妖怪であり,しかも,たとえ一つや二つの妖怪が人間によって除去されたとしても問題にならないほどたくさんの仲間がいると考えられていた。
昔から日本人は自分たちの生活する世界のなかに幾重にも〈結界〉つまり他界=非日常世界との境界を設定してきた。たとえば,神の間,納戸(なんど),便所,軒,門,神社,寺,嶋,橋,峠,村境などは,そうした境界の主要なものであり,これらの境界は物理的・社会的境界のみならず,神や妖怪のすむ他界との境界とも考えられていたので,こうした境界領域に妖怪たちが出没する傾向が強く認められる。また出没の時についても同様で,〈灯魔が刻(とき)〉と呼ばれた昼と夜の境の夕方と明け方に,妖怪はこの世界に出入りするとされている。妖怪たちのおのおのの姿形や性格は多様性に富んでいるが,一般的には妖怪たちの姿形は,現実に存在する人間や動物,器物を異様な形に変形したり,これらの事物を合成しつつ変形したり,既存の妖怪たちの姿形を利用しながらつくり出されているといえるであろう。とくに日本の妖怪の場合には,天狗や山姥,河童などのように,生業形態の異なる〈山の民〉や〈川の民〉あるいは山伏や巫女(みこ)などの宗教者に対して抱いた異様なイメージに基づいて造形されたと思われる妖怪が多いことが注目される。
柳田国男は,妖怪は神が零落することによって発生したと考えたが,いつの時代でも神に対置される妖怪が存在しており,したがって,神の盛衰に対応しつつ妖怪も盛衰していると考えられる。妖怪がどのようにしてこの世に発生したり出現したりするようになるのかということに関する民俗的次元の理解のしかたは複雑多様であるが,捨てられたりまつり手を失ったために神が妖怪化したという観念だけではなく,古狐や古狸,古道具の妖怪のように,この世に存在する事物のいずれにも霊が宿っており,しかもそれが年老い古びてくると妖怪化するという古代からの観念や,度を越した怨念をもった生者や死者は鬼の姿をした怨霊や生前の姿で出現する幽霊になってこの世をさ迷うという観念,山伏や陰陽師などの呪術師たちは秘密の法で人造人間を作ったり,犬神(いぬがみ)のような恐ろしい動物霊や鬼神を作り出して操作したりすることができるという観念,さらには仏教的他界観と民俗的他界観とが習合した結果生じた,地獄の獄卒のような,他界にすむ妖怪が現世との間を往還することができるという観念,などが重層しながら構成されているといえるであろう。
妖怪は,基本的には邪悪な存在であるが,時と場合によっては,神のように人間にとって好ましい行動をすることもある。たとえば,山姥や河童や鬼などが,説話や儀礼あるいは現実の生活において,主人公を援助したり,人々を祝福したり,特定の家を富裕にしたりする。こうした妖怪の両義的性格は,祭祀の有無による神と妖怪の相互変換性,人間の生活態度や信仰心のあり方,来訪してくる神や異人(遊行する宗教者や芸能者,その他の生業形態の違う人々)との交流のしかたなど,さまざまな事がらを反映して形成されている。⇒化物‖幽霊 小松 和彦
【中国】
前5世紀の孔子が〈怪力乱神〉を語らなかったと《論語》が伝えていることは,中国人の妖怪や霊異などに対する合理的な思考をよく表している。しかし,現実には,近年出土の墓葬文物などからもわかるように,儒家思想が徹底していなかった時代には,死者の魂が昇仙しまた再生するのを守護する,聖なる怪獣がみちみちていた。昇仙すべき場所は崑崙山であるが,はるかなる山岳は,どこも暗黒と妖怪が支配していた。漢代(前206‐後220)に成立したと思われる空想的地理書《山海経(せんがいきよう)》は,そのような諸方の山岳と妖怪についての集大成である。そこに登場する怪獣たちは,多くは(1)現実に存在する動物のある器官が欠損しているもの(たとえば1本足の牛である岳(き),首なし人間の形天など),(2)ある器官が過剰なもの(たとえば3本足のカラス,頭一つに体が三つある三身民など),(3)器官の位置が間違っていたり,さまざまな動物の器官が混在しているもの(たとえば目が背中についている羊の止漬(はくい),馬身人面で鳥の翼をもつ英招,蛇身人面の燭陰など),いずれも,ビュフォンの怪物の定義にぴったり合致するものばかりである。竜も怪獣の王者として西方のドラゴンに対応するが,その形態は蛇身を基礎としつつ幾何学文様から発展してきたと思われる。《山海経》以外にも,《淮南子(えなんじ)》《京房易伝(けいぼうえきでん)》《神異経》《捜神記》など,古代の怪獣や草木妖についての記述が散見する。
しかし,儒家の合理主義が定着すると,如上の妖怪はしだいに影をひそめ,動植物は形態的に正常の姿に回帰し,若干の〈異変〉としてとらえるか,あるいは別種への〈変身〉に重点がおかれる。4世紀損洪(かつこう)の《抱朴子(ほうぼくし)》に,雉が蜃(みずち)になり,人が亀と化し,娘が石に化するなどの例が強調されているのも,〈変身〉の論理にひそむ時間への偏愛を物語るであろう。明代の小説《西遊記》《封神演義》に登場する妖怪たちも,多くは動物が人に〈変身〉したもので,古代的な形態的な妖怪が劣勢になった反面の,興味ある現象といえよう。 中野 美代子
【西洋】
妖怪という概念は,伝統的にその実在が信じられてきた怪物(奇形を含む)と,幽霊や精霊のような霊界の存在とをつなぐとともに,目に見えぬ自然力や霊力の視覚化という意義をもつ。英語ではファンタム phantom,スペクター specter などがこれに相当する言葉といえよう。この意味ではギリシア神話のニンフ,西ヨーロッパの妖精 fairy なども妖怪に含まれるが,一般には人々に恐怖感をひき起こさせる危険で不気味な魔物という狭義の意味に限定される。
妖怪はまず,古代人の信仰の対象であった自然力の奇怪な擬人化として成立する。スコットランドの山中に潜み,地面や湖面を杖で触れて凍らせる妖婆カリヤク・バル Cailleach Bheur(冬の象徴),笑い声をあげて寒気をふりまき人を凍死させるイギリスのジャック・フロスト Jack Frost(霜の擬化),安息を得られぬ鬼火とされるウィル・オ・ザ・ウィスプ Will o’ the Wisp(火の擬人化),土を耕しつづけ休息時にカエルをあぶって食べる皺だらけの顔の小人ポーチュン Portune(農地の擬人化)などがこれである。また動物の姿をとる妖怪の例も多く,通常はモデルにされた動物の性質や特徴がその妖怪にも反映される。たとえば,旅人を背に乗せ沼の深みにさそいこむスコットランドの馬の妖怪ケルピー Kelpie,落雷をともなった嵐の夜に群れて空を飛ぶ狼の群〈ガブリエルの猟犬Gabriel Hounds〉,カナダの森林地帯を飛びまわる鳥の魔物ウェンディゴ Wendigo など。これらは,墓をあばいたり人に危害を加える夜行性の生きものであり,したがってこれらを死者や死霊の仲間とする解釈も生まれてくる。また,人間が妖怪に変化する場合は,異常な死や超自然力の獲得といった契機を必要とすることが多い。吸血鬼と狼男のような妖怪化した人間の例は世界的に知られている。このほかにも,西インド諸島で信仰されている破壊力を持つ蘇生死体ゾンビ zombie,魔女が自分の乳で育てて邪悪な目的に使役する使い魔 familiar spirit などはこの部類に加えることができよう。
中世からルネサンスにかけてのキリスト教世界では,〈魔女狩り〉の集団ヒステリーが妄想を生み,悪魔の手先とされる多数の妖怪が生みだされた。A. デューラーや J. カロが描いた悪魔や地獄の魔物,怪物などはその視覚化であり,悪魔や魔物の特性や相互関連を研究する悪魔学も成立した。それによれば,地上の階層組織に対応した妖怪の王国があり,首長に魔王サタンが君臨する。加えて,これらの魔物たちは宗教美術などを通じてイメージ的にも定着し,民衆の妄想をさらにあおった。妖怪の形姿にはそうした無意識の表象が認められるとして,S. フロイトは精神医学的見地から悪魔や魔物の絵を分析している。
【妖怪の現代的意味】
妖怪を畏怖する民俗は,霊や自然の威力に対する素朴な恐怖心と敬虔な信仰を基盤としており,自然をもっぱら利用のための資源と位置づける近代産業社会には本来そぐわない。だが,それにもかかわらず,今日なお妖怪への関心は存続する。とりわけ空想や仮定によって視覚化するしかない他天体の生物(宇宙人)が,飽きもせずかつての怪物や妖怪の姿をとるという傾向は,興味深い問題である。逆にいえば,鬼や悪魔や怪物・怪獣など紋切型の妖怪のはんらんは,人間が宇宙などの未知の空間に挑む場合に繰り返し再生する恐怖心によって生じる,ある元型的心象の表れであるとも考えられる。したがって恐怖心が妖怪という可視的対象となって安定化しない場合には,かえってその脅威が倍加される。〈最も恐ろしい妖怪は見えない妖怪である〉(C. ラム《エリア随筆》)との逆説は真理であり,妖怪はいわば未知と既知との境界にすむ存在だといえよう。
次に,妖怪が外見上備えている奇形性,規範からの逸脱性の意義である。言葉や論理など知的能力だけを自己表現の方法としがちな現代人に対して,妖怪はその肉体を直接あらわにすることに自己表現の手段をもとめる。カウンター・カルチャーやアンダーグラウンドの芸術に妖怪が頻出する理由もそこにある。日常的なもの見慣れたものを異様な形に変容させ,改めてその存在意味を問い直すことを,R. バルトは〈異化作用〉と呼んだが,画一化に向かいつつある現代にあって異形の妖怪という表象が果たす役割についても適用できる概念といえよう。⇒悪魔‖怪物 荒俣 宏
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