現代の社会問題と唯識

       ・・・唯識の現代性

 

 

 私は先に、唯識の現代性というか未来性について述べ、唯識が如何にトランスパーソナル心理学やウィルバー心理学より優って(まさって)いるかを勉強した。次は、唯識が現在の様々な社会問題の解決にどのように役立つのか、岡野守也の考えを紹介することにしたい。

 先にも言ったように、私は、唯識にもとづいて何かをやろうと考えているのではない。時により唯識哲学なり華厳哲学なりを活用することがあるかもしれないが、今、それらを直接ビジョンづくりに活用しようとするのではない。そうではなくて、皆さん方には、唯識の現代性というか未来性を理解していただければそれでいい。唯識の権威者としての徳一の実力のほどを感じ取っていただければそれでいい。徳一は唯識の代表者として最澄と対決したのだ。宗教界では、かの源信によって・・・徳一と最澄の「三一論争」に決着がついたとされているようであるが、そうではないと私は考えている。私が今考えていることは、その逆であって、世界が混沌としている今こそ、唯識が見直されるべきであるということだ。徳一が見直されるべきであるということだ。そして、それらの延長線上にある華厳哲学とか明恵が見直されるべきであるということだ。一応岡野守也の考えは紹介するけれど、そういうことであるので誤解のないようにお願いする。

 

では、いつものように、以下に、岡野守也の著書「唯識のすすめ」(1998年、日本放送出版協会)から関連部分を抜粋するとしよう。

 

『  母子関係 _ 家族 _ 疑似種

 人間以外の動物たちは、ほとんど完成された姿で生まれ、生後まもなく「本能」つまり本来の能力で、自力で環境に適応して生きていける。しかし、完成されているだけに融通が利きませんから、種によって適応できる環境が限定されてしまいます。ところが、人間は、生理的早産によって可塑的になっている。そのために文化を必要とするわけですが、文化は本能と違って固定的ではありませんから、異なった環境には、異なった文化を形成することによって適応していけるのです。人間のように、地球上のありとあらゆる所にそれにあった文化を作ることによって環境に適応し、さらには環境のほうを適応させて生きている生物種は、ほかに見られないようです。

 この、生理的には同じ「種」のままで、まるで異なった種のような文化を形成している状態を、エリクソンという精神分析学者は「擬似種」と呼んでいます。そして、動物行動学者のアイブル=アイベスフェルトは、「もろもろの文化はあたかも別々の種であるかのように、たがいに他に対して自己を区別しあい、それぞれの枠の中に閉じこもってしまう。それぞれの文化グループの代表者たちは、他との対照を強調するあまり、自分たちは人間であるが、それ以外のものはすべて人非人か人間としての値打ちを欠いた存在であると呼ぶ始末である」(三島憲一・鈴木直訳『戦争と平和』みすず書房、二二〇頁)と言っていますが、これは「区別」というよりは「分離」というべきでしょう。』

 

 

 『 分別知と自我

 人間が「自我」を中心にした八識構造の心をかかえるようになったのも、それと並行した現象だと思われます。言葉を使って「私のかわいい〜ちゃん」などと自分の固有名詞を呼ばれて育ち、やがて「私」という代名詞で自分を表わすことを覚え、それを核にしてものを見ることが身についていくと、ひとではない「私」がいるような気がしてきます。それも区別ならいいのですが、どうしても分離した「自分」がいるように思いがちです。そしてそれが無意識の奥にしっかり確立される、つまりマナ識ができると、こんどはいのちも「いのちといのちでないもののつながりの中の流れ」ではなく、固定的な「自分のいのち」と感じられるようになるわけです。脳科学的な言い方を借りると、それも大脳新皮質の発達による言葉を使った記憶と思考の能力によるものであり、唯識_ 仏教的に言うと、つまり分別知によって可能になった働きです。

 そういうふうにして、人間は人間としての歩みを始めた時点から、言葉−分別知−自我_擬似種というものをかかえ、そのプラス面もマイナス面もかかえたのではないかと思われます。そして、言葉と分別知がすべてをばらばらに捉える傾向を持っているために、言葉と分別知によって作られる自我と擬似種も分離・分裂の傾向を持っているわけです。』

 

 

 『 分別知と戦争

 そして、この言葉と分別知を基にした文化によつて作られた擬似種が、小さな群や部族のレベルを超えて、古代の帝国というレベルに達し、さらに近代の国家に発展するにつれて、軍事技術の発達ともあいまって、ますます戦争の規模も発展してきたのではないかと推論できます。

 もちろん個々の戦争にはいろいろ複雑な事情が絡んでいて、そう簡単だとは思いませんが、問題点をはっきりさせるためにあえて単純化していうと、向こうとこちらの集団が分かれているという認識なしには、戦争は起こりえません。自分たちとは別の集団があって、「あいつら」が、「自分たちの利益を侵害する」とか「我々の名誉を傷つけた」とか「自分たちの信じる正義に反している」とか、「あいつらを侵略、征服、支配すると、自分たちがもうかる」とかいう考えがあって初めて、戦争が起こりうる。集団同士、民族や国家同士が、お互いをばらばらに分離して対立している存在だと考えないかぎり、戦争は起こりようがない。つまり、戦争はすべて、擬似種の杉成から始まる、グループとグループを別のものとして分けて考える分別知を基にした人間固有の行動だと思われます。

 動物行動学者ローレンツは、かつて動物には同じ種の間では殺し合いをしないようにする攻撃の自己抑制システムが組み込まれていると主張しました。彼のあげているオオカミのケースなど、大変感動的でした。しかし、最近の研究では動物も高等なほ乳類や霊長類には時に同種間の殺しがあることが報告されています。しかしそれにしても、分別知があまり発達していませんから、人間ほど意識的・計画的・徹底的ではないと思われます。』

 

 

 『 分別知と環境破壊

 それからもう一つの点、環境破壊も基本的には分別知によるものだといって間違いありません。自然・地球環境を自分たち人間とは分離した向こう側にある対象と考え、それをいろいろに細かく部分に分けて捉え、人間の都合のいいように作りなおすことができる、そうしていいというのが科学・技術・産業の考え方の基本にあります。それがまだ未発達で小規模の間は、自然にはそうとうな自己修復力がありますから、それほど問題にはなりませんでした。しかし、近代になって科学技術と産業活動が驚くべき規模にまで発展してきたとき、ようやく地球環境の自己浄化力には限度があること、地球の資源にも限りがあることがわかってきたわけです。

 ともかく、人間と自然が別々の存在だと思っているから、平気で自然を浪費したり汚したり壊したりできるのではないでしょうか。自分と深くつながっている、それどころか深い意味では一つだと考え、実感していれば、自然を傷つけることは自分を傷つけることですから、それはできないはずです。

 しかし、ここが難しいところですが、確かに分別知に基づく科学・技術・産業によって近代人は一方では環境の破壊をやってきたわけですが、同時にそれによって無知や迷信や貧困や悲惨な病気や災害などを克服してきたわけですし、特に最近の科学によって、地球生態系が一つにつながったシステムであることや、地球の資源にも自己浄化能力にも限界があることもわかってきているわけです。

 ですから、私は「分別知が諸悪の根元だ。分別知を乗り超えさえすれば、すべての問題は片づく」などという、単純なことをいいたいのではありません。分別知にはプラスの面もあることは認めなければならないと思います。しかし、やはり行きすぎた分別知が現代の大きな危機をもたらしていることも明らかではないかといいたいのです。』

 

 

 『 分別知とニヒリズム _エゴイズム _ 快楽主義

 近代以前の、分別知・理性がまだ未発達な時代には、神話的なかたちとはいえ、一人ひとりは家族、村、国などの社会や歴史、あるいはさらに宇宙までつながっているという感覚が強く存在していたと思われます。日本では、そういう感覚の基礎になっていたのは「神仏儒習合」の世界観だったのではないでしょうか。

 日本の庶民は、つい最近まで、神と仏と天と自然とご先祖さまがほぼ同じものだというふうな、漠然とした、しかし根強い世界観を持っていたと思われます。それは、明治維新までは、全国津々浦々、どこに行っても通用する、いわば暗黙の国民的合意だったのではないか、そして、それがみんなが正しく生きることの根拠にもなっており、それは、そうとう程度、最近まで生きていたのではないか、と私は推測しています。

 思い出してみると、ある年輩までの日本人は、小さい頃悪いことをすると、たいていこんなふうに叱られたのではないでしょうか。

 例えば、「悪いことをしたら罰があたるぞ」。考えてみると、罰をあてるのは神か仏です。「嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれるぞ」「悪いことをしたら地獄に落ちるぞ」。これは仏教の神話です。「人が見ていなくてもお天道さまは見ているよ」。これは儒教と自然崇拝・民俗神道の習合でしょうか。「お前がこんなに悪い子になって、私はご先祖さまに申し訳が立たない」。これまた、儒教と祖霊崇拝・民俗神道の習合です。

 こうした、一見あいまいのように見えて、実は確かなものだった「より大いなる何ものか」とのつながりの感覚やそれへの畏敬の念、つまり「神仏儒習合」の世界観は、まず明治維新の神仏分離で、弱体化されてしまいますが、それでも戦前まではかなり根強く生きていたと思いますし、それが社会の精神的・倫理的な安定性を支えていたのではないでしょうか(戦前がすべてよかったなどといいたいのではありません)。

 ところが、戦後、アメリカの民主主義・合理主義的な教育政策によって、公教育と宗教全体も完全に分離されます。そして、公教育の場では、結局のところ、すべてのものは物質主義科学によって説明できる物質の組み合わせにすぎないという結論に至るような知識が、朝から晩まで、子どもの心に注入されていきます。

 これは表のプログラムとしては、理性や科学やヒューマニズムを教えていたのですが、その裏で、教える側も気づかないうちに、「人間も結局はただのモノであり、だから生きていることには結局意味がないし、人間を超えた神や仏や天などただの神話で、だから絶対的な善悪もない。だから人間は、自分を大事にして、自分の生きたいように生きるしかない。それは人間の権利だ」という人生観を教えた結果になっているのだと思います。

 これはうまくいくと、「人間はだれだって自分が大事だ。だから、ひとも大事こしなければならない」というヒューマニズムになるのですが、しかし人間を超えた「より大いなる何ものか」の存在という絶対の根拠は考えられていませんから、ほんの少しずれると「人間はだれだって自分がいちばん大事なのだ。だから、余裕があるときはひとも大事にするが、余裕がないときは大事にできなくてもしかたない」、さらにもう一歩進むと「ひとに迷惑をかけなければ、自分がやりたいことは何だってやっていい」という、小市民的なエゴイズムになってしまいますし、さらに一歩誤ると「悪いことをしても、ばれなければいい」、さらに「悪いことをしてばれても、自分に力があって社会的な制裁を受けなければいい」というところまで行ってしまう危険を底に秘めています。

 つまり神も仏も存在せず、モノがあるだけの世界は、つきつめると必ず意味がないということになります。それがニヒリズムです。

 そして、人間の命もモノの寄り集まりにすぎないのですから、もちろん意味はないのですが、なぜか生きていて、とりあえず自分の気持ちのいい悪い、好き嫌い、快不快はありますから、それを追求して生きるしかない、と考える。それが快楽主義です。そうしてみても、死んだらすべて終わりで意味がないのですが。

 つまり、近代的な理性、科学主義的な世界観には、もちろんプラス面もあったわけですが、そのマイナス面が徹底的に進むと、必然的にニヒリズム_エゴイズム_快楽主義に陥ってしまうという本質的な限界を持っています。それは、人類が歩みを始めたときからずっとかかえていた分別知の限界なのです。

 欧米では、近代的な理性・科学によってキリスト教の神話が批判され、もはやそのまま信じることはできなくなった時に、ニーチェという思想家の言葉でいいますと「神の死」とニヒリズムがやってきたわけですが、日本では開国_明治維新と敗戦という二段階のプロセスを経て、そういう欧米的な近代的な理性・科学が社会に浸透し、今や「神仏儒習合」の世界観が決定的に崩壊しつつあり、欧米よりははるかに遅れていよいよ本格的なニヒリズムが社会を脅かしつつあるのではないか、と私は捉えています。

 現代日本の大人も子どもも陥っている心の荒廃も、いちばん深いところでいうと、そういうニヒリズム_ エゴイズム _快楽主義の問題なのだと思います。』

 

 

 『 唯識はニヒリズム _エゴイズム _ 快楽主義を超える

 かといって、私たちはいったん近代的な理性や科学の持っている妥当性を知ってしまった以上、かつてのような神話的な宗教にもどるわけにはいきません。そこに、近・現代人の深刻な問題があるのです。

 しかし私たち日本人には、近代的な理性をも含んで超えうる仏教・唯識の英知が、なぜか不思議にも精神的な遺産として、十分に読み解かれないままながら、しっかりと遺されていたわけです。これは、驚くべきことであり、かつきわめて幸せなことです。

 もう十分にお話ししてきたことですが、唯識は、ニヒリズム _エゴイズム _快楽主義が、どういう意味で妄想なのかを理論的に明らかにし、かつどうすればそれを、心の奥底まで克服できるか、きわめて明快な筋道を示しています。簡単に復習してみましょう。

 まずニヒリズムは、すべてが結局ばらばらのモノにすぎないという錯覚から生まれています。しかし事実として、宇宙は私たちの心を生み出したものですし、その心を含んでいるのが本当の全宇宙であり、宇宙と私たち・私たちの心はつながっていて一つですから、ただのばらばらの物質だけだというわけにはいきません。確かに物質をベースにしてはいますが、それにとどまらず、なぜか生命を生み出し、心を生み出し、それらすべてを含んでいる宇宙が、リアルなこの全宇宙なのです。

 また、実際のニヒルな感情は、世界や人生が錯覚に基づいた自分の思いどおりにならない、エゴの望むような意味を持っていないという、失望・絶望感です。どちらにしても、ニヒリズムは錯覚です。

 またエゴイズムは、私が私だけで私だけのために存在する実体だという、分別知の錯覚から生まれています。しかし事実として、私はもともと他のすべての存在と果てしなくつながっていて一つのものとして、ある一定期間、私というかたちを取るのでした。それに深く気づくと、理論としても実感としても、エゴイズムは成り立ちようがありません。

 そして、ニヒリズムとエゴイズムという錯覚に基づいて、さらに人生は結局自分の快楽を追求するしかないという考え方・生き方に陥っていくのが快楽主義ですが、もはやいうまでもなく、これは錯覚に錯覚を重ねた大錯覚です。

 しかし私たちは、ただ死んだら元のばらばらのモノに分解して、すべてがおしまいという存在ではありません。全宇宙の働きは、私たちが自分で勝手に考えるような意味は超えていますが、自らの一部である人間を通して意味を生成_発展させているといっていいでしょう。ですから、宇宙の進化全体がどこに向かおうとしているか、その中で人間にどういう役割を果たさせようとしているか、古い言葉でいうと「天命」の自覚によって、生と死の意味が見えてくるのだと思います。つまり、人生には意味がないから快楽を追求するしかないというのは悲しむべき錯覚であり、実はあらゆる人の命はもともと天命であり、その具体的内容を発見・自覚・実現するときにこそ、本当の人生_ _生だけでなく、生死の意味が生成するのです。』

 

 

 『 唯識は人類への希望のメッセージである

 こういうふうに見ていくと、二十世紀が解決できなかった、それどころか深刻化させて次の世紀に残すことになる三つの問題にはすべて、その奥に分別知_遍計所執性の心の問題が潜んでいたといって間違いないと思います。

 それに対して唯識は、そういう分別知の限界をみごとに理論的に明らかにしていますし、それもただ理論的に明らかにし、暴き、告発するというのではなくて、どうすれば心の奥底まで分別知を克服できるのか、非常に明快で実践的な筋道も示しているわけです。

 だとすると、まず唯識 _ 仏教に出会って、分別知・八識の心の限界に気づいた個人から始めて、やがて気づいた人々のグループ、それからそのグループが広がるに連れて、大きな文化潮流になり、国全体に、そしておそらくやがては人類全体にというふうに、ステップを踏んでいくことになるでしょうが、人間が分別知だけの段階から、分別知を超えた縁起=依他起性の智慧に深まっていく。そして、それがさらに深まって、無分別智に到達する。無分別智に到達したらそれで終わりなのではなく、さらに般若後得智に至る。そして、人類はばらばらに存在しているのではなく、つながって一つでありながらそれぞれであることを見て、それぞれとつながりと一つのすべてのバランスをとることができるようになる。そして人類間の平和、自然との調和、そして意味のある生死を実現することができる。人類は、そういう意識進化を遂げる可能性を持った存在だ。唯識は、人類に対して、そういう希望に満ちたメッセージを発しているのだと思います。』

 

 

 『 唯我は二十一世紀の必要・不可欠な条件である

 しかし最後に、補足・注意事項的に繰り返しておきたいのですが、私は唯識だけで二十一世紀が拓けるなどという、単純なことをいっているわけではありません。心の問題に関してだけいっても、他の心理学や、東西南北の英知の伝統をすべて集めても、まだ人間の心にはわからないところが残るでしょう。

 それから、そこである程度解決の見通しが立つのは、個人の内面の問題であって、「心が変われば世界が変わる」というふうに単純に自動的にいくとは考えていません。個々の内面と内面の表現の集合体としての文化全体の変容も必要でしょう。それから、そういう変容していく個人、変容していく文化に見合った、それにふさわしい、それを促進するような、今よりももっと優れた社会システムの創出といいますか、社会の変容・変革も必要です。さらに、個々の知識や技術も、これから環境とのバランスを考えながら、それが許容する範囲でですが、やはり発達させる必要があるでしょう(このあたりについて、ケン・ウィルバ、−『進化の構造』1・2、松永太郎訳、春秋社、参照)。

 ですから、唯識だけで二十一世紀が拓けるというのではありませんが、本当に持続するだけの意味があって、実際に持続可能な世界を創るための条件として、分別知の克服、意識の変容は不可欠であり、だとすれば、転識得智の筋道を明らかにした唯識の洞察も不可欠だということです。

 つまり、真に二十一世紀を拓きたいと願う人間にとっては、唯識は必要・不可欠できわめて重要な常識になるはずだ、と私は考えています。そこで、最初はやや遠慮がちに疑問形でしたが、最後に、「唯識は二十ー世紀の常識だ」と、断定のかたちでいわせていただいて終わりにしたいと思います。』

 

 

 ながながと岡野守也の考えを紹介したが、私としては、そういった岡野守也の考えもさることながら、唯識というもののすごさを皆さんにも是非知ってもらいたかったのである。はるばるインドまで死ぬような旅をして唯識というものを中国にもたらした・・・・あの玄奘(げんじょう)に今さらながら畏敬の念を覚えると同時に、それを自己内部化して神仏習合の新しい境地を切り開いた徳一にも深甚なる敬意を覚える次第である。それでは、徳一と最澄の宗教論争と並んで意義深い明恵と法然の宗教論争を勉強するとしよう。徳一を訪ねての旅を続けながら・・・・・だ。