唯識の未来性

 

 

私たちは、先に、ばらばらに分け、別れているものとして認識するという認識の仕方・「分別性(ふんべつしょう)」がものごとにこだわる原因であり、それを乗り越えるためには、「ばらばら、つながり、一つ」という三つの認識の仕方・「三性説(さんしょうせつ)」を理解しなければならないという・・・まあ言ってみれば唯識独特の認識論を学んだ。

そして、私は、「唯識は、現在性というか未来性をもっていると思う。私は強く感じるのだが、唯識は、この渾沌とした時代、未来を切り拓いていく力をもっており、これからの未来と繋がっていると思う。」と述べた。

 

それでは、以下、唯識の現代性というか未来性について勉強していくことにしよう。

 

まず、岡野守也の著書「唯識のすすめ」(1998年、日本放送出版協会)から彼の見方を紹介する。岡野守也いわく、

『 深層心理学や心理療法と仏教の接近−融合への動きは、欧米ではもはや一部の新しがりやの変わった学者のやっていることではなく、確かにまだ先駆的とはいえ、学会的にも社会的にも無視できない流れになりつつあるようです。なかでもすでにお話ししたトランスパーソナル心理学、特にウィルバーの心理学はきわめて包括的で、仏教も十分に踏まえています。

 しかし、とはいえ、唯識には、やはり欧米の心理学、さらにトランスパーソナル心理学にさえない、独特、独自な深さがある、そしてそれこそ唯識が二十一世紀の人類に貢献できる決定的ポイントだと思っているわけです。』・・・と。

 

では、トランスパーソナル心理学やウィルバー心理学など現代の深層心理学と比べて唯識のどこが優って(まさって)いるのか、その点を上記の著書にしたがって勉強するとしよう。

 

 

分別知の限界の認識 

 

 岡野守也いわく。

『 まず第一点は、トランスパーソナル以前の欧米の深層心理学は仏教−唯識と違って、何よりも「分別知」の限界をほとんど自覚していません。そこが、決定的な問題であり、まさに限界です。・・・・(中略)

 フロイドは・・・・(中略)、自分と自分でないものを分離し、いのちといのちでないものを分離し、その上で自分やいのちに必要以上にこだわる分別知の問題が潜んでいることにも気づいていません。それからアドラーでは、よいつながり方、よい関わり方のできる共同体感覚的なライフスタイルになっている自我、そういう意味でやはり成熟した自我を確立することに焦点があたっています。つながりに強く目が向いている分、依他起性に目が向いているとはいえます。また、自分をもひとをも幸福にできるようなライフスタイルを目指しているという点は、菩薩の自利利他の理想と重なることもお話ししたとおりです。しかし、では円成実性の世界を十分に見ているかというと、明確とはいえません。確かに晩年、「共同体感覚」という言葉をほとんど「宇宙意識」に近い意味で使うようになっていますから、限りなく近づいているとはいえますが、完全ではありません。 ・・・・(中略)

 さらにユングでは、集合無意識のレベルまで含んだ無意識と意識の統合による自己実現・個性化が目指されていますが、これはつながり・関わりを他者や民族や人類といったレベルまで深め、広げていく視点だと見ることができますから、ある意味では宇宙意識のレベルに達しているといっていいでしょうし、さらに空のレベルにも近づいていると思います。しかしやはり、ふつうにいう自我よりははるかに広く深いレベルではあるにしても、ある種他との分離性が残った自己のところまでだといっていいと思います。・・・・(中略) 

 以上、人間にとって分別知が根本的に問題だということについてのはっきりした認識は、フロイド、アドラー、ユングの三者ともにないと断言していいだろうと思います。 』・・・・と。

 

 さらに、岡野守也は次のようにも言っている。

『 実をいうと分別知の限界を認識していないのは、心理学だけではありません。近代の欧米の理性一般、科学一般すべてに共通している問題点だといっていいでしょう。

 近代の科学では、あらゆるものがまず個体とか個人としてばらばらに存在していることが大前提になっているようです。ですから、複雑なもの、複雑な現象を理解する場合には、必ずその複雑な全体をばらばらの個々の要素に分析・還元していきます。そして、その要素の組み合わせ、つながり方がどうなっているかを調べ、組み合わせ・つながり方が分かり、つながってどう働いているかということが分かったら、それで全体が分かったことにする。これは「要素還元主義」と呼ばれたりしますが、そういう方法論が基本になっています(最近のシステム科学、複雑性の科学はかなり変わってきているようですが)。

 そういう近代的な理性、科学のものの見方は、前にもいったとおり仮に方法としては十分許容できますし、一定の有効性は確かにあったわけです。そういう分析的・還元的な方法によって調べることによって、分かってくることがあるのは確かです。しかしながら、そういう方法では、ものごとを全体とつながって一つでありながら、いちおう分節したものとして捉えるというのではなくて、それ自体が分離して存在するものであるかのように捉えることになっていますから、それが絶対に正しい、唯一のものの見方だと思い込みはじめると、それは深いレベルからいえば、やはり錯覚・無明というほかないと思います。』・・・と。

 

 

2、「空」の理解

 ひきつづき岡野守也の説明を聞いてみよう。

『 第二点は、そのことと非常に密接に関わっていることですが、トランスパーソナル、心理学以前の欧米の深層心理学は、心の層のいちばん深い底としての、大乗仏教でいう「空」のレベルが存在することを認めていないわけです。 

 しかしこれまでお話ししてきたとおり、「空」は決して仏教の教義を信じている人にだけ通用するような特殊な思想・イデオロギーとか、その世界にいる人にだけわかるような曰くいいがたい直観的な何かではありません。気がつきさえすれば、だれにでも認められるような普遍的な事実を、非常に的確に自覚・認識して言葉にしたものが「空」の思想です。私自身、いわゆる仏教の信徒ではありません。仏教の教えや実践を通じて見えてきたことが、自分でこれはほんとうのことだと思えるということです。 ・・・(中略)

 まさに「空」こそ全宇宙のありのままの現実だということができると思います。 ・・・(中略)

  そうした本当に事実に合った、普遍的な見方・生き方ができるところまで心が成長・発達することになしには、人間の根本問題は解決しません。 ですから、心理学が本当に人間の心の全体像を理解し、そして心の問題の根本的解決を目指す学問だとすると、理論や実賎に「空」の領域まで含んでいかないと、十分なものにならないと思うのです。』・・・・・と。

 

 

3、 三性説      

ひきつづき、岡野守也いわく。

 『 第三点は、深層心理学にはそういった限界があるのに対して、トランスパーソナル心理学、特にウィルバーまでいきますと、はっきり「空」のレベルまで見ています。しかし、残念なことにこれまで唯識に関しては英語の文献がほとんどないためでしょう、三牲説は十分に吸収されていないようです。 ・・・(中略)

 煩悩と悟りがどう違うのか、凡夫と仏がどう違うのか、三性説を使うと非常に基本的なことが単純明快にわかるわけです。そして、煩悩・迷いと悟りがどう違うのか説明されると、理論的に納得できて、さらに「なるほど、だから迷いから悟りへと成長・転換していかなければならないのだ」と納得できるのです。そういう納得から実践への非常に役に立つ手がかりとして、三性説という理論を使っていないのは、とてももったいない、不備だと思うのです。』・・・・と。

 

 

4、八識構造の悪循環から悟りへの転換 

 ひきつづき、岡野守也いわく。

『  第四点は、八識構造の問題です。私たちふつうの人間の日常は、煩悩の種子が意識_マナ識_アーラヤ識と経過して、またアーラヤ識_マナ識_意識と悪循環している。にもかかわらず、悟りの種子を意識から入れて、アーラヤ識に薫習することができる。よい循環に転換することによって、少しずつ悟りに向かって進歩していく。そういうことが可能なのです。唯識の、そういう迷いから悟りへの深層心理学的な仕組み・構造の説明のしかたは、理論として非常にわかりやすく、また経験的・臨床的にも妥当なものです。

 ところが、同じく文献がないという事情があるわけですが、そういう八識構造の悪循環状態の指摘、それをどういうふうにして悟りに転換していくか、その巧みな説明をうまく取り出して使っていくことを、トランスパーソナル心理学でさえしていないと思います。』・・・と。

 

 

煩悩を見る人間洞察

 ひきつづき、岡野守也いわく。

 『 第五点は、それとも関わっていますが、人間の深層に滞んでいる我癡・我見・我慢・我愛という根本煩悩、そこから出てくる意識上の根本煩悩、それからさらにそこから出てくるさまざまな随煩悩、これらについて一つひとつ見ていく非常にリアルで厳しい人間洞察は、深層心理学にもトランスパーソナル心理学にもない、唯識独自のものです。』・・・・と。

 

 

 以上、岡野守也の著書「唯識のすすめ」(1998年、日本放送出版協会)にしたがって唯識がどのように現代の深層心理学を凌駕しているかを見てきた。岡野が言うように、今のところ唯識は、深層心理学にもトランスパーソナル心理学にも、なかでもウィルバー心理学にさえも決して合併吸収されてしまわないような、非常に重要な側面を保持しているようであります。

 私は、唯識にもとづいて何かをやろうと考えているのではない。時により唯識哲学なり華厳哲学なりを活用することがあるかもしれないが、今、それらを直接ビジョンづくりに活用しようとするのではない。そうではなくて、皆さん方には、唯識の現代性というか未来性を理解していただければそれでいい。唯識の権威者としての徳一の実力のほどを感じ取っていただければそれでいい。徳一は唯識の代表者として最澄と対決したのだ。宗教界では、かの源信によって・・・徳一と最澄の「三一論争」に決着がついたとされているようであるが、そうではないと私は考えている。私が今考えていることは、その逆であって、世界が混沌としている今こそ、唯識が見直されるべきであるということだ。徳一が見直されるべきであるということだ。そして、それらの延長線上にある華厳哲学とか明恵が見直されるべきであるということだ。

 徳一と最澄の「三一論争」についてはすでに述べた。次には、明恵と法然のまことに激しい宗教論争を勉強したいと思うが、その前に、上述のトランスパーソナル心理学及びウィルバー心理学を一応勉強しておきたい。

 

 

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