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      ・・・随想・・・

  

 [目次]

 

  ・盆地

  ・荒川ネイチャーセンター構想

  ・建設省の環境政策について

  ・私と河川

  ・21世紀の素晴らしい川づくり

  ・黒もじの杖

  ・桃源郷への飛翔

  ・両頭裁断

  ・オールランドな山登り

 

 

 

1、盆地

 

 

 

 私は、中国建設局長時代、中国地方の地域づくりと取り組んで、中国山地になんどとなく足を運んだ。そして、中国山地がことのほか好きになり、京都とイメージをダブらせながら、中国山地の盆地に強いあこがれを持つようになった。今想うと、それら小京都と言われる中 国山地の盆地は、ひっそりと落ち着いた雰囲気を持つ、桃源郷のようである。

 

 

 私は、京都に生まれ、京都に育った。小学校は、四年生まで安井小学校である。安井小学校というのは、花園と太秦との間にある。蚕の社というのが学校のすぐ近くにあって、そこの湧水池で良く遊んだものだ。水泳も、嵐山で覚えた。嵐山は歩いて行ける距離にあるので、夏は、毎日のように嵐山に泳ぎに行った。嵐山のあの付近は、一般的には桂川であるが、地元では大堰川と言う。渡月橋のすぐ上流に今も立派な堰があって、その水面が嵐山の風景を殊のほか引き立てているが、その付近には古くから堰があってその名が生じたのであろう。

 

 

今年は、平安遷都1200年ということだが、さらにその昔、秦の始皇帝の子孫と言われる弓月君(ゆづきのきみ)が、多くの人を引き連れて京都に入ってきたと言われている。それが秦氏の祖先である。秦氏というのは、良く知られているように、機織り、養蚕、潅漑、酒造など殖産の技術をもって、全国にその勢力を拡大していった氏族だ。酒の神様松

尾神社は、嵐山のすぐ近くにあるが、秦氏ゆかりの神社である。嵐山の堰も、勿論、秦氏の造営に始まる。蚕の社も、秦氏ゆかりの神社で、松尾神社と同様その歴史は誠に古い。蚕の社で遊び、大堰川で泳いで育った私である。私の歴史好きの源流はこの辺にあるのかも知れない。

 ちなみに、太秦の広隆寺(峰岡寺)について言えば、あの弥勒菩薩は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から拝領してお祭りしたものである。秦河勝は、聖徳太子の側近だが、物部守屋との戦いで守屋の首を打ち落とす功績を上げたと言われている。その功績により、あの弥勒菩薩を拝領したのかもしれない。小説「斑鳩の白い道のうえに」に描かれている守屋との戦いに挑む聖徳太子のあの勇姿は、又河勝の姿でもあったであろう。

 

 

 京都は、身近な所にごろごろ歴史が転がっており、歴史好きにとってはたまらない。いろんな想像をかき立ててくれる。何となくロマンを感じるのは私だけではなかろう。私は、今も京都に帰ると何となしに落ち着く。それは、京都の地形が盆地であり常に周りの山が見えるということもあるが、空気にも歴史の重みが感ぜられ、それゆえに落ち着くということがあるのだろう。

 今年、京都の北山に今西錦司さんのレリーフができたらしい。今西さんはこよなく北山を愛し良く出掛けられていた。私など今西さんを引き合いに出すのも畏れ多いが、私も北山が好きで、北山が私の身体にしみついている。私の登山も原点は北山だ。北山の良さは、勿論山の高さでもなく、原生林と言うような深山の趣でもない。裏山・里山としての

気楽さがあり、七重八重と遥かに続く山並みの見事な風景がある。十分ロマンをかき立ててくれる。「山高きがゆえに貴からず」というところか。

 

 

 盆地というものは、そこに古くからの歴史と文化があり、身じかな自然がある。京都がそうだし、盆地に暮らしていると、自ずと歴史・文化や自然が身にしみつき、歴史・文化や自然と一体になれるということだろう。自ずと地らいを聞き、天らいを聞いているのだろう。私の歴史好き、山好き、哲学好きは、そんなところからきているのかもしれない。

 

 

 

2、荒川ネイチュアーセンター構想

 

 

 

 奥秩父は、荒川、多摩川、笛吹川、千曲川の源流である。その広大な山地には、2,000m以上の山が20もあって、北アルプス、南アルプスに次ぐ高山地帯を形成している。その、奥深い森林と深く刻まれた渓谷の大自然たる姿はすばらしい。私のこれからの人生で、奥秩父の山や谷をできるだけ歩きたい、そのような想いから、一昨年、マルチハビテーションよろしく秩父市に居を定めた。当分金帰月来の週末だけの生活にならざるを得ないので、地域に融け込むにはまだまだ時間がかかりそうであるが、秩父は、その歴史も古く、伝統・文化が豊か、人情も豊かであるので、奥秩父の大自然もさることながら、里の生活にも大いに胸をふくらませている。

 

 

 私は、広島時代、地域づくりにおいてロマンを持とう、或いは我々の生き方においてもロマンを持とう-----、そんなことを言い続けながら、「交流活充運動」という運動を展開してきた。活充という言葉は、一寸耳慣れない言葉であるが、経済的な側面での地域活性化と地域の人々の精神的な充実感、それらを同時に表す言葉であって、活性化の活と充実の充を合わせて作った新語である。すなわち、中国地方で今進められている交流活充運動の、活充という言葉には、従来ややもするとそれに偏りがちであった経済的な側面だけでなく、地域の伝統・文化に根ざしつつ、精神的な心の充実感というものを追及したい、そういう願いが込められている。したがって、交流活充運動が目指す「ロマンある地域づくり」とは、その地域の自然的特性、歴史・文化的特性にもとづき、人々の感受性の深層部分をふるわせるような気配りのされた個性ある地域づくりということになろうかと思うが、私の考えでは、そのようなロマンある地域づくりは、歴史も古く、伝統・文化が豊か、人情も豊か、しかも荒川を中心とするすばらしい自然のある秩父のような所でこそ可能性が高いのではないか。勿論、そのような自然と歴史・文化だけでは経済的な問題が解決される訳のものでもない。そこにもうひとつ何か決め手となるものがなければならない。それは何か。四全総でも言っているが、やはりそれは「交流」というものではなかろうか。

 

 

 秩父青年会議所が進めようとしておられる「荒川・ネイチュアーセンター構想」はすばらしいと思う。水と緑は自然の二大要素であり、しかも水と緑は互いに密接な関係を持っている。川をみていれば山の様子もおおよそ見当がつく。

山が荒れていれば川も荒れざるを得ないし、昔から治山治水というように、川と山は密接不可分な関係にある。川を考えるということは山を考えるということであり、しかも、梅原猛さんが言われるように、山と海という恋人どおしを結びつけるものは川である。川は重要なエコロードと考えることもできよう。そのように考えると、川は自然の最たるもの、そのように考えることができると思う。

 さらに、川の流域というものは、洪水や水資源という面はもとより、経済や文化の面からみても一つの運命共同体をなしている。川は人々の暮らしと特に密接な関係を有している。上下流交流という言葉があるように、地域の交流や人々の交流というものを考えたとき、川という場は交流の場としてもっともふさわしいのではないか。

 自然にふれあい、楽しみ、そして考える、そのような場としての川。しかも、上下流交流を始めさまざまな交流の場としての川。川がそのように活用されればすばらしい、私はそのように考え、全国的な運動を展開しつつあるところであるが、秩父青年会議所が今取り組もうとしておられる「荒川・ネイチュアーセンター構想」については是非実現してもらいたいものだと考えている。秩父青年会議所のみなさんのご活躍を心から願っている。

 

 

 

3、建設省の環境政策について

 

 

 

 本年1月13日、建設省は、環境基本法の基本理念を踏まえ、これからの環境政策の基本的な考え方として[環境政策大綱]を発表した。

 

 

 この政策大綱は、環境基本法の基本理念はもとより、平成4年12月に設置された「豊かな環境作り委員会」での議論を踏まえ作られたものである。その員会は建設大臣の私的諮問機関として設置されたものだが、委員長は日本学術会議や中央環境審議会の会長・近藤次郎先生であり、これから建設省が進めるべき環境政策の方向について、多角的かつ具体的に活発な議論が行われた。当時私も河川局長として議論に参加させて貰ったが、新しい視点での白熱した議論に大変身の引き締まる思いをしたものである。

 この政策大綱は、21世紀初頭を視野においた、建設省における環境政策のこれからの基本となるものであって、当然、河川環境についても今後これに基づいてさまざまな取り組みが必要かと思われる。

 

 

平成6年度も、河川環境に関するいくつかの新規施策が打ち出された。そのうち私が特に注目しているのは、ふるさとの川整備事業の創設、総合浄化対策特定河川事業の創設、都市小河川改修事業や準用河川改修事業の制度拡充である。

 ふるさとの川整備事業は、地域の自主性を活かしながら地域づくりと一体になった川づくりを進めようとするものであるが、従来モデル河川に限定して行ってきたものを一般化して、いよいよ本格的に全国展開を図ろうとするものであ。

 

 

 昨年打ち出された清流ルネッサンス21は、水質浄化に対する市町村及び住民レベルの自主的な取り組みに対し河川管理者も然るべき支援をしようとするものだが、その内容は法河川の中で行う浄化に限られていた。しかし、総合浄化対策特定河川事業制度は、特に必要のある場合、法河川に流入する普通河川においても浄化が行えるようにしたもので、必ずしも清流ルネッサンス21のみを念頭に置いたものではないけれど、私は、総合治水対策にも匹敵する画期的な事業制度が出来たと思っている。

 都市小河川改修事業や準用河川改修事業の制度拡充は、地域の主体性や個性を尊重しきめ細かい河川環境の保全・整備を進めるため、市町村長が実施する河川改修事業を拡充して行こうとするものである。

 私ども河川環境管理財団としても、これら新規施策を念頭に置きながら、地域におけるコミュニケーションのあり方について研究するなど、新たな取り組みが必要ではないかと考えている。

 

 

 

4、私と河川

 

 

 

 自由民主党、社会党、新党さきがけの連立政権発足以来、衆議院の解散総選挙が取りざたされて久しく、候補者は勿論のこと私たち関係者も含め何となく落ちつかない日々を過ごしてきたが、それもやっと終わった。私は、国会議員としてちょうど二周目に入ったところでもあり、ぼちぼち自分のペースをつかみながら、私のライフワークである「川づくり」の活動のほうも少しづつやっていきたいと思っている。私のライフワークが、政治活動とどう関係するのか、その辺はまだ私にも良く判らないが、決して無関係でないことの予感はある。大方のご理解とご協力を切望する次第である。

 

 

 今、世界は、新しい発展と秩序を求めて大きく変貌しつつある。わが国も当然その流れに巻き込まれ、今正にカオスの状態だが、新しい秩序を求め、私たちはこぞって「変革と創造」に取り組まなければならない。新しい秩序というものを創り出すための「変革と創造」は、政治の問題でもあり行政の問題でもある。この度の総選挙を視るまでもなく、今、行財政改革が大きな政治課題になってきており、立法府の責任は誠に重大である。しかし、今後行政府が行財政改革にどういう姿勢でどう取り組んでいくのか、そのことの重要性を軽視してはならないであろう。

 今、規制緩和の大合唱が行われそして官僚批判が横行しているが、私は、その行き過ぎを大変心配している。私たちがこれから創り出していかなければならない新しい秩序というものは、規制緩和の大合唱、つまり「規制は悪である」というような風潮からは決して生まれ出てこない。又、政治家がリーダーシップをとるにしても、官僚の協力がない

と行財政改革なんてものは到底できっこないのではないか。

 今大事なことは、政治と行政との連携である。これからわが国をどういう国に作り上げていくのか、共通の認識に立ってどう連携していくかということだ。言い換えれば、どういう理念をどう共有するかということである。ある部分お互いの信頼関係によって結ばれているということがないと、行財政改革というような大仕事はできる訳がない。第二次橋本内閣もおおむね順調に滑り出した。今後、行財政改革は、政治と行政の連携によって着実に進められていく筈である。

 

 

 さて、私は、21世紀のキーワードとして、共生、コミュニケーション、連携という三つの言葉を考えている。この三つの言葉は、少しずつニュアンスが違うが、哲学としては同根の言葉であって、共生社会を目指そうと言っても良いし、コミュニケーション社会を目指そうと言っても良いし、連携社会を目指そうと言っても余り大きな違いはない。

 私は、政治活動の傍ら、今までの延長線上の活動として、多くの仲間と「川づくり」の運動を実践している。その際の

キーワードは、共生、コミュニケーション、連携だ。私は、リージョナルコンプレックスと言っているが、イギリスのグラン

ドワークやフランスのエコミュージアムに近いものをイメージして貰えばいいのかもしれない。

 

 

 私は、これからの「川づくり」は、地域とのかかわり合いの中で進められなければならないと考えており、技術系だけ

でなく、地域における自然系、文化系、社会系というものが重視されなければならないと考えている。河川管理者と地

域とのコミュニケーションシステム、連携システムをどう育てていくのか。

 私は、多摩川がホームグランドであるので、多摩川でそういう実践活動を行いたいと考えている。そして出来ることな

らば、コミュニケーションがこれからのキーワードでもあるので、パソコン通信やインターネットをフルに活用しながら、

私の理想とする「川づくり」の運動を全国的に押し進めていきたい。

 政治と行政との連携により、今後着実に、行財政改革が進んでいくと思われるが、おそらく、それは、共生社会、コミ

ュニケーション社会、連携社会を目指すものになるであろう。そうだとすれば、それは、私が押し進めようとする「川づく

り」と決して無関係ではない。そういった時代の変貌というものを肌で感じながら、流域の自然系、文化系、社会系をも

考えた、ロマンある「川づくり」というものを官民力を合わせて進めていきたいものだ。

 

 

 

5、21世紀の素晴らしい川づくり

 

 

 

 昭和63年に「河川整備基金」が設立されて以来、はや6年の歳月が経過いたしました。この間、全国の地方募金委

員会をはじめ、企業や国民各層にわたる幅広いご協力により、お陰様で、この5月末現在で237億円余の基金を造

成することが出来ました。ご協力いただいた各位には、心から厚くお礼申し上げる次第です。

 

 

 皆様方ご承知の通り、これまでの営々たる治水事業の積み重ねにもかかわらず、治水施設の整備水準はいぜんと

して低く、わが国のほとんどの地域において、災害や渇水の危機から免れ得ないのが実状であります。したがって、

わが国は、真に豊かさを実感でき、安全で活力ある生活大国の実現に向けて、治水施設の更なる充実はもとより水

害に強い町づくりなど総合的な治水対策の推進を図らなければなりません。

 

 

 同時に、河川環境は、地域の自然そのものであるし、人々の生活文化や精神文化の形成の大きな役割を果たして

きており、うるおいのある美しい河川環境というものを回復または創造していくことも、現下の緊急かつ重要な課題に

なっているかと思います。

 

 

 そして、水害に強い町づくりなどの総合的な治水対策、或いはうるおいのある美しい河川環境の回復及び創造、こ

れらについては、いろいろと地域の皆さんや市町村の想いもあるし、地域の皆さんと市町村と河川管理者とが有機的

な連携のもとに進めていかないとなかなかうまくいかないものと思われます。

 

 

 本基金は、従来の河川管理者サイドだけでは対応が困難であったそういう諸問題についても積極的に対応していこ

う、そういうことを主眼においております。つまり、本基金は、市町村はもとより、企業や国民各層の河川に対するいろ

んな想いと活力を河川行政に有機的に結びつけることにより、21世紀に向けての素晴らしい川づくりを進めていこう

とするものであります。その辺の期待からこれだけの多額の浄財が寄せられているのであって、私ども関係者として

は、本基金の運用に当たってはもちろんのこと、あらゆる場面においてそう言った期待に応えていかなければならな

いと思います。

 

 

 私は、地域の活性化のため、個性ある地域づくりというものがいよいよ重要になってきていると思いますが、「個性

ある地域づくりとは、その地域の自然的特性、歴史・文化的特性に基づき、人の感受性の深層部分を震わせるような

気配りのされた地域づくり」であります。河川とか水というものは、自然のもっとも基本的な要素であります。また、地域

は歴史的に河川とともに発展してきたという側面が非常に強いので、そういう河川と地域との永いかかわり合いの中

で、地域の歴史と文化があると言えます。したがって、個性ある地域づくりにおいて、どのような川づくりをし、それをど

のように活かすかということは極めて重要なことでありましょう。私ども河川環境管理財団は、そういった観点に立っ

て、地域の皆さんと一緒になって、21世紀に向けての素晴らしい川づくりに邁進していきたいと思います。

 

 

 河川整備基金の造成及びその活用につきまして、今後とも引き続き皆様方の絶大なるご支援とご指導をお願い申

しあげますとともに、私ども河川環境管理財団の今申し上げましたような取り組みにつきましても、皆様方のご理解と

ご支援を切にお願い申しあげる次第であります。

 

 

6、黒もじの杖

 

 

 

 奥秩父は、荒川、多摩川、笛吹川、千曲川の源流である。その広大な山地には、2,000m以上の山が20もあって、北

アルプス、南アルプスに次ぐ高山地帯を形成している。その、奥深い森林と深く刻まれた渓谷の大自然たる姿はすば

らしい。私のこれからの人生で、奥秩父の山や谷をできるだけ歩きたい、そのような想いから、一昨年、マルチハビテ

ーションよろしく秩父市に居を定めた。当分金帰月来の週末だけの生活にならざるを得ないので、地域に融け込むに

はまだまだ時間がかかりそうであるが、秩父は、その歴史も古く、伝統・文化が豊か、人情も豊かであるので、奥秩父

の大自然もさることながら、里の生活にも大いに胸をふくらませている。

 

 

 山登りにもいろいろあるようで、今西錦司さんによれば、いわゆる山きちがいにも地域主義と全国主義というのがあ

ると言う。地域主義というのはある地域の山を全部登ってからまた次の地域の山を登る、それに対し全国主義という

のは全国の山を次々と計画的に登る、それぞれそういう登り方をいうのだそうだ。今西錦司さんはいうまでもなく全国

主義で、その全国1200座登山はあまりにも有名だ。今西さんの山登りは、常に「未知なるものに対するあこがれ」と

いうものが基本になっているのだろう。いずれにしろ1200座というのは前人未踏の大記録だ。私は、京都大学学士

山岳会(AACK)や日本山岳会の会員だと言っても、今西さんはおろか私の仲間と比べてさえそれほど山に行っている

訳ではないし、今西さんを引き合いに出しながら自分の話をするのは誠に恐れ多い。でも話の都合上許していただき

たいと思う。私の場合は、若干の例外を除き、ほとんど奥秩父に焦点を絞ってこれからの山歩きをしようと思ってい

る。今西さんのように奥義を究めている訳でもないので、何度も同じ山を登らないとその山の良さが解らないのだ。し

かし、私の場合も、常に何か新しい発見があって、その都度ワクワクしていることに変わりはない。まあ、これも広義

の地域主義だと思うが、私のような山登りがあってもいいだろう。

 

 

 鹿児島県に栗野岳温泉という温泉がある。鹿児島空港から高速道路を北に行って15分ぐらい、栗野インターで降り

る。川内川の上流、もう宮崎県の県境に近いところだ。温泉は、栗野岳の中腹にあり、昔の湯治場だが大自然の中

の実にいい温泉だ。西郷隆盛が気にいっていたのだそうで、旅館がただ一軒、南州館という。湯の種類がいくつかあ

るが、蒸風呂がとてもいい。裏に地獄があって、その蒸気は鹿児島空港からもよく見える。

 

 

九州地方建設局河川部長時代、あれは昭和62年の晩秋であったであろうか、栗野岳に登ろうとして栗野温泉に泊ま

った。その夜、栗野町長の薬師寺忠澄さんと水上勤の「ブンナよ木から降りてこい」に纏わる話などをしながら食事を

していた。突然薬師寺さんに電話があり四元義隆先生が来られたとのこと。町長はとんで帰られたが少し経って又来

られ「四元先生があなたに会いたいと今来られた。すぐ玄関まで出て欲しい。」とのこと。私はびっくりしたがともかく玄

関まで降りていった。もちろん初めてのご挨拶である。四元先生は、今西錦司さんとは哀歓照らす仲で、会って話をし

ているとどちらもお互い勇気が沸いてくるという。ともに超一流の人物ならではの気合だ。

 

 

四元義隆先生は、一般にはあまり知られてないかもしれないが歴代総理の指南役と言われた方で、吉田茂がフラン

スに外遊中四元先生を呼んで次の総理について意見を聞いたと言われている。四元先生は「池田がいいでしょう」と

言われそれで池田勇人が総理になった。そんな逸話が残っている。四元先生の話はそれぐらいにしておくが、ともかく

大変な人物が私に会いに来られたのだ。京都大学の山岳部で私が今西先生の後輩になるというのがその理由だっ

たらしい。そして、明日は君と一緒に栗野岳に登ろうということになって、翌日御一緒したのだった。

 

 今年の5月の連休にも栗野岳に登った。四元先生の直弟子である薬師寺さんや四元先生とは東大柔道部の後輩

に当たる農林省の黒沢君(構造改善局次長)など何人かと一緒だった。四元先生は御自分の庵で待っておられた

が、薬師寺さんは四元先生のために黒もじの杖を切ってこられた。黒もじの杖についてはこんな話がある。・・・・・・・ど

の山であったろうか。

 

 

今西さんは、いつものように頂上でウイスキーのポケットびんを空けその後気持ちよく下山していたのだそうだ。すると

何かが後ろからしきりに今西さんを呼び止める。で後ろを振り返るとそこに黒もじの木が今西さんの杖にして欲しそう

に立っていた。それが今西さんの黒もじの杖だ。・・・・・今西先生はその黒もじの杖を愛用し、四元先生と会う時もいつ

も持っておられた。四元先生はそれを懇望されたのだそうだが、今西先生はそれだけは絶対に手放されなかった。ど

んな大事な人でもそりゃあ手放せないだろう。薬師寺さんはそれを知っておられ四元先生のために切ってこられたと

言う訳だ。薬師寺さんの四元先生に寄せる深い敬愛の情を感じる。

 

 

 その話しを想い出しながら私が思うのは、「今西錦司の黒もじの杖」つまり直感についてだ。今西錦司さんは、直感

力について「山に登ると、目、耳、鼻など五感が鋭くなる。山という別世界、いわば非日常の世界に入ったとき、人間

は日常生活では緊張してない部分が緊張し、その世界で働かなければならないように五感が働いてくれるものだ。

今、日本ならずアメリカ辺りでも座禅やヨガが流行しているが、これも非日常の世界に触れて自分の体と心を研ぎ澄

ますという意味で、山の世界に通じるところがあると思う。」こう言っておられる。私も、山のお蔭だろう、割に直感が働

く方かも知れない。写真を取るとか、植物採取をするとか、バードウオッチングをするのもいいとは思うけれど、ともか

く五感全体を働かし身体全体で自然を感じるという行き方のほうが私は好きだ。そんな山登りが好きなのだ。これから

もせっせと奥秩父の山に登ってせいぜい五感を磨きたいと思っている。

 

 

7、桃源郷への飛翔

 

 

 

 私は、民話がとても好きだ。たいていは夜寝るときに読むのだが、枕元近くの壁際にいつも二三冊の民話の本が置

いてある。今は、十冊ほどの本の中に日本の伝説(上)(松谷みよ子)、利根川のおばけ話〔加藤政晴〕、中国神話伝

説集〔松村武雄編、伊藤清司解説〕の三冊が混じっている。全部のうちどれを読むかはその時の気分次第だが、歴史

ものや民話の本を読むことが多い。民話の場合だとたいていは一つか二つ読むと眠くなってしまう。ほぼ一月ごとに

本が変わるが、同じ民話を何度も読んでいるわけだ。誰でも人生のうち何度か深刻なスランプや苦しいときがある。そ

ういう場合、私は民話を読んでどれほど気分が和らいだことであろうか。民話は音楽と同じだ。

 

 

 民話はどれもいいが桃源境の話を読むことが多い。日本の伝説〔上〕には「磐司と桐の花」と「かくれ里」が、又中国

神話伝説集には「武陵桃源」が入っている。 日本のものも中国のそれと基本的には同じ内容だが、民話の世界も中

国の影響を受けているということだろうか。その辺の事情は私に解らないがともかく夢があっていい。私は、山に行く

たびに感心するのだが、我が国は、本当に山の奥まで人が住んでいて、山里がいたる所に見られるのだ。私は山が

好きなので、山里にはある種のあこがれを持っている。そしてそういう山里のイメージと結び付いて、私にとって、桃源

境は正に夢の中のあこがれでもあり、同時に現実の理想の地域像にもなっているようだ。夢と現実の区別なく言え

ば、裏山・里山には「やまんば」や「やまじい」が居て、狸や狐や猿やキジも居る。里には花が咲き乱れ、鳥が鳴いてい

る。小鮒つりしかの川。私は、そういうイメージでこれからの地域づくりを夢見ている。国土政策も美しい「国土づくり」

が私の夢だ。はかない夢であろうか。ひょっとするとドンキホーティのようであるかもしれない。とうろうの斧を振ろうとし

ているのかもしれない。しかし、何と言われようと、私の心理では夢と現実が一致しているので、私は幸なのである。

 

 

 河合隼雄は、その著書「人間の深層にひそむもの」〔大和書房〕の中でこう言っている。「現代人であるわれわれは、

人間としての存在感を失いつつある。・・・現代人は外界への過剰適応のため、内界の存在を忘れてしまってい

る。・・・意識の合理的な側面よりみれば、まったく荒唐無稽と思われる<お話>が、長い時間を通して語り継がれる

のは、それが内界についての真実を述べているからに他ならない。それが昔話なのである。」つまり、多くの人が抱い

ている今の不安感は、外界と内界、つまり私流に言えば現実と夢ということのなるが、それらの間に存在するギャップ

に起因するという訳だ。そのギャップをどう埋めるかそこが問題だが、昔話に一つの鍵がありそうなのである。

 

 

その点につき私流に説明すると、大いに昔話を読み、想像力をたくましくして心の底にある夢を形あるものとして描き

出し、そしてその実現に努力すること、ということになろうか。昔話は、単に昔の話というだけでなく、今の話でもありこ

れからの話でもある。河合隼雄は、想像力によって内界に存在する真実の姿を覗くことを「想像力の飛翔」と呼んでい

るが、私は、昔話による「桃源境への飛翔」を行っているのかも知れない。

 

 

 宮本常一は、広島湾と周防灘の間の周防大島の出身である。で中国地方では多くのファンが居る。「忘れられた日

本人」に描かれた世界について、石牟礼道子は「ここに描き出されたのはふつう、ふだんの世界であったと思うと、な

おさら切ない情景である。」と述べている。そういうノスタルジアが皆の心に在るから、宮本常一の人気は今なお衰えな

いように見える。

 

さて山崎禅雄さんは、お父さまが亡くなり後を引き継いで今は島根県桜江町江の川のほとりでお寺の住職をしておら

れるが、もともとは宮本常一の弟子である。長い間、雑誌「旅」の編集長もしておられたようだ。中国・地域づくり交流

会のご縁でお知り合いになった。得難きご縁だ。山崎さんは、民俗学で養った鋭い感覚でいろんな話をして下さった。

そのお蔭で、私は民俗学の重要性を知り、宮本常一の偉さを知った。私は山崎さんから「百姓というもののしたたか

さ」を教えられた。時代の移り変わりとともに百姓の生きざまは変わるであろうが、土地がある限りしたたかに生きる

百姓というものはこの世からなくならない。。山崎さんのそんな信念を聞きながら、なるほど「忘れられた日本人」に描

かれた世界は今や桃源境の世界になっているのかも知れないが、そういう世界はきっと取り戻すことが出来ると思っ

た。これからの世紀をしたたかに生きる新しいタイプの百姓を中心にして共生社会を目指していけば・・・だ。それは民

話の世界の現実化でもある。神話と異なり民話は庶民一般のものであり、政治性、宗教性を越えているという意味で

人類的だ。「桃源境への飛翔」によってその構造を明らかにする。そして、それを現実化する、そんな地域づくりを目

指したい。

 

 

 

8、両頭裁断

 

 

 

米山俊直は次のように言っている。少し長いがそれを紹介し、それに関連して私の考えを述べることにしたい。

 

 

「ブラックパワーの首領カーマイケルは、白人と黒人とが一緒に人権などを要求する戦術を捨て、黒人だけのまとまり

を強調している。乱暴に連携を拒否しているように聞こえないこともない。しかし、私は、彼のこの主張も一理あると思

える。私たちは男女は平等であるとか、ヒトはもともと一つの種ホモサピエンスであって、皮膚の色の相違などは小さ

い違いだと教えられてきた。いわばそれは<のっぺらぼうな人間主義>であった。しかし考え直すまでもなく、現実に

存在するのは男か女であるかであり、黒人か白人かあるいは私たちのような皮膚の人間なのだ。人間関係も人間集

団も、そういう現実の上に作られているのであり、その点を落として人間関係一般を問題にし、その連帯を説いたりし

てはいけないのであろう。対話も連帯も、この現実の上に初めて作られるのだと言える。」(文化人類学の考え方、米

山俊直、1992、講談社)

 

 

そのとおりだと思う。全く同感だ。人類は、黒人でもあり、白人でもある。しかし、そういった現実の地平の先に、黒人

でもなく白人でもないという世界がある、我々はそのことをしっかり認識しなければならない。「両頭裁断して、一剣天

に依って凄まじい」という絶対的な認識が必要と言うわけだ。

 

 

今西錦司;個人の自由を無視してしまうことは、間違いであると私は思うんです。だいたい社会といっても個人あって

の社会で、社会と個人というものは併存していて、先後がないものでなければならない。これは人類社会にしても、サ

ルの社会にしても、その他の生物にしてもいえることでございます。社会を先に立てるのも間違いであれば、個と言う

ものを先に立てるのも間違いである。しかし、とかくどちらかにウエイトが偏りまして、そういう時は、人類としては不幸

なときと思わなければならないんですね。

(人類の周辺、今西錦司、1981、筑摩書房)

 

 

個でもなく全体でもなく、また、個でもあり全体でもある。今西錦司さんの考えも、やはり絶対的な認識に基づいている

と思う。今西錦司さんは、私のもっとも尊敬する先生だ。私が、馬鹿に一つ覚えのように、両頭裁断、両頭裁断という

ひとつの所以がここにある。

 

 

 

9、オールランドな山登り

 

 

 

 山登りにもいろいろあって、京都大学の山岳部に入ったばかりの新人時代、私たちは、リーダーのデルファーこと高

村さんや新人係のコッテこと松浦さんなどからオールランドな山登りと言うものを教わった。岩登り、沢歩き、スキー登

山或るいは春、夏、秋、冬ともかくオールランドに登りなさいということであった。ただ、登るべき岩場、沢などについて

は、訓練の場合は別として、いろいろ記録を調べ出来るだけ人の行っていないところを選んだ。いわゆる「初登山」

だ。こういう行き方は、今西錦司、桑原武雄、西堀栄三郎、四手井綱彦、川喜多二郎、梅棹忠男、藤平正夫(日本山

岳会現会長)から続く京都大学山岳部の伝統なのだろう。朱雀高校山岳部時代の山登りとは当然様変わりして本格

的なものになった訳だ。私は、特段これと言うほどの記録もないけれど、それでも先輩或るいは同僚のお蔭でそういう

精神だけは身についたかもしれない。未知のものに対する挑戦の精神である。と言うと誠にキザに聞こえるけれど、

それが今の実感である。どんな山登りでも、その時々において自分なりの新しい発見と言うものがある。しかし、「初登

山」の場合、たとえそれがどんなにささやかなものであっても、自分たちだけが初めてそれを知ったという喜び、それ

は何事にも代え難い。

 

 

 黒部渓谷の支流北又谷川の完全溯行は二度目に成功した。二回とも松尾稔君(名古屋大学前工学部長)と一緒だ

ったかと思う。北又谷川には物凄い絶壁からなる瀞があって、一回目は、そこをどうしても通過できず雨のため退却。

二回目に、アップザイレンが連続してできるところを捜し出して何とかそこを通過することが出来た。誠に残念なこと

に、のち後輩が我々の記録をみてそのルートに入り遭難死したが、そういう難所をやっとの思いで通過して見た「魚止

めの滝」の景観は今でも目に焼き付いている。滝の高さは、60乃至70メートルもあったろうか。滝の上は岩が削られ

て丸い窓のようになっている。その「丸窓」からほとばしる激流。どこまでも深い滝壷の色。回りの絶壁のいよいよ神秘

気的なその佇まい。忘れられない景観だ。佐渡から新潟に向う連絡船から見た満月に映える「金波、銀波」を絵にし

たような景色も私の忘れられない景色だが、やはり山には心に焼き付いた景色がいくつかあって、私の人生をそれだ

け豊かにしているようだ。

 

 

 北海道の日高山脈にあるルートオルマップ川の完全溯行は失敗に終わったが、まずは人の行かないところだけに、

私たちだけの自慢話がいくつかある。安田君(大日本土木常務取締役)と一緒だった。完全溯行もこれで成功かと思

った頃雪渓が我々の行く手を遮った。今にも崩れ落ちそうなので尾根に逃げることにしたのだが、雪渓の上を恐る恐

る左岸に渡って尾根に取り付こうとしたとき、誰かがトンと足で雪渓を叩いた。その途端、雪渓全体がどどっと一気に

崩れ落ちたのである。皆が渡り終わったときで何ともなかったのだが、私は寒気が背筋を走った。そのほか、夜にテ

ントの周りを熊にうろうろされた話、寝袋の中までバルサンを焚いてもどうにもならなかった猛烈なヤブ蚊の群れ、背

丈の倍ほどもある笹ヤブの海のなかで身動きが取れ無くなりそうになった話など、冬の分を急いで取り戻すかのよう

にともかく夏の日高山脈は生命力が旺盛だ。

 

 

 そういう難行苦行をして私が思うのは、やはり自然との付き合いの難しさということだ。特に春先は鳥の声で雪崩が

起こることもあるし、私たちは、雪崩の起こりそうなやばい雪渓を通過するときは夜も明けやらぬ早朝とした。沢歩き

をしているとしょっちゅうマムシに会うし、薮こぎをしていてスズメバチに会う事も少なくない。マムシもスズメバチも下手

をすると命を落とし兼ねない。見かけたときはできるだけ静かにしてともかく相手を刺激しないことだ。ちなみに、沢歩

きはわらじが一番いい。最近いろいろ渓流釣り用の地下足袋が出ているが、やはり普通の足袋にわらじを履くのがい

 

 

 

 

 

 

 

 

       ・・・講演・・・

 

 

 

 

 [目次]

 

1.川のロマンと21世紀に向けて

 

 

川と公園・・河川環境施策の経緯

2.多摩川における河川環境への取り組み

3.建設省の河川環境施策・・その経緯 明日の河川環境を求めて

4.河川環境についての最近の動向

5.川づくりのコミュニケーション

6.明日の河川環境を考える新たな視点 河川公園の事例

7.河川公園整備の動向

8.特色ある河川公園の事例

9.川と公園

10.水と緑のプロムナード

11.治水緑地

12.水と緑のマスタープラン

13.川の風景・・その修景と視点場の整備

14.水と緑の回廊・・その本格的整備

15.既設の河川公園・・その点検と整備

 

 

九頭竜川を生きる

16.はじめに

17.川づくり、地域づくりのネットワーク

18.ロマンある地域づくり・・特に過疎地域を意識して・・

19.歴史を生きる

20.九頭竜川治水の歴史

21.九頭竜川を生きる

 

 

 

1、川へのロマンと21世紀に向けて

 

 

予想というものはなかなか当たらないものですね。

最近、Jリーグが大変な人気ですけれど、私はJリーグがこんなに人気を博するとはまったく思ってもいなかっ

た。プロ野球のほか何かもうひとつプロスポーツができるだろうとは思っていましたが、サッカーではなく、わたく

しの予想では、希望的観測もあるかも知れませんが、アメリカンフットボールだったのであります・・・・。

 

私が九州地建の河川部長時代、九州ではプロ野球球団の誘致が大きな話題になっていました。県議会でも話

題になったりしていましたので、知事さん方の間でもそのことが話題になったりしていました。ある知事さんは、

持ってくるならやっぱりセ・リーグだけれも、セ・リーグは10チーム制にならないと難しい、といっておられました

し、それに対し、ある知事さんは、10チーム制なんてものはいつのことやらわからないので、絶対パ・リーグか

ら持ってくることを考えるべきである、そういったやりとりもあったと記憶しております。結局、思いがけないことだ

ったと思いますが、ダイエーがきて悲願達成ということになるわけですが、当時はとても予想困難、というよりむ

しろ悲観的な見通しが支配的だったかと思います。そこで私が考えましたのは、アメリカンフットボールだったの

です。

 

ご承知のように、アメリカの文化はどんどん日本に入ってきていますし、スポーツもそうであります。そして、アメ

リカのプロスポーツではアメリカンフットボールがもっとも人気が高い。従って、プロ野球につぐ次のプロスポーツ

としては、アメリカンフットボールだろうと思っていたのであります。もし東京や大阪でアメリカンフットボールのプ

ロチームが誕生するようなときには、絶対九州でも作らなければならない、そしてそのときには私も一肌脱ごう、

そんな風に決心しておりました。しかし、これはまったく当てがはづれてしまい、その後アメリカンフットボールに

ついてはそういった動きは全くなく、逆に、Jリーグが水星のように現れ、あっという間にJリーグがプロ野球をし

のぐ大人気となったのであります。

時代を見る目が私になかった、そういうことになりますが、アメリカンフットボールのプロリーグが日本にもできる

であろうという予想がはづれたことについて結果的に思うことがあります。それは、「地球規模の動き」ということ

であります。これからの国際化の時代にあって、もちろんアメリカとの関係は特に重要であるし、ヨーロッパ・アメ

リカなど先進諸国との関係を重視しなければなりませんが、やはり世界全体、発展途上国を含めた地球規模の

動きというものに目を向けていないとダメだということであります。サッカーは南アメリカやアフリカ諸国でも大変

な人気であります。それに比べて、アメリカンフットボールはアメリカだけのもの。私としてはサッカーよりアメリカ

ンフットボールの方がおもしろいと思いますが、やはりアメリカンフットボールにはそれだけの限界性があるとい

うことでしょうか。アメリカではやっているから日本でもはやる、アメリカのものだからいいということではなさそう

であります。

 

さて、今西錦司の「棲み分け論」というのがあります。ダーウィンの進化論に対し、今西進化論として有名であり

ますので、ご存知の方も少なくないと思います。御承知のように、ダーウィンの進化論というのは,最適者が生

存するためには自然淘汰が働いている、という理論でありまして、弱肉強食というか、激しい生存競争の世界で

あります。それに対し、今西さんは、種の個体レベルでは、例えば、ヘビがカエルを食うように、ある生物がある

生物を食うというようなことは当然あるけれど、----種という単位で考えれば、種の間に生存競争がある訳でな

く、違った種同志がお互いに共存している、と言んですね。例えば、ヘビ全体はカエル全体をほろぼさない----

ヘビという種とカエルという種は、共にこの世を立派に生きている。私流にかなりデフォルメして説明しておりま

すけれど、弱いものもおっとどっこい生きている、こういうのが今西錦司の「棲みみ分け論」でありまして、----そ

ういった平和共存の考え方を基本にして生物の進化を説明するのが、今西進化論であります。そして、今西さ

んは言われます。ダーウィンの進化論は、マルサスの人口論の影響を受けている----このことは疑う余地のな

いところであってダーウィンの進化論は、強い者が勝つのは当然、神に選ばれた者のみが幸いであるという、西

欧社会の伝統というか、西欧文化に根ざしたものであると、----こう言われるのであります。

 

 今西さんは、私の京都大学山岳部の大先輩でもあり、私のもっとも尊敬する偉大な先生でありますが、私の

尊敬する人に、もう一人、梅原猛さんが居られます。 梅原先生は、平和について、哲学者として鋭く指摘してお

られます。ヨーロッパの思想はどう考えても力の思想である。----ところが、力の思想では、世界はもはややっ

ていけないのではないか。----平和の原理慈悲の原理に立った、新しい、文明を築き上げていく、このことは、

新しい時代の要請として今世界に課せられた大きな課題ではないか、----そして、東西文明の統合、その中か

ら新しい文明が拓かれてくるのだが、日本は、そのために力を尽くさなければならない。----日本は、ヨーロッ

パの科学文明の取り入れに成功し、しかも、多くの伝統文化の遺産を持っている。そういった日本には、今やっ

と新しい文明創造へのチャンスがやってきた。----このように梅原先生は言われます。

 

 私の口ぐせでありますが「内平らかに外成る」、「地平らかに天成る」、平成の時代とは、平和の時代でありま

す。わが国の伝統と文化に根ざし、しかも国際的視野に立って、高い理想を追求する時代、それが平成という

時代でありますが----それは一言で言うならば、----ロマンの時代であり、----平和の時代であります。わが

国は、今正に、世界のために新しい平和の哲学と平和の文明を創り出していかなければなりません。私の予感

としては、平和の文明というものは、----多分----慈悲、仏教に言う慈悲ですね----その慈悲に対する哲学的

な思想と実践から生まれてくるのではないか、そのように思います。慈悲という言葉が仏教くさくて古いと言うの

であれば、コミュニケーションと言い換えてもいいかもしれません。

 

 コミュニケーションということについての哲学的な思索と実践活動、その中から世界におけるこれからの新しい

文明、平和の文明というものが芽生えてくるのではないか。コミュニケーションというものは年齢、性別、言葉、

思想、宗教などすべての違いを乗り越えて行われるところに、その哲学的な意味があります。梅原先生は、世

界におけるこれからの新しい文明、平和の文明の原理は、「循環と共生」だとおっしゃっておられますが、慈悲と

かコミュニケーションということも、共生の一側面であり、平和を考える際の大事なキィーワードであります。

 

 ところで、皆さん方は、アメリカにある自由の女神を御存知だと思います。あのニューヨークの自由の女神は、

フランス革命百周年記念のモニュメントでございまして、フランスの提案によって建てられたものでございます

が、あの自由の女神に象徴されますように、この二十世紀という世紀は、アメリカという国が中心になりまして、

自由というひとつの理想が世界を変えていった、そういう世紀であったと思います。つまり、二十世紀は、自由の

世紀であったと言って過言ではないと思います。東欧諸国や旧ソビエト連邦の動きを見ても判りますように、遂

に、この二十世紀は、自由の女神の勝利に終わろうとしております。----しからば、来るべき二十一世紀は、ど

んな理想が世界を引っ張っていくのか、そこが問題であります。二十世紀に続きまして、やはり自由の女神が世

界の女神であり続けるのでしょうか。それとも何か新しい理想が高らかに掲げられるのでありましょうか----。

 

 フランス革命後二百年を目前にして、実は、フランスからわが国にプロポーズがございまして、今、関係者の

間で準備中とのことでありますけれど、自由の女神に続く二十一世紀の新しいモニュメントが、我が国の淡路島

に、本四架橋明石ルートの完成を機に建てられようとしております。----そのテーマは、コミュニケーションという

ことになりそうであります。----二十一世紀の世界をリードする理念、或いは理想として、このコミュニケーション

というコンセプトは実にいい、私はそのように考えています。コミュニケーションは、二十世紀の自由に代わる、

世界における、二十一世紀のすばらしい指導理念、すばらしい理想ではないかと考えております。----

 

 さて、近年、潤いとかアメニティー、あるいは環境ということがたいへん重要な時代になってきていることは皆

様ご承知の通りであります。河川の環境についても地域の皆さんの関心がたいへん高くなってきております。町

づくりのなかであるいは国民的な自然志向の中で、河川の環境ということがたいへん重要な課題になってきてい

るかと思います。

 

 現在、河川事業は、第8次治水事業5カ年計画にもとづき進められておりますが、平成4年度からスタートして

いるその5カ年計画ではじめて河川環境ということが大きく取り上げられました。3つの柱の内ひとつの柱が「水

と緑豊かな生活環境の創造」ということであって、町づくりの中で水と緑豊かな生活環境をつくっていこう、その

際河川事業としても積極的に協力していこうということであります。もちろん、河川の環境整備については、昭和

40年代の中ごろに事業制度ができておりますし、過去それなりに努力が払われてきましたが、建設省のいや

国の重点的な施策として取り上げられたのは、5カ年計画にそういった柱が立てられてからと言っていいかと思

います。昭和40年代の中頃にスタートした河川環境整備事業は、河川敷を運動公園その他公園として積極的

に利用していこうと言うことと、中小河川の浄化のため浄化用水を大河川から導水してこようというものでありま

した。その事業のおかげで全国の河川の環境はかなり改善されたかと思います。その後、建設省の工事事務

所などを中心としていろいろ新しい取り組みが行われていきますが、それらは現場サイドの自主的な努力であ

り、制度的に注目すべきは昭和62年度の「ふるさとの川モデル事業」のスタートでありましょう。このふるさとの

川モデル事業というのは、河川の改修工事を進める際、公園事業や街路事業など都市計画事業と一緒になっ

て潤いのある河川をつくっていこうというものであります。言うなれば、町づくりと一緒になって潤いのある河川環

境をつくっていこうというものであります。そのほかにも、「桜づつみモデル事業」とか「マイタウン・マイリバー整

備事業」とかが創設され、「水と緑豊かな生活環境の創造」という柱が打ち立てられた平成4年の5カ年計画、つ

まり現5カ年計画ではさらにいろんなメニューが追加され、現在に至っております。現在では、例えば「多自然型

川づくり」とか「魚の上りやすい川づくり」とか自然にも配慮した川づくりなども積極的に行うようになりました。

 

 また、みなさんがたも新聞などでご承知かと思いますが、去る1月13日、建設省は、これからの環境政策の

基本的な考え方[環境政策大綱]なるものをを発表しました。

この政策大綱は、平成4年12月に設置されました「豊かな環境作り委員会」、この委員会は建設大臣の諮問に

おおじて設置されたものですが、委員長は日本学術会議の会長でもあり中央環境審議会の会長をしておられる

近藤次郎先生ですが、その委員会の議論がベースになってつくられたものです。もちろん、この政策大綱は、環

境基本法の制定の後できあがっておりますので、環境基本法の基本理念をしっかりふまえたものになっている

かと思います。21世紀初頭を視野においた、建設省における環境政策のこれからの基本となるものでありま

す。

 

 内容は多岐にわたっておりますが、特にみなさん方に関係のある点として、私が注目している点を申し上げれ

ば、建設省としても、今後、ボランティア活動を積極的に支援しながら、市民と連携した環境づくりを進めていこ

うと言う点であります。さきほどコミュニケーションの重要性について私の持論を述べましたけれど、ボランティア

活動を支援しながら市民と連携した河川環境作りを進めていく、そのことを私のライフワークと考えているもので

すから、建設省がそういう考え方を正式に打ち出したということで、私は大変うれしく思っているのであります。

 また、河川環境をよくする場合、河川についてはもちろん河川局が中心であり、河川局の努力がまず一義的

に大切でありますすが、河川環境については、公園との関係や下水道との関係などほかの部局との関係が大

変密接なものがありますので、やはり建設省全体の取り組み姿勢というものが大事だと思います。環境政策大

綱に述べられているような基本的スタンスで今後建設省全体が動いていけば、世の中は相当大きく変わるもの

と思われます。大いに期待したいものであります。

 

 さて、何をやるにしてもこれからは交流ということがきわめて重要なキーワードになる、そのことは先程述べた

通りであります。異業種間交流とか産学官の交流の重要性が言われてから久しいかと思いますし、ご承知のよ

うに四全総においても地域間の交流が大きなテーマになっております。しかし、交流と言うことがいろんな分野で

本格的に進められるようになるのは、むしろこれからで、町づくりとか地域づくりと言った場面において産、学、

官、野の交流ということが近年ますます重要になってきているのではないでしょうか。河川環境といいますか、川

づくりにおきましても、近年人々の関心が大変高まっており、産、官、学、野の交流、あるいは地域住民と行政と

のコミュニケーションというものが今や大変重要になってきている、私はそのように考えております。

 

 河川環境については、これもまた先程述べましたように、結構古くから取り組んできてはいるものの、治水事

業5カ年計画の重要な柱として本格的といいますか真正面から取り組み始めたのはごく最近のことであります。

建設省の環境政策大綱ができたことでもありますし、今後さらに積極的な取り組みが必要でしょう。そしてその

場合きわめて重要なことは、地域住民と行政とのコミュニケーションということであります。洪水対策や水資源開

発につきましては、広域的な視点が特に重要であり、たとえ地元の反対があってもやらなければならない場合

があります。もちろん地元の理解を求めるため最大限の努力をするわけですが。強力な反対があるからやめる

と言うわけにはいきません。そういう意味では、広域的な立場が優先されると言うことかもしれません。それに対

し、河川環境については、広域的な視点がもちろん不必要と言うことではありませんが、むしろ地先の希望が優

先されるべきでしょう。洪水対策や水資源開発は広域的、河川環境は地先主義的と言っていいかもしれませ

ん。したがいまして、河川環境につきましては市町村という行政体を通じて地元の人々の思いが何らかの形で

反映されることが望ましいと思います。コミュニケーション。地元の人々と行政とのコミュニケーションというもの

が重要だと思うわけです。私は、21世紀はコミュニケーションの時代であるという認識に立ちながら、様々な交

流活動を実践あるいは応援しているところですが、本日は、これからの川づくり、環境に配慮した川づくりを進め

るに当たって、行政と地域住民とのコミュニケーション、あるいは産、学、官、野とのコミュニケーション、さらに

は地域間のコミュニケーションというものが重要である、その点をまず強く訴えておきたいと思います。

 

 私といたしましては、コミュニケーションというものを大切にし、交流活動を実践あるいは応援しながら、これか

らの川づくりに尽力していきたいと思います。全国組織として<水の環境交流会>というのがあり、私も入って

おりますので、水に環境あるいは川の環境に関心のある方は是非参加していただきたい。私の予感としては、

そういった交流活動、コミュニケーションの実践活動の中から21世紀の新しい文化が生まれてくるのではない

か、そんな風に思います。川についての交流活動、そしてそれから生まれでる21世紀の新しい文化、それが私

のロマンであります。それでは本日の結論的な話として、その点、もう少し話を続けさしていただきたいと思いま

す。

 

 さて、みなさん方、河川環境といいますと、河川敷の公園的な利用とか魚釣りやカヌーなどの利用、あるいは

魚や鳥、昆虫、植生などのいわゆる自然生態系を思いうかべられると思います。それはそれでいいかと思いま

すが、私としてはもう少し広く考えたい。河川と伏流水との関係、河川とため池や農業用水との関係、あるいは

流域の林相といいますか森林と河川との関係など水系環境として河川の環境をみていきたい。これから河川の

環境を論ずる場合、水の循環という視点が重要かと思います。次に、河川に関連する社会的な環境、例えば農

業用水の管理体制はどうなっているか、河川愛護団体の活動や組織はどうなっているか、それから河川モニタ

ーや河川愛護モニター、さらには河川里親制度がどうなっているのか。リバーカウンセラーもありますね。そうい

ったことは、川づくりといいますか、いい河川環境をつくっていこうとする際に当然関係してくる訳でしょう。つま

り、そういった社会的な環境を重視しないで河川環境を論ずるわけにはいかない訳です。河川の利用状況も河

川の社会的環境ということですが、今申しました諸々のことも含めて河川の社会的環境というものを考える必要

がある訳であります。河川の自然生態系と社会系、次に文化系ということを申し上げます。

 

 古代、弥生時代に入って、クニグニは河川のほとりに発生し、湿地の水田化、農業水利の整備など河川との

かかわり合いの中で、そう行ったクニグニは発展していった。もちろん、洪水との戦いがあったことでしょう。そう

いった古代から中世、近世、近代とたいへん長い歴史の中で、地域は、河川と深い関わりを持ちながら発展し

てきました。中村二郎先生は、「我々は、身体で生きるのではなくて、身体を生きるのだ」とおっしゃっており、ま

た「それと同様に、我々は、歴史にいきるのではなくて、歴史を生きるのだ」とおっしゃっておりますが、歴史とい

うものは、我々の身体と同じように大変大事なものであります。歴史に学ぶとよくいいますが、そういったことだ

けではなく、歴史というものは、我々の意識に関わってきますので大変大事なのであります。河川を語るとき、そ

の歴史を忘れてはいけません。河川工事の歴史はもちろんのこと、河川と地域のかかわり合いの歴史を忘れ

てはいけません。さらにいうならば、樋口忠彦先生がおっしゃっていますが、「我々の意識の中に、縄文時代か

ら遺伝子に組み込まれてきたところのー原風景ーというものがある」。遺伝子云々はともかく、その地域の歴史

も大きく関係しているその地域の風土、風土というものにその地域の人々の気質とか意識がかなり関係してお

りますので、歴史・風土というものを抜きにして河川の環境を論ずるわけにはいかないと思います。歴史からくる

ところの、その地域のお祭りとか文化、そういったことも人々の意識と大いに関係しておりますので、それらも忘

れるわけにはいかない。河川環境と歴史・文化、大変大事な課題だと思います。私は、地域のボランティア活

動、その最たるものが水防だと思いますが、そういったことも一種の地域文化であり、川づくりにあって忘れては

ならない大事な要素であると考えております。以上長々と述べましたが、文化という系ですね、これがこんご河

川環境の問題を考えていく際に結構大事なのではないか、そんな風に思うわけであります。

 

 河川環境の三代要素、自然生態系と社会系と文化系、それらを考えながらこれからの川づくりを進めていき

たいものであります。そして、そういったこれからの川づくりは、さまざまな交流活動あるいは連携によって進め

られる、言うなれば私は共生社会の一つの姿を夢見ているわけですが、私の予感としては、そういった動きが

わが国の社会に広く定着していけば、多分、そのことが第三の文明というものを作り出していくことに繋がってい

くであろう、そんな風に感じている訳であります。明日のすばらしい川づくりと交流活動、そして共生社会と第三

の文明、そんなものを夢見ながら、「川へのロマンと21世紀に向けて」という私の話を終わりたいと思います。ご

静聴ありがとうございました。

 

 

2、川と公園

 

 

1 河川環境施策の経緯

 

(1)多摩川における河川環境への取り組み

 

 昭和の初期、多摩川の沿川地域は、下流部を中心として次第に都市的な土地利用が進んでいくが、それに伴

って多摩川の河川敷もゴルフ場、野球場、学校の運動場など都市的な利用が進んでいく。戦前はそれらのほと

んどは農耕地となって、今言うところの家庭菜園的な利用も多くみられたようである。しかし、戦後になって、都

市化の進展とともに再びゴルフ場、野球場、運動場などが増えていって、昭和35年頃には、農耕地がほとんど

姿を消したようだ。

 

 昭和39年という年は、新河川法が制定された年でもあり、多摩川の河川敷利用を語るとき一つの区切りの年

である。その昭和39年における多摩川の河川敷利用についての占用許可件数及び面積は、一般企業の運動

場41カ所、公共団体の運動場20カ所、ゴルフ場6カ所、自動車練習場3カ所、飛行場1カ所、競馬練習場1カ

所、その他農耕地などを含めて合計約376haとなっており、一般企業のもの、営利的なものが多く、一般公衆

の用に供するものの少ないことが目につくであろう。

 

 東京オリンピックはわが国の社会経済全般にわたって大変大きなインパクトを与えたが、そういったオリンピッ

クムードの中で、昭和39年10月には、「国民の健康、体力増強対策について」閣議決定がなされた。そこで

は、体育増強、スポーツおよびレクレーションを普及することが重点事項として取り上げられ、そのための施設

整備を積極的に進めることとされている。これを受けて昭和40年には、国民一般が家族連れで日常気軽に体

力作りに親しめるよう、「国民広場」と言うべきものを大都市周辺の河川敷地を利用して設置する、そういったこ

とが国の方針として決定された。

 

 多摩川の河川敷は、全国の河川ではもっとも高密度に利用され新たに国民広場と言うようなものを作る余地

があまりないし、民間企業の占用しているゴルフ場などが大変多く、勢いみんなの目がそういうところに向かうの

は当然であろう。かんかんがくがく関係者の間でいろんな議論があったが、昭和40年、建設省は、多摩川河川

敷を一般公衆の利用に供するための「多摩川河川敷地の開放計画」を決定、その実現に乗り出すこととなる。

 

 これにより、公共団体の運動場や公園・緑地は大幅に増えることとなったが、国民生活の向上に伴って、更な

る開放を求める声が高まった。そこで、建設省は、昭和49年、引き続き第2次開放計画を策定し、営利的な利

用を縮小し一般利用の拡大を図ることとした。第1次開放計画と第2次開放計画によって、公共団体の運動

場、公園・緑地は、以前の20カ所77haが、85カ所350haに増えた。箇所数で4倍、面積で5倍弱である。

 しかし、これは、都市の運動場不足や公園不足を多摩川の広大な河川敷で代替しようとするものであったの

で、都市における絶対的な運動場不足や公園不足が続く限り、多摩川の河川敷は運動場や公園だらけになっ

て多摩川の自然環境が著しく損なわれることになりはしないか、そんな心配もでてきた。そんな危機感から、多

摩川における自然保護運動が野火のように燃え上がったのである。ご承知の方は少ないと思うが、多摩川は全

国における自然保護運動の発祥の地である。

 

 都市における絶対的な運動場不足や公園不足の中で、多摩川の河川敷に運動場や公園を求める動きは、

確かに沿川の市区町に根強いものがあった。これも、住民のニーズに応えようとする動きであって、十分理解で

きることである。国が河川の管理に当たって公共団体の意向を十分尊重しなければならないのは当然であっ

て、そう言った公共団体の意向と自然保護運動の狭間で我々は一体どうすればいいのか。京浜工事事務所

は、そのことを真剣に考え、多摩川の河川敷利用に関する沿川住民アンケート調査、多摩川の植生調査など多

くの調査を進めてきたが、昭和50年度になって、さらにそれら調査を充実させるとともに広く学術経験者の意見

を聞いて、多摩川の河川環境に関するマスタープランを策定することとした。

 

多摩川においてそういう河川環境に関する計画策定作業がスタートしたことを受けて、建設省では、地域社会に

おける河川環境の将来像及び管理方針について検討すべく、河川環境管理財団に調査研究を委託した。

 河川環境管理財団では、直ちに山本三郎氏を委員長とする「河川環境管理委員会」を設置した。そして、昭和

51年7月には、同委員会の答申として「多摩川、荒川、江戸川の河川環境の将来像の基本方向について」とい

う答申が出された。多摩川の河川環境管理計画は、その委員会の下に設けられた西川喬氏を委員長とする

「多摩川部会」において原案を策定することになったが、その策定作業において、この答申がベースになったこ

とは言うまでもない。

 

 詳細は省略するが、一つだけ重要な点を述べておくと、治水及び利水機能に対する配慮を十分行うは当然の

こととして、河川敷の利用にあたっては、「河川でなければ果たせない機能をまず確保する必要があり、他の陸

域では代替のできぬものを優先する必要がある」ということが明確に述べてあって、都市の絶対的な運動場不

足や公園不足から、安易に河川敷にそれを求めようとする機運に対し警鐘を鳴らした内容のものになってい

る。

 

 

(2)建設省の河川環境施策・・その経緯

 

 東京オリンピックの開催の開催された昭和39年という年は、たまたま新河川法の制定された年でもあるが、

建設省の河川環境施策を語る上で忘れ得ない年である。新河川法の制定と東京オリンピックが契機になって、

都市河川を中心にして河川敷をめぐってのいろんな施策が始まった。その主たるものは、占用許可準則の制定

と解放計画の実施であるが、多摩川の第1次開放計画もほぼ終わった昭和44年には、建設省は、「都市河川

環境整備事業」を発足させた。

 

 この都市河川環境整備事業というのは、河川敷地を運動公園その他都市公園として積極的に利用していこう

という事と、中小河川の水質浄化のため浄化用水を大河川から導水してこようというものであるが、建設省とし

て初めて河川環境改善のために事業展開を図ったものであり、この年もまた建設省の河川環境施策を語る上

で忘れ得ない年である。この事業制度のおかげで全国の河川環境は随分改善されたかと思う。

 

 そのような河川敷地における運動公園その他都市公園の整備が逐次進む中で、人々の河川環境に対する関

心も次第に高まっていき、そして多摩川を中心として自然保護運動も次第に熱を帯びるようになっていった。昭

和50年代は、都市におけるアメニティーが言われ始めた時でもあるが、町づくりの中で河川を活かしたい、そう

いう動きも少しづつではあるが出てきて、河川環境の重要性がいろいろと言われるようになった。

 そういう状況の中、昭和54年に、多摩川河川環境管理計画が出来上がった。それが一つのきっかけになっ

て、河川局では河川環境管理を河川行政の中でどう位置づけるか、河川局の重要課題として認識されるように

なる。

 

 そして、昭和56年3月には、治水、利水と調和のとれた望ましい河川環境管理のあり方について、今後の方

向を得るため、建設大臣から河川審議会にその旨の諮問が行われた。そして、昭和56年12月に、河川審議

会は「河川環境のあり方について」歴史的とでも言える答申を行ったのである。つまり、この答申をもって、河川

環境の管理は、治水、利水と並ぶ河川行政の主要な柱になった。以後、河川行政は大きく変わっていく。

 

 紙面の都合もあって、その答申の内容を紹介できないが、重要な点は、河川環境管理計画の位置づけが明

確になった点であろう。答申では、「河川環境管理基本計画」と言っており、以後そのような呼び方が一般的に

なったが、多摩川で策定されたとものと同趣旨のものと考えてもらえばよい。

 ただし、河川環境管理基本計画には、水量及び水質の総合管理に関する「水環境管理計画」と河川空間の

適正な保全と利用に関する「河川空間管理計画」の2種類の計画があり、多摩川河川環境管理計画はその後

者に当たる。

 

 

 

3 明日の河川環境を求めて

 

 

 

(1)河川環境についての最近の動向

 

 近年、潤いとかアメニティー、あるいは環境ということがたいへん重要な時代になってきているが、河川の環境

についても地域の皆さんの関心がたいへん高くなってきている。

町づくりのなかであるいは国民的な自然志向の中で、河川の環境ということがたいへん重要な課題になってき

ているかと思う。

 現在、河川事業は、第8次治水事業5カ年計画にもとづき進められているが、平成4年度からスタートしている

その5カ年計画ではじめて河川環境ということが大きく取り上げられた。3つの?撃フ内ひとつの柱が「水と緑豊か

な生活環境の創造」ということであって、町づくりの中で水と緑豊かな生活環境をつくっていこう、その際河川事

業としても積極的に協力していこうということである。もちろん、河川の環境整備については、昭和40年代の中

ごろに事業制度ができているし、過去それなりに努力が払われてきたが、建設省のいや国の重点的な施策とし

て取り上げられたのは、5カ年計画にそういった柱が立てられてからと言っていいかと思う。

 

昭和40年代の中頃にスタートした河川環境整備事業は、河川敷を運動公園その他公園として積極的に利用し

ていこうと言うことと、中小河川の浄化のため浄化用水を大河川から導水してこようというものであった。その事

業のおかげで全国の河川の環境はかなり改善されたかと思う。その後、建設省の工事事務所などを中心として

いろいろ新しい取り組みが行われていくが、それらは現場サイドの自主的な努力であり、制度的に注目すべき

は昭和62年度の「ふるさとの川モデル事業」のスタートであろう。このふるさとの川モデル事業というのは、河川

の改修工事を進める際、公園事業や街路事業など都市計画事業と一緒になって潤いのある河川をつくっていこ

うというものである。言うなれば、町づくりと一緒になって潤いのある河川環境をつくっていこうというものである。

そのほかにも、「桜づつみモデル事業」とか「マイタウン・マイリバー整備事業」とかが創設され、「水と緑豊かな

生活環境の創造」という柱が打ち立てられた平成4年の5カ年計画、つまり現5カ年計画ではさらにいろんなメニ

ューが追加され、現在に至っている。現在では、例えば「多自然型川づくり」とか「魚の上りやすい川づくり」とか

自然にも配慮した川づくりなども積極的に行うようになっている。

 

 また、みなさん方も既にご承知のように、去る1月13日、建設省は、[環境政策大綱]を発表した。河川環境

については、もちろん河川局の努力がまず一義的に大切であるが、公園との関係や下水道との関係などほか

の部局との関係が大変密接なものがあるので、やはり建設省全体の取り組み姿勢というものが大事だと思う。

環境政策大綱に述べられているような基本的スタンスで今後建設省全体が動いていけば、世の中は相当大きく

変わるものと思われる。大いに期待したいものである。

 

 

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(2)川づくりとコミュニケーション

 

 環境政策大網の内容は多岐にわたっているが、私が注目している点を申し上げれば、建設省としても、今

後、ボランティア活動を積極的に支援しながら、市民と連携した環境づくりを進めていこうと言う点である。さきほ

どコミュニケーションの重要性について私の持論を述べたけれど、ボランティア活動を支援しながら市民と連携

した河川環境作りを進めていく、そのことを私のライフワークと考えているので、建設省がそういう考え方を正式

に打ち出したということで、私は大変うれしく思っている。したがって、川づくりとの関係で、今少しコミュニケーシ

ョンとか交流ということについて話をしておきたい。

 

 異業種間交流とか産学官の交流の重要性が言われてから久しいかと思うが、ご承知のように四全総において

も地域間の交流が大きなテーマになっている。しかし、交流と言うことがいろんな分野で本格的に進められるよ

うになるのは、むしろこれからで、町づくりとか地域づくりと言った場面において産、学、官、野の交流ということ

が近年ますます重要になってきているのではないか。河川環境というか、川づくりにおいても、近年人々の関心

が大変高まっており、産、官、学、野の交流、あるいは地域住民と行政とのコミュニケーションというものが今や

大変重要になってきている。

 

 河川環境については、これもまた先程述べたように、今後さらに積極的な取り組みが必要であるが、その場

合きわめて重要なことは、地域住民と行政とのコミュニケーションということである。洪水対策や水資源開発に

ついては、広域的な視点が特に重要であり、たとえ地元の反対があってもやらなければならない場合がある。も

ちろん地元の理解を求めるため最大限の努力をするわけだが、強力な反対があるからやめると言うわけには

いかない。そういう意味では、広域的な立場が優先されると言うことかもしれない。それに対し、河川環境につい

ては、広域的な視点がもちろん不必要と言うことではないが、むしろ地先の希望が優先されるべきだろう。洪水

対策や水資源開発は広域的、河川環境は地先主義的と言っていいかもしれない。したがって、河川環境につい

ては市町村という行政体を通じて地元の人々の思いが何らかの形で反映されることが望ましいと思う。

 

  私は、21世紀はコミュニケーションの時代であるという認識に立ちながら、様々な交流活動を実践あるいは

応援しているところだが、これからの川づくり、環境に配慮した川づくりを進めるに当たって、行政と地域住民と

のコミュニケーション、あるいは産、学、官、野とのコミュニケーション、さらには地域間のコミュニケーションとい

うものが重要である、その点を強く訴えておきたいと思う。

 

 

(3)明日の河川環境を考える新たな視点

 

 河川環境というと、普通、河川敷の公園的な利用とか魚釣りやカヌーなどの利用、あるいは魚や鳥、昆虫、植

生などのいわゆる自然生態系を思いうかべるであろう。それはそれでいいかと思うが、私としてはもう少し広く考

えたい。

 

 河川と伏流水との関係、河川とため池や農業用水との関係、あるいは流域の林相といいますか森林と河川と

の関係など水系環境として河川の環境をみていきたい。これから河川の環境を論ずる場合、水の循環という視

点が重要かと思う。まずこれが第一点である。

 

 次に、河川に関連する社会的な環境、例えば農業用水の管理体制はどうなっているか、河川愛護団体の活

動や組織はどうなっているか、それから河川モニターや河川愛護モニター、さらには河川里親制度がどうなって

いるのか。リバーカウンセラーもある。そういったことは、川づくりというか、いい河川環境をつくっていこうとする

際に当然関係してくる。つまり、そういった社会的な環境を重視しないで河川環境を論ずるわけにはいかない訳

だ。河川の利用状況も河川の社会的環境ということだが、今言った諸々のことも含めて河川の社会的環境とい

うものを考える必要がある。

 

 さらに文化系ということを申し上げておく。古代、弥生時代に入って、クニグニは河川のほとりに発生し、湿地

の水田化、農業水利の整備など河川とのかかわり合いの中で、そう行ったクニグニは発展していった。もちろ

ん、洪水との戦いがあったことであろう。そういった古代から中世、近世、近代とたいへん長い歴史の中で、地

域は、河川と深い関わりを持ちながら発展してきた。中村二郎先生は、「我々は、身体で生きるのではなくて、

身体を生きるのだ」とおっしゃっており、また「それと同様に、我々は、歴史にいきるのではなくて、歴史を生きる

のだ」とおっしゃっている、歴史というものは、我々の身体と同じように大変大事なものである。歴史に学ぶとよく

いうが、そういったことだけではなく、歴史というものは、我々の意識に関わってくるので大変大事なのである。

河川を語るとき、その歴史を忘れてはいけない。河川工事の歴史はもちろんのこと、河川と地域のかかわり合

いの歴史を忘れてはいけない。河川環境と歴史・文化、大変大事な課題だと思う。

 河川環境、それは水系環境と言うことで考えなければならないが、水系環境の三代要素、自然生態系と社会

系と文化系、それらを考えながらこれからの川づくりを進めていきたいものである。

 

 

 

4 河川公園の事例

 

 

(1)河川公園整備の動向

 

 東京オリンピックを契機として、国民の体力づくりが強く叫ばれ、河川敷を一般利用に供し国民広場とでも言う

べき公園を作っていこうと言う動きが出てきたことは先に述べた。そして、それに呼応して、河川敷地占用許可

準則が制定され、多摩川の解放計画が始まったことも述べた。

 

 実は、この解放計画というのは、多摩川のみならず、淀川など全国6河川で当初スターとし、しかも、翌昭和4

2年には、江戸川、鴨川など9河川が加わった。したがって、河川公園というものは、東京オリンピックを契機と

して整備され始めたと言っていいかも知れない。

 その後も、多摩川の場合と同様、全国的にも、河川敷を利用しての公園づくりが活発になっていった。図ー1

に示すように、昭和40年当時全国で23カ所であった河川敷公園は、平成3年時点では、全国で851カ所にも

達している。

 

 現在、全国の河川公園の面積は約6500ヘクタールであるが、都市公園全体が約6万7000ヘクタールであ

るので、都市公園の約1割が河川公園と言うことになる。現在、約3万3000ヘクタールの河川公園が計画され

ているが、近年自然に対する関心の高まりから、ビオトープということも公園行政の課題になってきているかと

思われるので、実際にはもっと河川公園は増えていくのではないかと思う。

 現在、河川公園の約4割が緑地系、約6割が運動施設系である。また、地域別には、約半分が市街化区域、

残りの約半分が市街化調整区域となっている。私の感じでは、緑地系のもの、市街化区域のものがもう少し多く

て良いのではないかと思う。

 

 

(2)特色ある河川公園の事例

 

自然との共生・・ホタルの棲む川(札幌市 オカシバルシ川)、咲き乱れるワイルドフラワー(北上市 和賀川)、

自然とふれあえる水辺を(足立区 荒川)自然に抱かれるひととき(入善町 黒部川)、自然環境を保全する(清

水町 柿田川)、風土を体験できるスペース(美幌町 魚無川)、甦る自然(北区 荒川)、生命が活気づく空間(葛

飾区 荒川)、うるおいのある花屋敷(江戸川区 江戸川)、都市に豊かな自然を(調布市 野川)、自然を共有

できる空間(福生市 多摩川)、まちの原風景がそこにある(巻町 矢川)、自然と歴史と文化のハーモニー(西

川町 西川)、水と緑とたわむれて(小松市 木場潟)、心にしみいる緑(焼津市 栃山川)、やわらかな陽光が差

し込む(裾野市 小柄沢川)、緑の通り抜け(扶桑市 木曽川)、手足を伸ばして自然を感じる場(木曽川町 木

曽川)、さえずりが聞こえる(山口市、小群町 ふしの川)

 

親水機能の増進・・水遊びの島(世田谷区 多摩川)、音無川ルネッサン(北区 石神井川)、親水シンボル空間

(藤沢市 引地川)、水と親しむイベント(三刀屋町 三刀屋川)、清流を未来のこどもたちのために(宮崎市 大

淀川)、広がる黄色いじゅうたん(鵡川町 鵡川)、市民に開かれた水辺空間(弘前市 腰巻川)、群れなす白鳥

の水辺(若柳町 迫川)、いきいき・のびのび・はつらつ(大館市、長木川)、親水意識の高揚を図る(田島町 阿

賀川)、名水をより身近に(大子町 久慈川)、区民が憩える水辺(墨田区 大横川)、区民の森(江東区 横十

間川)、水辺の香(江東区 古石場川)、区民の水辺(江東区 仙台堀川)、木場の香(江東区 福富川)、河岸

の原風景の復元(板橋区 新河岸川)、思いっきり水と遊ぶ(黒部市 黒部川)、黒部のきらめき(宇奈月町黒部

川)、都市生活に潤いを(鯖江市 日野川)、みずとひと(岐阜市 早田川)、みずとひと(岐阜市 清水川)、水と

たわむれる空間(静岡市 安倍川)、詩人になる道(岡部町 木和田川)、童心に帰れる場(半田市 矢勝川)、

鳳来に光輝く清流を(鳳来町 宇連川)、心安らぐ空間(尼崎市 蓬川)、水と緑の共生(宝塚市 逆瀬川)、水辺

に刻まれた歴史(松山市 石手川)、リフレッシュ空間(佐々町 佐々川)、街並みに潤いとやすらぎを(知覧町麓

川)、時と共に流れゆく(川辺町 万之瀬川)

 

景観との調和・・湖国のイメージ(大津市 琵琶湖)、四季折々の色彩(西宮市 夙川)、季節感ある景観づくり

(斑鳩町 竜田川)、日本的景観演出(沼隈町 山南川)、シンボリックな都市の水辺(徳島市 新町川)、和服の

似合う場所(日立市 鮎川)、前橋の杜(前橋市 利根川)、新しい水辺風景の創造(葛飾区 中川)、思索にふ

ける空間(福光町 小矢部川)、清流に映える緑(岐阜市 忠節用水)、明日の風土づくりに(大垣市 水門川)、

明鏡止水の地(草津市 琵琶湖)、緑の中を駆けめぐる(池田市 猪名川)、洗練された水辺風景(船穂町 高

梁川)、涼水とのたわむれ(宮島町 紅葉  谷砂防河川)、水辺に浮かぶ緑(唐津市 松浦川)

 

河川文化の醸成・・洪水との戦いを知る(松島町 高城川)、無形文化の継(山形市 馬見ヶ崎川)、史実のメモ

リアルパーク(伊東市 伊東大川)、伝統行事の舞台(五十崎町 小田川)、長崎の歴史を残していく(長崎市 

中島川)、四季折々の花と緑(潮来町 前川)、ふるさと体験ゾーン(有田市 有田川)、野外イベントの殿堂(津

山市 吉井川)、緑と共に躍動する(唐津市 松浦川)

 

川辺のまちづくり・・まちおこしのメインステージ(藤代町 小貝川)、スーパー堤防でまちとつながる(中央区 隅

田川)、まちから近づきやすい川(金沢市 高橋川)、既存の河川公園とひとつに(池田町 吉野川)、都市のイ

ンターフェイス空間(熊本市 加勢川)、花と笑顔あふれる水辺(札幌市 軽川)、原色の自然風景(角館町 檜

木内川)、市民に自然と健康を(礪波市 庄川)、雄大な自然の創造(北町 手取川)、大地の鼓動をとらえる(刈

谷市 逢妻川)、幅広い自然の利用(久留米市 筑後川)

 

大規模な河川公園・・緑の軸線(札幌市 豊平川)、まちを代表する「顔」(旭川市 美瑛川)、水と出会うレクリエ

ーション(氏家町 鬼怒川)、レクリエーション拠点と自然の宝庫(浦和市 荒川)、まちを包み込むみどり(大曲

市 雄物川)、ひととひととの交歓の場(高崎市 碓氷川)、平野を見下ろす緑のクッション(太田市 渡良瀬

川)、多摩川を花いっぱいに(川崎市  多摩川)、市民が深呼吸できる広場(尼崎市 武庫川)、創造する自然

と感性(岡山市 百間川)、新しい流れが始まる(熊本市 坪井川)

 

独自のユニークさ・・地域の歴史・文化を保全(葛飾区 江戸川)、親しまれる分区園(小矢部市 小矢部川)、2

1世紀へのストーリー(浜松市 新川)、公園となった遊水池(名古屋市 庄内川)、温泉を楽しむ(本宮町 大塔

川)、川を見直す多彩なイベント(丸亀市 土器川)、夢ふくらんで(岩出山町 江合川)、魚釣りのできる公園(板

橋区 石神井川)、光ふりそそぐアメニテイ空間(足立区 荒川)、駅と河川の一体化(横浜市 鳥山川)、子供か

らお年寄りまで楽しめる(高岡市 庄川)、市民と共に育む緑(福井市 足羽川)、都市のオアシス空間の提供

(沼津市 狩野川)、自然に飛びこむ(富士宮市 潤井川)、ロマン漂う緑道(春日井市 生地川)、都市に息づく

緑(犬山市 木曽川)、潤いと活力のある街づくり(大津市 淀川)、見晴らしの良い広場(倉敷市 高梁川)、水

と緑に打たれて(大野町 毛保川)、川と人とのアメニテイ空間(佐賀市 多布施川)、人間性回復の場の創造

(加世田市 万之瀬川)

 

 

 

(3)川と公園

 

 以上述べて来たように、昭和56年の河川審議会の答申を契機に河川環境施策は大きく変わって来たし、こ

れからも随分変わるものと思う。環境基本法が制定され、建設省も環境施策大綱を制定するなど、正に、今

は、時代の大きな変わり目だと思う。今の動きは、決して一過性のものと言うようなものではなく、今後ますます

加速されることこそあれ衰えることはないであろう。

 

 私は、21世紀のキーワードとして[自然、文化、コミュニケーション]と言う三つのキーワードを考えているが、

自然について言えば、21世紀は、梅原猛先生が言われるように自然と共生できる科学文明を作り出して行か

なければならないし、国づくりにおいても自然豊かな美しい国土を作るということが最も重視されていくだろうと考

えている。このような観点から、今の動きを理解し、今後の動きを見通している。ただし、誤解のないように私の

自然観を言っておくと、私の自然観は、[自然は人工を完成し、人工は自然を完成する]、そのような絶対的な

認識論に立っての自然観であって、過激な自然保護派のそれとは全く違う。自然に人工の手を加えない川づく

りも町づくりもあり得ない。しかし、自然は、川づくりや町づくりにおいて、もっともっと考慮されなければならない

と思う。

 自然の二大要素は水と緑であり、これからの国づくり、町づくりにおいて、川と公園という課題は大変重要な課

題であると思う。今までこう言った課題についてほとんど議論されたことがないが、今後、国づくりや町づくりに関

係のある人は、自然を考え、水と緑を考え、そして川と公園を考えていただきたいと思う。本稿は、そのために

書いており、川のサイドから見た公園サイドへの若干の問題提起と考えてもらえばいい。

 

 

 

(4)水と緑のプロムナード

 

 これは、都市の中小河川を想定しているが、河川事業と公園事業と共同して、河川を活用しての水と緑のプロ

ムナードが作れないものか。

 ほとんどの都市河川は、従来、都市化の急激な進展に対応して、洪水対策を急がなければならなかったの

で、高い直立護岸もしくはそれに近いものが多い。水面は、河岸から随分下にあるため、景観も悪いし、ボート

遊びなどもできない。護岸は、お化粧程度の改善はできるかもしれないが、抜本的な改善は困難であろう。

 しかし、水面については、堰を設ければ、豊かな水面を創出することはさほど難しい事ではない。従来、そうい

った堰は、、洪水対策上ないほうがいいので、河川管理者は許可しなかった。今もその方針が変わっている訳

ではないが、私は、今の技術水準からして許可はできると思うし、場合によれば、河川管理者がそれを設置す

ることも可能であろう。 河岸は、道路になっている所が多く、緑道にはなりにくいかもしれないが、河川管理用

の通路として確保されている所もあるので、そう云った所は、工夫をすれば十分緑道になり得ると思う。

 憩いの広場は、公園橋として整備できると思うが、河川に隣接した土地があれば、ポケットパークを逐次作っ

て行けばいいであろう。河川は、線として、町の景観上かけがいのないものであるので、場所はよほど考えなけ

ればならないが、橋上レストランというものも考えられるかもしれない。

 

 

(5)治水緑地

 

 これも都市河川を想定しているが、河川事業と公園事業と共同して、水と緑のプロムナードなどに関連した治

水緑地が作れないだろうか。

 高い直立護岸やそれに近い場合は別として、都市河川によっては、何とか川底に降りて遊べるところもある。

しかし、一般的には、河川の断面に余裕がないので、そう云った利用を促進するための工夫の余地も少ない。

したがって、上流に治水緑地が作れれば、その分余裕ができるので、川原を作り出したり、川の流れに瀬と淵

を作ったりできると思う。

 川原があり、瀬と淵があるということは、そこに豊かな自然があるということである。何とかそう云う都市河川が

作れないかと思う。

 問題は、水量であろう。水質については、総合水質浄化事業も始まったことでもあるし、私は、何とかなると思

っている。水量については、下水処理水を活用するという例も出て来ているが、総合治水対策で言うところの

「雨水の貯留・浸透施設」が、水循環と言う視点から、もっともっと幅広い施策が展開されて行けば、河川の維

持流量は十分回復可能であろう。治水緑地は、大規模な雨水の貯留・浸透施設である。

 治水緑地は、水と緑のセンター公園でもある。

 

 

(6)水と緑のマスタープラン

 

 近年は、ビオトープということが都市計画上も重要な課題になって来ているが、ビオトープで大切なことは、水

と緑のネットワーク化ではなかろうか。都市計画に確かに「緑のマスタープラン」と言うのがある。しかし、水と緑

を一緒に考えた「水と緑のマスタープラン」というものはない。何故か。

 都市河川は、確かに、公園サイドから見て魅力のない状態になっている。しかし、今述べたような、水と緑のプ

ロムナードとか治水緑地とか、河川サイドと公園サイドが共同して取り組めば、都市河川も魅力のあるものにな

って行くはずである。いや、絶対にそうしなければならない。そうでないと、我が国が国際的に尊敬されるなんて

事には到底ならないと思う。我が国は、我が国の伝統的な自然観、それは、私に言わせれば、先に言った「自

然が人工を完成し、人工が自然を完成する」と言う自然観であるが、そういう自然観に基づき、美しい国、美し

い町を作って行かなければならない。相当の予算がかかっても。

 かかる観点から、河川サイドと公園サイドが協力して、「水と緑のマスタープラン」 を策定しなければならな

い。

 

 

 

(7)川の風景・・その修景と視点場の整備

 

 湖沼や大河川には、場所によって素晴らしい風景がある。そして、そういう所は、然るべき修景を施して行け

ば、その風景はさらに素晴らしいものになって、人々にしみじみとした感動を覚えることであろう。近江八景や多

摩川八景などのように、湖沼や河川の素晴らしい風景を特定し、視点場を整備しながら然るべき修景を施せな

いだろうか。

 地域づくりの基本は、個性ある地域づくりでなければならない。そして、個性ある地域づくりとは、私に言わせ

れば、その地域の自然的特性と歴史・文化的特性にもとづき、人々の感受性の深層部分を震わすよう配慮され

た地域づくりでなければならない。

 

 21世紀における、新しい時代の都市計画は、都市の機能面を追求するだけでなく、そう言った風景とか景観

と言うものをも大切にして、そのための修景というものが考えられなければならない。そして、そう言ったことが、

都市づくりのみならず、一般的な地域づくりにまで拡大されなければならないと思う。

 

  風景は、風土と景観が解け合ったものであり、単なる景観ではない。その地域の自然的な特性とか歴史・文

化的特性とかが感じられなければならない。必ずしもそれだけではないが、端的に言えば、川とか山はその地

域の風土を形成する基本的要素であるので、風景を考えるとき、川とか山を基調にするのが一般的であろう。

川とか山を基調にして、人々の心の琴線に触れるような風景を作り出して行くべきである。これからの国土づく

り、地域づくり、町づくりにおいてそれがないと、到底世界から尊敬される文化国家とは言えないであろう。我が

国は、21世紀において、世界から尊敬される文化国家を目指さなければならないと思う。

 

 そう言った素晴らしい風景づくり、つまり修景の仕事は、誰がやるのであろうか。今は、そこまで機が熟してな

いので、誰の仕事と決めつけた言い方はできないが、当面、川を基調にして視点場を作り然るべき修景をして

行くというようなことは、多分、公園サイドが中心になるかと思うが、河川サイドが協力すれば、ある程度実施可

能ではなかろうか。河川内の修景あるいは河畔の修景は、ある程度河川サイドでできると思う。

大規模な河畔の修景が必要な場合は、河川の背後地を公園として整備する必要があるかもしれないが、その

場合でも、既に河川側の施策として桜堤モデル事業とかスーパー堤防整備事業とかがあるので、現在でも協力

できる場合が少なくないと思う。将来は、両者の共同事業制度を創設することも可能であろう。

 

 

 

 

(8)水と緑の回廊・・その本格的整備

 

 大河川は、水と緑のネットワークの主軸である。大河川を、水と緑の回廊として、本格的な整備が図れないも

のだろうか。

 現在は、今までの急激な都市化の進展により、自然環境という観点からは問題も少なくないが、それでも都市

における残された貴重な自然空間である。したがって、これを大切にしなければならない。これを大切にし、現

状の改善すべき所は改善し少しでも理想的な姿にもって行く、そのような努力が必要であろう。

 

 河川を都市における貴重な自然空間と見たとき、最も大きな問題は、河川と背後地との関係が多くの場合切

れているということである。これを何とか改善しなければならない。 河川は、洪水の流れる所でもあるので、自

ずと河川管理上の制約があって、緑、とりわけ高木が少ない。自然生態系を考えたとき、理想を言えば、これは

大きな問題であって、何とかしなければならない問題ではなかろうか。

 

 河川を水と緑の回廊と考えるのであれば、所々において、どうしても河川と一体になった林あるいは森が必要

である。勿論、河川サイドでは、目下のところ、何ともならない問題である。しかし、これからの問題として、今

後、公園サイドにお願いするか、自然公園ということで環境庁にお願いするか、あるいは総合的な河川環境整

備制度を創設して河川サイドで実施するか、方法はともかく、21世紀を視野にいれた新たな取り組みを急ぎ模

索しなければならないと思う。

 当面の問題としては、河川に隣接する背後地の公園で、河川あるいは河川公園と一体的な形になっていない

ものがある。至急これの改善が必要であろう。

 

 

(9)既設の河川公園・・その点検と整備

 

  河川公園も先に紹介したように、随分と増えた。今後も増えて行くであろう。既設の河川公園を点検し、今後

の参考にするとともに、必要な改善措置を講じて行く必要があるのではないかと思っている。

 多くの河川公園は、それぞれ公園管理者によって、それなりの考えをもって計画され、適正に管理されている

と思われるが、私の目から見て、もう少し改善したらどうかと思われるものもないではない。

 

・駐車場がないか不足しているもの

・トイレや手洗いがないか汚いもの

・人工の手が加わり過ぎて周りの環境と不釣り合いなもの

・もう少し自然性を増やす余地のあるもの

・日陰の施設が不十分なもの

・コーヒーショップなどの利便施設の設置が考えられるもの

・排水が良好でないもの

・維持管理の適正でないもの

・その他

 

 これらを改善する場合、一般に、河川管理上の制約が厳しいし、公園管理者側の予算上の制約も当然ある

ので、なかなか理想的にはいかないこともあろう。しかし、総合的な見地から、双方歩み寄って工夫をすればか

なり改善できる場合も少なくないと思われる。地域のため、国民のため、是非、河川サイドと公園サイドとがパー

トナーシップを以て、積極的に取り組んで貰いたいものである。

 

 

 

5、九頭竜川を生きる

 

 

 

はじめに

 

 私は、只今ご紹介いただきました、岩井國臣でございます。私は、ひょんなことから参議院議員になり、今は

国会議員ということでありますが、川づくりや地域づくりに対する想いは捨てがたく、政治活動の傍ら、引き続

き、川づくりや地域づくりについても、ライフワークとして、それなりに、取り組んでいきたいと考えております。つ

まり、二足の草鞋を履いてゆこう・・・ということであります。本日は、九頭竜川治水百周年の記念行事・・・という

ことでありますが、多分、政治家というより、元河川局長ということでご招待いただいたと思いますので、私のラ

イフワーク、川づくり、地域づくりの立場でお話しさせていただきます。

 

 

1)、川づくり、地域づくりのネットワーク

 

 東京、埼玉、山梨、長野の県境に、奥秩父の山々がございますが、奥秩父は、川との関連で申しますと、荒

川、多摩川、笛吹川、千曲川それぞれの源流ということでもあります。  その広大な山地には、2,000m以上の

山が20もあって、北アルプス、南アルプスに次ぐ高山地帯を形成しているのでございます。その奥深い森林と深

く刻まれた渓谷の大自然たる姿はすばらしい。

 

 私のこれからの人生で、奥秩父の山や谷をできるだけ歩きたい、そんな想いから、河川局長の時に、マルチ

ハビテーションよろしく秩父市に居を定めました・・・。河川局長、そして河川環境管理財団理事長の時は、金帰

月来の週末だけの生活ではありましたが、私は、秩父で生活をしておりました。秩父は、・・・・その歴史も古く、

伝統・文化が豊か、人情も豊かでありますので、奥秩父の大自然もさることながら、里の生活にも大いに胸をふ

くらませていたのであります。

 国会議員になり、そういう生活が一寸難しくなりました。しかし、いずれは秩父で骨を埋めようと思っております

し、国会関係の忙しいときでも、できるだけ秩父には行きたいと思っています。そして、できるだけ、・・・奥秩父

の山に登りたいと思っております。

 当時から、奥秩父の山に登るため、そのベースキャンプとして、山小屋を作りたいと思っておりましたが、昨年

の年末に、やっとその山小屋ができました。荒川村の三峰口駅というところです。駅から歩いて二十分、マイカー

の人ですと車から降りて十分です。少し急な登りを尾根筋まで登り、すばらしい眺めのところにあります。

 

 秩父というところは、日本列島で一番古い地層、秩父古生層で有名な所ですが、その秩父古生層と第三紀層と

の間の断層が荒川本川のその辺にに出ていて、その断層は、地質学者なら一度は見るべきところだそうです。

 昔、あのナウマン象で有名なナウマン博士が、来日のおり、当然その場所に来て、世界で最も美しいと感嘆し

た、と言われる場所が、そこから少し山の方に登った所、つまり、私の山小屋の登り口にあります。もっとも今で

は、遠景の武甲山が、石灰岩採掘のためその美しい姿をすっかり変えてしまっているし、荒川の流れも、発電

のためすっかり少なくなっているため、往時のすばらしい姿はないのでありますが・・・。それでも私の山小屋か

らは、ナウマン博士が世界一と言ったその風景を彷彿とさせる、すばらしい景色が楽しめます。

 

 また、私の山小屋の登り口は、御嶽山の登山口のすぐ近くです。御嶽山は、木曽の御嶽山を開いた行者の在

所が三峰口駅のすぐ上流にあり、秩父にも御嶽山があるのです。秩父の御嶽山もすばらしい景色です。両神

山、雲取山、甲武信岳など奥秩父の山々が一望に眺められます。私の山小屋は、その御嶽登山に格好の場所

にあります。

 

 河川環境管理財団の理事長のときならいざ知らず、これからはあまり奥秩父に行くわけにもいきませんが、そ

の山小屋は、川づくり、地域づくりの仲間に開放するつもりです。 そして、私の山小屋に来ていただいた方で

「サロン荒川倶楽部」というものを作りたいと考えています。折に触れご招待する方は、後ほど述べます「川のホ

ームパーティー」の仲間の他、私の山仲間、秩父の仲間、建設省の仲間などであります。

 以前から私の夢であった「サロン荒川倶楽部」の発足がいよいよ近いということです。私は、川づくり、地域づく

りの運動を、全国ネットワークで進めたいと思っておりますが、その一環として、サロンネットワークというものを

考えているのでございます。そして、私のこの「サロン荒川倶楽部」を、是非、全国のサロンネットワーク誕生の

きっかけにしたい。今そんな想いを抱きながら、川づくり、地域づくりの運動を展開しつつあるところであります。

 

 ところで、そのサロンネットワークなるものは、堀内さんという私の仲間のアイディアでございます。堀内さんの

案内で利根川の下流、佐原に行ったとき、香取神宮のすぐ横の江戸時代の、あれは何でしょうか……茶店のあ

とかなんかだと思いますが、それを活用してサロンを作ろうということになった訳であります。堀内さんと私が発

起人になって、佐原の町おこしの人達に呼びかけたら……ということで、今堀内さんがその可能性をサウンディ

ング中であります。サロン香取、あれは実にムードがあっていい、・・・利根川の舟運を復活させようという動きも

ありますので、その拠点佐原に、川づくり、地域づくりのサロンが実現できるとホントにいいですね。

 

 今泉さんという、これも私の仲間ですが、その方が進めておられる九州・地域づくりフォーラムの事務所も、一

寸狭すぎるかもしれませんが、風呂があり、寝袋なら数人泊まれるので、十分サロンになるでしょう。………サ

ロン博多というところでしょうか。広島の仲間、西林さんのところの、都市小屋「集」は、今のままでもう立派なサ

ロンだと思っています。後はパソコンがあれば申し分なしです。

 

 交流センター、田中さんのところの「YU]は、もともと、サロン都市小屋「集」として発展してきたものであります

から、サロンネットワークのいうなれば総本山みたいなものであります。広島の仲間、加藤新さんの網走の別荘

地には、是非、ログハウスを作ってもらって、サロンにしてもらいたいと…………すでに加藤さんに話をしてあ

り、加藤さんもその気でおられるようです。大分の仲間、幸野さんたちがやっておられる、久住花公園も立派な

サロンになりそうです。

 

川づくり、地域づくりのためのサロンネットワークは、ともかくスタートできそうです。決して非現実的な話ではない

ということです。趣旨に賛同する人が増え、全国にいっぱいサロンができ、川づくりや地域づくりに取り組んでお

られる人達が、パソコン通信のオンラインミーティングだけでなく、……できるだけ旅をして、オフミをしてもらい

たい。………それが私の願いであります。 久しぶりだよ、おふみさん・・・てなところです。

 

 マルチメディア時代におけるサロンのモデルを提案したい・・という想いを持ちながら、とりあえずは、誠にささ

やかなものではありますが、この1月10日に、私の「サロン・れん」がオープンしました。東京は、九段にありま

す。「サロン・れん」の冷蔵庫は出し入れ自由。碁盤が3面、将棋盤が一面あります。パソコン通信の勉強がで

き、インターネットで世界が覗けます。

 

 後ほど述べますが、これからの川づくりや地域づくりにとって、交流とか連携というものが不可欠でありますの

で、それを補完する道具立てとして、パソコン通信が欠かせません。そこで、私たちの仲間でパソコン通信「川

のフォーラム」を去る十一月二十二日に開設いたしました。

 

 川づくりと地域、川づくりとリージョナルコンプレックス、川づくりとグランドワーク、川づくりとパソコン通信、川づ

くりとマルチメディアといった今日的な課題を研究するために、多摩川では、建設省京浜工事事務所のご協力を

得ながら、ハイコミュニケーション研究会というものを作り、活動を開始しております。

 

 私は、広島時代、地域づくりにおいてロマンを持とう、或いは我々の生き方においてもロマンを持とう-----、そ

んなことを言い続けながら、「交流活充運動」という運動を展開してきました。活充という言葉は、一寸耳慣れな

い言葉でありますが、経済的な側面での地域活性化と地域の人々の精神的な充実感、それらを同時に表す言

葉であって、活性化の活と充実の充を合わせて作った新語であります。

 すなわち、中国地方で今進められている交流活充運動の、活充という言葉には、従来ややもするとそれに偏

りがちであった経済的な側面だけでなく、・・・・地域の伝統・文化に根ざしつつ、・・・精神的な心の充実感という

ものを追及したい、そういう願いが込められていおります。

 

 私としては、広島時代のその運動を今も続けているつもりであり、サロンネットワークや川のフォーラムも、或

いは多摩川のハイコミュニケーション研究会もいわばその一環である訳であります。

 

 

 

2)、ロマンある地域づくり・・特に過疎地域を意識して・・

 

 今申しました「交流活充運動」なるものが目指す「ロマンある地域づくり」とは、・・・その地域の自然的特性、歴

史・文化的特性にもとづき、人々の感受性の深層部分を振るわせるような気配りのされた、個性ある地域づくり

ということになろうかと思います。

そのようなロマンある地域づくりは、歴史も古く、伝統・文化が豊か、人情も豊かでですね・・・・、しかも九頭竜川

という立派な川があり、川や海や山のすばらしい自然のある・・・福井のような所こそ、その可能性が高いのでは

ないでしょうか。私はそんな予感と期待を持ちながら、今日の話を進めて参りたいと思います。

 

 これからの時代は、自然再認識の時代、共生の時代、あるいはコミュニケーションの時代、いろいろの言い方

があるとは思いますが、私は、21世紀における世界のキーワードとして、自然、歴史・文化、コミュニケーショ

ン、この三つのキーワードを考えております。コミュニケーションと交流とでは少しニュアンスが違いますが、ほぼ

同じような言葉でありますので、ここでは議論の展開上とりあえず自然、歴史・文化、交流の時代だと言っておき

ます。

 

 過疎地域の活性化に当たっては、自然や歴史・文化など・・・地域の財産を活用し、さまざまな交流ないし連携

を図り、・・<地域らしさ>というものを作っていく必要あります。そしてその際重要なことは、・・・地域の人々が

共通の理念を持っているかどうか、地域に対し情報発信できているかどうか・・であります。そのことによって、

人々は地域に誇りや愛着をもって生活することができるのであります。

 私が思うには、過疎地域においてこそ、地域の自然的特性に応じ、人と自然が共生する地域社会をつくり出

すことが可能ではないか、・・・その点をとりあえず強調しておきたい。

 そして、自然を言うときに大事なことは、人と自然との共生とは、・・自然の猛威とも共生するということであり、

ついでにその点も強調しておきたい。そういう自然との共生社会を目指してこそ、理想的な地域づくりと言えると

いうことであります。

 

過疎地域において理想的な地域づくりを進めることは、とりもなおさず、世界のなかでの我が国のアイデンティテ

ィを確立することでもあります。自然、歴史・文化、交流という3つのキーワードの中で、特に、自然というキーワ

ードが当面の重要課題であることを指摘しておきたいと思います。

 

 自然再認識の時代において、やっと、過疎地域における地域活性化に新たな機会が訪れた。私はそのように

考えています。

 ドイツにおける「美しき我が村運動」のような国民運動を緊急に展開して、過疎地域の本格的な活性化を図ら

なければならないのではないでしょうか。

 勿論、これからの国土づくりに当たっては、過疎地域や都市地域の如何にかかわらず、自然は重要である。

自然は配慮ないし保護する対象としてのみでなく、回復し、創造する対象として、また、健全な姿で将来世代に

引き継いで行くべき資産としてとらえていくことが求められております。つまり、地域の如何にかかわらず、こうし

た観点に立って、人の営みと自然の営みの新たな統合を目指すことが必要であるのであります。しかし、世界

に誇れるような、理想的な自然との共生社会は、先程も述べましたが、私は、過疎地域においてこそ実現可能

であり、国土政策の中でこのことはしっかりと認識されなければならないと考えておるのであります。

 

 心の豊かさや生活のゆとり、或いはうるおいを求める方向で、国民の価値観が変化し、人々の自然への憧憬

が高まるなかで、今も述べましたが、都市とは異なる、自然と歴史・文化に恵まれた生活空間や風景を有する

農山漁村は、人間の活力の涵養や活動、居住の場として国民全体で守り支えていくべき、かけがえのない資産

であると位置づけられるのではないでしょうか。

 

 このような農山漁村の新たな位置付けを踏まえ、地域自らの選択に応じて自主性と創意・工夫を発揮し、従来

の対策にとらわれない新たな視点で、都市との交流さらには諸外国との交流も念頭に置いた、農山漁村の魅力

の向上と地域社会の変革に取り組む必要があると思います。

 

 都市との交流、さらには諸外国との交流を目指した地域づくりにより、地域の発展に向けた新たな可能性が

生まれ、全国に個性豊かな地域が展開される。交流をキーワードとする地域づくりは、自然のみならず歴史・文

化を生かした地域づくりが前提であり、それを前提として新しい文化の創造を目指す地域づくりでもあります。

 

 地域づくりについては、それぞれの地域の住民の選択と責任のもと、地域自らが主体的に取り組めるような体

制づくりが、今、強く求められている。これはまず間違いのないところでありましょう。

 

 地域づくりは人づくりとよく言われますが、地域づくりに取り組むサークルないし団体が生き生きしていなけれ

ばならない。数名のサークルから大きな団体までいろんな組織があって、いきいきと独自の活動をしている。そ

して、それらの組織が何か・・ある共通のテーマで結ばれている、そういう地域社会はいきいきしている。坂本慶

一先生は、リージョナルコンプレックスと呼んでおられますが、今後、わが国は、そういう地域社会の実現を目指

さなければならないのであります。それが開かれた地域社会であり、共生、交流、連携をキーワードとする共生

社会であります。

 

 リージョナルコンプレックスを形成していくため、福祉その他各分野の施策が必要でありますが、国土政策に

おいてもそのことが重視されなければならないのであって、地域における多くのサークルないし団体が何を共通

のテーマにして交流、連携するのが適当なのか、今後、そういった議論が必要でありましょう。

 

 現在は、本格的な高度情報化の時代の幕開け。先程も述べましたように、これからの地域づくりには交流、連

携が不可欠でありますので、マルチメディアやパソコン通信を前提としたコミュニケーションシステムを地域に構

築していく必要があります。そのことは、高度情報化を推し進めることにもなりますが、何よりもリージョナルコン

プレックスの育成にとって極めて重要なことであります。

 

 今後の国土政策の最大の課題は、過疎地域の活性化であります。人口はともかく、いきいきとした地域社会

を作ることであります。共生、交流、連携をキーワードとした共生社会を作らなければなりません。そのために

は、リージョナルコンプレックスを作らなければなりません。そして、そのためには、マルチメディアやパソコン通

信が不可欠であります。

 したがいまして、これからの国土政策の重要戦略は、如何にリージョナルコンプレックスの育成をしながら地

域づくりを進めていくか、・・・・地域におけるパソコン通信をどう普及させていくか、そこになければならない。私

は、そのように確信するのであります。

 

 ドラゴンプロジェクトは、いうなれば、リージョナルコンプレックスを作っていくことと同じことでもありますの

で、・・・・もう少しリージョナルコンプレックスについて説明しておきたいと思います。

 これからの国土政策は、ハード面については産業基盤というより生活基盤が中心になりますので、それをどの

ように作っていくのか、そういったソフト面を重視しなければならない。生活基盤というものは、大変幅が広く、中

にはハード先行でソフトが後からついてくるというものもあるにはあるが、むしろ、ソフトが先行して、それを支援

する形でハードが後からついて行くというほうが望ましいであろう。私は、そんな風に考えております。

 

 町とか村というものは地域の住民が作り上げていくものであり、町づくり、村づくりは、地域の住民が主役であ

ります。ソフトが重視されなけらばならない所以であります。ハード面を考えると同時にソフト面を考える、また、

ソフト面を考えると同時にハード面を考えるということが肝要であります。リージョナルコンプレックスの育成とい

うのは、言うまでもなくソフト面であります。広域根幹施設は別として、生活に身近な施設になればなるほど、ソフ

トの内容でハードの内容が違ってくるし、ハードの内容でソフトの内容が違ってくる。したがって、これからの国土

政策は、リージョナルコンプレックスの育成ということを考えながら、そのために必要などのようなハードをどのよ

うに作っていくのか、その点が戦略として極めて重要であるということであります。

 

 

 

3)歴史を生きる

 

 世界的な歴史学者J・ホールという人がおります。J・ホールの「日本の歴史」という翻訳本が講談社からでてお

りますので、読まれた方もあると思いますが、 J・ホール はその本の中でこう言っております。一寸、長いけれど

読んでみます。

「日本は、その近代以前の歴史を通じて、構造変化は、・・・緩慢に起こり、しかも、外部の圧力よりも、より多く

の国内の諸力によってもたされた。そして、このことの結果として、一応は新しいものに置きかえられてしまった

諸制度も、確かに放棄され、脇にやられはしても、完全に一掃されることは滅多にないという傾向が生まれた。

このように連続性をもった諸要因が、日本文化史という織物の中で一貫して走っており、云々・・・・。」  こう言っ

ております。そしてまた「日本の歴史は、・・・人の心にひびく、人の想像力をかきたてることができるような、内在

的な特質をいくつか持っている。」このようにも言っております。

 さらに J・ホールは、「日本は、深遠な価値のある教訓を歴史家に与える、云々・・。」とまで言っているのであ

ります。つまり、世界の歴史家にとって、日本の歴史は、大いに学ぶべき点が多い、ということのようでありま

す。

 

 そこで、思うのでありますが、歴史家のみならず一般の外国人にも、日本の歴史の特質、日本文化の特質、

日本人の特質というものを正しく理解してほしい。私はそのように考えております。そしてそのためにも、我々自

身、先ほどから縷々述べて参りましたような、・・・歴史を生かした地域づくりを進めることが、もっとも重要であ

る。そのように思うのであります。

 

 中国・地域づくり交流会の「哲学のみち研究会」では、哲学者・中村雄二郎先生のお話をお聞きしたことがあり

ましたが、その中村先生は、その著「哲学の現在」の中で、「歴史への人間の関心には本質的なものがあるよう

だ」と仰言っておられます。

 そして、「私たちは、自分たちの生きている時代や社会をよりよく認識するために、また、込み入った問題、解

決しにくい問題に対処していくためにも、自分たちの時代、自分たちの社会をできるだけ総体的に、できるだけ

多角的に映し出す鏡が必要だ。・・・歴史とは、私たち人間にとって、まず何よりもそういう鏡ではないだろうか。」

と仰言っておられます。

 さらに先生は、哲学者としてこのようにも仰言っています。「私たちは身体をもつのではなく、身体を生きるので

ある。歴史についても、それと同じように、私たちは人間として歴史をもつのではなくて、歴史を生きるのである。

すなわち、私たちにとって、身体とは皮膚で閉ざされた生理的身体だけでなくて、その活動範囲まで拡がってい

る。それと同じように、・・・私たち人間存在として自己と共同社会との絡み合いのなかで、瞬間、瞬間を生きな

がら、まさにそのことによって、・・・重層的な時間から成る、出来事としての歴史を生きる。・・・ということは、つ

まり、歴史とは、拡張された私たちの存在そのものだということである。そして、私は、人間として自分自身を知

ることが必要であり、根源的な願望であるとすれば、・・・その欲求と願望はおのずと私たちの存在の拡張として

の歴史に向けられるであろう。いいかえれば、私たちにとって歴史を知るということは、すぐれて自己を知るとい

うことなのである。ここに、私たち人間にとって、歴史を知ることの格別の意味があり、またそのために、私たち

は歴史に強く惹かれるのといえるだろう。」

 

 少々長くなりましたが、歴史というものを認識する上で、先生の考え方は誠に重要であると思いますので、紹

介させていただいた次第であります。・・・私たちが共同社会を生きる以上、歴史を知るということは、本質的な

ものであるということであります。中村先生の哲学を基に、私は「歴史を生きる」という言い方をしているのであり

ますが、少し視点を変え、俗っぽく・・と謂うのは何ですが、・・・一般的にわかりやすくですね、・・・行政として歴

史というものをどう取り扱うか。その点についても一寸触れておきたいと思います。

 

 マズローの欲求五段階説によりますと、人間の欲求にはもっとも低次の生理的欲求から、もっとも高次の自己

表現の欲求まで五段階の欲求がある。そして、低次の欲求がある程度満足されないうちは次の欲求が起きず、

また逆に、低次の欲求をある程度充足している人は、必ずそれ以上の高次の欲求を求めて、然るべき行動を

起こすと言うのであります。・・・こういったことは、成熟化社会に突入したわが国においては、国民のニーズに応

えていくという意味で、国づくりや地域づくりの面でも、充分、意識されなければならないと思います。従来の施策

を踏襲しているだけではいけないのであって、新たな施策というものが常に求められる所以であります。

 

 今後、わが国は余暇時間の増大とともに、さまざまな余暇活動(利用)が活発化する、これは間違いのないと

ころであります。話は変わりますが、吉野ガ理遺跡について、発掘調査当時、初めて一般公開されるやいなや

爆発的な人気を呼びました。三ヶ月の間に百万人を越える人が見学に訪れたと言われていますが、発掘現場

の見学としては、日本国内は勿論のこと、世界でも空前の驚くべき数だそうであります。吉野ガ理遺跡に対する

発掘調査当時の、あの爆発的な関心の高まりというものは、国民がより高次な欲求を求めている証拠だと思い

ます。歴史とか伝統・文化というものを求める国民の欲求は、今後、ますます強くなっていくに違いない。吉野ガ

理遺跡のみならず、各地にある遺跡につきましても、単なる保存という枠組みを越えて、国民の欲求に充分応

え得るよう、然るべき整備を図る必要があると思うのであります。

 皆さん方市町村長さんのご理解と熱心な取り組みを期待しております。

 

 

 

4)九頭竜川治水の歴史

 

 さて、今日は、九頭竜川の治水百周年記念の行事でありますので、ここらで少し、わが国の河川と九頭竜川を

対比しながら、治水の歴史を語っておきたいと思います。

 我が国は、その気象条件に加え、地形的、地質的にも激甚な水害が起こりやすい。それ故、古来、我が国は

絶えず水害の脅威を被っており、「水を治める者は国を治める」として、為政者は、水害の防除に努力してきま

した。

 そうした治水に対する考え方と努力があって、初めて今日の発展があるのであり、為政者は勿論のこと国民

はそのことを忘れてはならないと思います。

 なるほど、治水事業はそれなりに進んできてはおりますが、土地利用はそれ以上に進んできておりますので、

水害の脅威から解放されたと言うにはほど遠い状況にあります。したがいまして、古来から治水に対してなされ

てきた大変な努力を忘れることなく、引き続き治水事業に力を注がなければならないのであります。

 

(一)古代

 

 日本書紀によりますと、仁徳天皇が都を難波の地に移されたとき、いたく難波の水害を心配され、大河川工

事を行われたとあります。その工事は枚方付近の堤防補強と天満川の開削工事のことでありますが、そんなに

古い時代からそんなに大規模な治水工事が行われていたのか・・・と感心せざるを得ませんね。

 

 ところで、福井についてでありますが、古代、福井においても、縄文・弥生人は、九頭竜川本川、日野川、足羽

川がもたらす恵みと豊かな風土の中で生活を営み、文化を育んでいたのであります。しかし、時には伝説からも

伺い知ることができるように、<九頭竜(九頭の竜)>が福井平野を奔放に暴れ回り、稔り豊かな農作物のみな

らず、耕地や住家間でも押し流して、沿岸の住民を飢え苦しませていたようです。

 こうしたことから、このような水魔<九頭竜>に対決したのが、三国の豪族、オホドの王子(継体天皇)である

と言われておりますね。

「大和の国の時代に、福井平野は大湖沼であった。そして、この湖沼の周辺には人の営みはなく、広大な土地

が水に侵されているのは悪竜が棲んでいるからだと信じられていた。オホドの王子は、この悪竜を足羽山頂よ

り<かぶら矢>を水に向かって射たところ、満水の湖沼の水は矢に導かれるように海に向かって激しい勢いで

引き始め、次第に陸地が現れてきた。」

 こんな伝説が残されているようですありますが、私には大変興味があります。オホドの王子は、三国の河口を

切り開いたとも伝えられているのは、皆さんも良くご存じのことであります。

 

(二)奈良・平安

 

 続日本紀によりますと、淀川の下流が排水不良であったため、淀川の神崎川への分水工事が行われている

し、鬼怒川の流路付け替え工事や天竜川の堤防修築工事なども行われております。

 この時代、特に注目すべきは、平安遷都に関連し、京都の賀茂川などの大規模な付け替え工事が行われた

ことでありましょうか。

このほか、続日本記によりますと、七八八年和気清麻呂が淀川から大和川を分流させる工事を起こし、延べ人

員二十数万人も費やしたにも拘わらず、成功を見ずして中止したと言われております。なお、この工事は約千

年後元禄時代に完成します。

 

(三)鎌倉

 

 吾妻鏡によりますと、荒川、利根川、木曽川、賀茂川など水害の激しい箇所において堤防の修築工事が行わ

れる程度で、あまり大規模な工事は行われなかったようです。

 

(四)室町・安土・桃山

 

 各大名とも、食糧増産のため或いはお城の築造に関連して、大いに河川工事を行ったようです。特に、武田

信玄による富士川の改修、加藤清正による菊池川、白川、緑川の大改修が有名です。加藤清正の築造した乗

越堤(越流堤)は、勿論我が国で初めてのものですが、ライン川やローヌ川のそれよりもはるかに古く、世界で

初めてだそうです。又、武田信玄が実施したいわゆる信玄堤と御勅使(みだい)川の付け替え工事など一連の

大規模工事は、その知恵に全く驚嘆せざるを得ません。さらに、武田信玄が案出した聖牛その他の水制工は、

実に我が国特異の工法であり、四百数十年後の今日といえども、ほとんどこれが改良の余地無きものとされて

おります。そのほか、家康も矢作川の大付け替え工事を行っています。

 

(五)江戸

 

 江戸時代は、軍備の余力もあって河川の修築に力を注いだため、全国の大河川において、洪水防御のため

の工事や舟運のための工事が数多く行われましたが、ここでは時間の関係もこれあり、省略します。

 

 なお、江戸時代末期からいわゆる近代治水が始まるまでの福井の状況を少し述べておきます。

 江戸時代における九頭竜川の洪水に関する記録につきましては、二百五十年間に四十六回もの洪水が記録

されていて、平均すると五?六年に一回の割合で記録に残るような洪水に見舞われていたようです。

 実際には三日も雨が降り続けば、大水を警戒する太鼓の音が辺り一面に響きわたり、庄屋から水人足の触

れが回る。見る間に田畑は冠水して一面泥海と化し、やがて屋敷内にも水があがり、年に二、三回は床上三?

四尺(一メートル以上)の水がつく。そのため飯米や布団、衣類はツシ(屋根裏にある物置)に担ぎ上げる。田の

冠水が数日にわたると、稲は鯰の髭のように見える。このようになると、秋になっても稲の丈は一尺少々と低く、

収穫も極端に減る有様であった。

このような状態は、明治時代の三大河川改修まで続いたと伝えられております。

 

 九頭竜川の河川改修は、幕末から明治初年にかけても当然続けられてきましたが、これらは勿論局部的な工

事にとどまっていたため、両岸或いは上下流間の地域的な対立を度々引き起こしたようです。

 明治二年、福井藩、新堤防の築造に着手。

 明治四年、廃藩置県のため中止。

 

(六)近代治水

 

 古来、治水について大変な努力がなされ、いくつかの特筆すべき河川工事があります。しかし、その川の骨格

を形作る大規模な河川工事は、なんと言っても明治維新後であります。すなわち、・・・・・オランダ、イギリスなど

の治水技術、機械技術など、いわゆる近代治水技術によって、そのような大規模河川工事が可能になったわけ

でありますが・・・・、当時の経済力(財政負担能力)もさることながら、日本人の知的水準の高さというか、先駆

者たちの熱意と努力には大変な感動を覚えます。新しいものに挑戦する意欲というか使命感は、ホントに大変

なものがありますね。

 

 大規模な近代治水はそれぞれの河川で行われ、それぞれ歴史的な意義を有しております。

したがいまして、近代における五大河川を挙げるとなるとなかなか難しいのでありますが、敢えてこれを挙げて

みます。

 第一位・・利根川の東遷工事(*規模と*近代治水技術の確立)

 第二位・・木曽川の三川分流工事 (規模と*劇的面白さ、歴史的意義)

 第三位・・淀川放水路(新川開削)(規模と*歴史的意義、地域形成)

 第四位・・筑後川の分水路工事(歴史的意義)

 第五位・・信濃川の大河津分水 (*技術水準の高さと歴史的な面白さ)

注:*は全国ナンバーワン

 

 明治新政府になり、その混沌とした中にあって、早くも明治元年十月には淀川の改修を目的とした「治河使」

が設置され、そして明治三年には治水行政の考え方を規定した「治水策要領」なるものが策定されております。

そして、翌年には、その考え方に基づき、治水に関する初めての法規として「治水方規」なるものを太政官宣達

として作っているのであります。

 

 明治新政府最初の治水工事は、明治元年、淀川において始められ、その後、低水工事 を中心として次々と

直轄工事が展開されていきます。

 しかし、明治初期における直轄の河川工事は、舟運を目的とするものであって、洪水防御を目的とするいわ

ゆる高水工事は、地方に任されていたのであります。

 福井に目を転じると、福井藩で明治二年に着手、明治四年に中断の余儀なくされた新堤防築造工事を、よう

やく明治十二年、再開。政府のお抱え技師、エッセルが指導しております。

その前年、明治十一年、河口処理として三国港の突堤工事に着手。これも政府のお抱え技師、エッセルとデレ

ーケが指導。四年後の明治十五年、その難工事を遂に完成。明治二十二年以降、再三にわたり県議会で九頭

竜川の治水について論議がなされたようです。そして、調査を実施する傍ら修繕工事を行っておりますが、本格

的な工事にはどうしても着手できなかったようであります。・・・この当時の政府の考え方としては、内務技師沖

野忠雄の意見書にあるとおり、極めて慎重であったようです。沖野忠雄の意見書を紹介しておきます。「春江新

堤を築くと、全川にわたって大きな影響を及ぼすことから、新堤の高さを制限して、洪水の時に流水を越流させ

ることが重要である。又、九頭竜川本川上下流及び対岸の堤防を増築し、日野、足羽両川にも相当な予防工

事を必要とする。」

 

 明治二十三年、初めて帝国議会が開催されるや、毎年のように治水に関する建議案が提出されましたが、そ

の都度政府は調査中で逃げていたようです。そうこうしているうちに、遂に、あの未曾有の大災害、明治二十八

及び二十九年の大災害を被るのであります。

 

そして、福井が生んだ大政治家、杉田定一先生の絶大な尽力があり、河川法の制定が行われ、そして九頭竜

川の近代治水がようやくにして始まるのであります。杉田定一先生は、九頭竜川の治水工事の必要性を関係

者に説き、万難を排してこれを決行すべきことを力説し、政府要路に対しても、明治二十九年の新法、河川法を

適用して、九頭竜川の治水工事を国家事業として施行されるよう働きかけられ、遂に、明治三十一年、他県に

先きがけ、九頭竜川の本格的な治水工事が始まるのでございます。杉田定一先生の誠意と熱意が、関係者の

心を動かしたからこそであり、九頭竜川にとって、杉田定一先生は忘れることのできない大恩人ということであり

ましょう。

 

政府において、明治二十八年、二十九年と相次ぐ未曾有の大災害が全国的に発生し、また幸いなことに日露

戦争の終結ということもあったのでありますが、第九回帝国議会に提出されていた建議案(明治二十九年二月

二十四日)が契機となって、河川法が急遽制定されたのであります。 河川法の制定については、明治二十九年

三月十日上程、同年四月八日公布という超スピードで行われたのであって、誠に驚嘆すべきことではないかと

思います。

 

「・・・全国ノ現状ヲ視レバ、改修工事ノ必要ヲ認ムルモノ決シテ少ナカラズ。就中、淀川、木曽川、筑後川三川

改修ノ如キハ、急務中ノ急務ナリト確信ス。」

このような経緯から、淀川、木曽川に続き筑後川においても中央政府直轄の河川工事がスタートする。

 

その後、河川法にもとづき、

第二グループ・・利根川(明治三十三年度)、庄川 (明治三十三年度)、九頭竜川(明治三十三年度)第三グル

ープ・・遠賀川(明治三十九年度)、信濃川(明治四十年        度)、吉野川(明治四十年度)、高梁川(明

治四十年度)などにおいて、直轄工事として本格的な大規模河川工事がスタートする。

 

九頭竜川の直轄改修が、信濃川のそれに先立つこと七年、利根川と同じ時期に始まったというのは、繰り返し

になりますが、杉田定一先生のなみなみならぬご尽力のお陰であることは言うまでもありません。

 

 

5)九頭竜川を生きる

 

私は、最初に、サロンネットワークやパソコン通信「川のフォーラム」について触れ、川づくりや地域づくりに関す

る「交流活充運動」というものを紹介しました。その中で、「ロマンある地域づくり」というものの定義をしておきま

した。そして、自然、歴史・文化、交流という三つのキーワードを挙げました。さらに、これからの国土政策におい

て、過疎地域の活性化が重要課題であり、リージョナルコンプレックスの育成が重要戦略として浮かび上がって

こなければならないことを指摘しておきました。リージョナルコンプレックスの問題は、三つのキーワードでは交

流ということになります。歴史・文化については、歴史に焦点を当て、その重要性を述べたつもりです。そして九

頭竜川の治水の歴史を述べました。いよいよ結論を申し述べなければなりません。「九頭竜川を生きる」とは、

どういうことなのか。

 

 治水事業は、社会資本を整備する事業のなかでも、国民の生命と財産を守るもっとも根幹的なものでありま

す。わが国は、欧米先進諸国に比べ河川の氾濫する地域に人口、資産が集中し、そこに社会経済活動の中心

があることから、治水事業が地域づくりや国づくりの基本であることはいうまでもありません。

この重大な使命を果たすために、国土の利用状況、社会活動状況等に対応して、的確な施策の展開と事業の

推進を図ることが求められる訳であります。

しかるに、これまでの営々たる治水事業の積み重ねにもかかわらず、治水施設の整備水準は依然として低く、

国民は水害などの危険から逃れ得ないのが実情であります。したがいまして、わが国は、真に豊かさを実感で

き、安全で活力ある生活大国の実現に向けて、

治水施設のさらなる充実を図らなければならないのであります。このことは言うまでもないことでありましょう。

 同時に、水系環境は、地域の自然そのものでありますし、人々の生活文化や精神文化の形成に大きな役割

を果たしてきており、自然への回帰志向、あるいは精神的なゆとりへの志向といった国民の意識変化を考える

ますとき、生態系、風景、親水性等に配慮しつつ、うるおいのある美しい水系環境というものを創造することは、

現下の緊急かつ重要な課題であると言わなければならないと思います。つまり、自然環境や文化を重視した治

水事業の新たな展開が、今求められているように思われるのであります。水文化とか河川文化という言葉も最

近はよく聞かれるようになりました。文化的な側面から、水とか河川を見直そうということであります。

 

 かかる観点から、国際日本文化研究所の安田喜憲教授の提唱によりまして、ようやく、九頭竜川をモデルにド

ラゴンプロジェクトが始まったのであります。ドラゴンプロジェクトは、地域の活性化を図ろうとする21世紀に向

けての新しい取り組みであって、全国的にみて勿論初めての試みであります。三全総において流域圏構想とい

うものが打ち出されましたが、あれはいうなれば出すのが少し早すぎたのであって、今やっと流域圏構想の実現

に向けて動き出せるような状況になったと思います。流域を中心として地域のあり方を論じ、水と地域のあり方

を論じ、水の文化・河川の文化を論じ、流域における水管理のあり方を論じ、リージョナルコンプレックスの育成

を図りつつ・・・地域レベルで実践的な取り組みをしようというのは、本格的なものとしては、このドラゴンプロジェ

クトが始めてであると思います。

 

また、ドラゴンプロジェクトのように、学際的なメンバーによって、地域のあり方を総合的に論ずるというのも全国

で初めてのケースではなかろうかと思います。私は、21世紀のキーワードとして、自然、歴史・文化、交流の3

つのキーワードを考えておりますが、川とか水を通して自然を考え、川や水を通して地域の歴史・文化を考え、

川や水を通していろんな交流活動を実践していく、そういうねらいを持ったこのドラゴンプロジェクトは、全国的に

みても大変意義深いものであるし、また地域にとってもこれからの地域活性化に大きなインパクトを与えるので

はないかと思っています。私は、全力を挙げてこれを支援させていただく覚悟であります。

 

以上述べましたように、二一世紀のキーワードでもあり、又これからの地域活性化のキーワードでもある、自

然、歴史・文化、交流という三つのキーワードを重要戦略として考えながら、・・九頭竜川水系の・・・川づくり、地

域づくりを実践していこうとするもの、それがドラゴンプロジェクトであります。これは、とりもなおさず「九頭竜川

を生きる」ことに他なりません。・・・・なぜドラゴンプロジェクトなのか、なぜ九頭竜川なのか。以上で、その答えを

出しました。

 

 次に、ドラゴンプロジェクトを進めていく場合の重要な視点、九頭竜川を生きていく場合の重要な視点というも

のについて、述べておきます。

 

 米の自由化という問題に伴って、中山間地の問題が突如としてクローズアップされてきました。

 中山間地の農業が今後どうなって行くのか、そして中山間地における農山村はどうなって行くのか、そういう深

刻な問題があります。中山間地という言葉は、農業の立地条件からする地域区分であるかと思いますが、農林

水産省を始めとして農業関係者の間では今真剣に中山間地の問題が議論されております。今後農林水産省が

中心になって、中山間地の農業対策や農山村対策が講じられていくと思うので、ここでは中山間地という言葉を

使いますが、実は、・・・中山間地の問題というのは・・・水源地域の問題・・ということでもあります。中山間地の

農業が荒廃し、農山村が荒廃するという状況が進めば、結局は、農地が荒れ、山が荒れ、水源地域が荒廃す

ることになる。・・ひいては河川が荒れて水害が頻発することになる。このことは明らかであろうかと存じます。河

川管理者も決して無関心ではいられないのであります。

 

 中山間地の問題は、水源地域の問題であり、過疎地域の問題でもあります。すなわち、中山間地の問題とい

うものは、地域づくりと密接に関係しており、おそらく総合的に対応していかないと解決できないと思います。農

林水産省だけの問題では勿論ないし、行政だけで解決できる問題でもないだろう。私は、森林組合や農協その

他諸々のものを含めた民間レベルでの、上下流交流、都市と農山村との交流を進めながら、解決の糸口を見

つけだしていかなければならないのではないかと考えているのであります。

 

 そこで、交流をキーワードにした地域の活性化に関し、河川管理者のやるべきことはあるのかないのか。水資

源開発を進める立場、ダムによって洪水調節を進める立場、発電水利など水利権を所管する立場、砂防事業

を進める立場、地滑りやなだれ対策を進める立場、日常の河川水の水量や 水質を管理する立場などいろん

な立場があるので、ソフト面が中心になるかも知れませnが、私は、今後やるべきことが多々あると思っている

のであります。

 

 その際、基本的に重要なことは、下流域の人々だけではなく、もっと広く国民的なレベルで、流域についての

共通認識が必要だということではないか。そんな気がするのであります。

 最近、水系環境とか水循環ということが言われるようになってきました。自然に対する国民的な関心の高まり

の中で、いきおい河川や水に対する関心も高くなって来ております。そして、水というものを、山から海まで含め

て考えるべきだという考え方が多くなってきております。さらに、川の水は小河川や農業用水などとも繋がって、

流域全体で水の系というものが存在する。水量や水質を考える場合にも、また、自然生態系を考える場合に

も、流域全体で考えることが肝要である。そんな考え方から水系環境という言葉がよく使われるようになった。そ

して、そういった水系環境の望ましい姿として、水循環ということが言われ出しました。水循環という言葉は、ま

だ水系環境という言葉ほどは定着していないようで、人によって若干イメージが異なっているかもしれないと思い

ますので、少し私の考えを述べておきます。

 

 水循環が適性かつ健全に維持された状態とは、一つは、量に関して、基本的には自然の保水機能が十分あ

り土砂流出の悪影響もない状態であります。ただし、ダム等水利用施設のある場合は、適切な維持流量が確

保されていなければなりません。その結果、・・・水量が豊か、洪水も急激には出ない、・・・また洪水時の土砂流

出や流木が少ないという状況が作り出されていなければなりません。二つ目として、質に関して、汚水の流入も

なく自然の浄化機能が維持された状態であります。その結果、・・・河川の水質はきれいであり、魚類等の生態

系も豊かである。三つ目は、地下水や水路に関して、地下水涵養機能が維持され水路の水も豊かである状態

であって、その結果、・・・湧水が保全され、身近な水路にも潤いのある水環境が形成されていなければなりませ

ん。

 

 こんな状態は、おおよそ現実離れしていて、何を夢みたいなことを言っているのかということかもしれません

が、・・先程から再三述べてきましたように、・・・これからは自然再認識の時代でありますので、・・我が国が世

界の中で我が国としてのアイデンティティを確立するためには、そのような生活環境を持つべく、必死の努力を

して行かなければならないと思うのであります。多くの国民もそれを望んでいるのではないかと思います。

 

 今、私は、そういう生活環境を回復すべく、いろいろと考えを巡らせているところであります。その際、当然河

川管理者の責任は大きいのでありますが、大事なことは、・・・住民まで含めた多くの関係者の・・一致協力した

動きが必要である・・ということであります。水量や水質の問題をですね・・水循環という視点に立って本格的に

解決するとなると、それはもう流域全体の問題であり、住民まで含めた一大運動が展開できるのかどうかにか

かっている訳です。・・基本的に、流域というものについての共通認識が必要である所以であります。

 

 

 今述べましたように、九頭竜川水系を考えるとき、まずは流域というものについての共通認識が必要であり、

その共通認識に基づいて、みんなで・・・水源地域としての中山間地のことを考え、水循環ということを考えなけ

ればなりません。

 ドラゴンプロジェクトを実践するということ、そして「九頭竜川を生きる」ということは、・・・つとに中山間地のこと

を考え、水循環ということを考える・・ということでもあります。

私は、我が山小屋「荒川倶楽部」において、山を考え、川を考え、そして中山間地や水循環のことを考えていき

たいと思っています。これからの川づくりは、さまざまな交流活動あるいは連携によって進められる。それが私

の考えの核心部分であります。

謂うなれば、私は、梅原猛先生の言われる「循環と共生社会」の一つの姿を夢見ているわけであります

が、・・・・・私の予感としては、・・・・ドラゴンプロジェクトのような動きが、今後わが国の社会に広く定着していけ

ば、・・・多分、そのことが梅原猛先生の言われる第三の文明というものをも作り出していくことになるであろう、

そんな風にも感じているのであります。

 

 みなさん、是非、ドラゴンプロジェクトを押し進めて下さい。是非、自然、文化、交流をキーワードとして、九頭竜

川を生きていただきたい。九頭竜川の猛威とどう共生していくか、九頭竜川の恵みをどう享受していくか、そんな

ことを考えながら・・・九頭竜川を生きていただきたい。福井の歴史を我がものにして、九頭竜川を生きていただ

きたい。そして、さまざまな交流や連携を進めながら、・・・立派に九頭竜川を生きていただきたいと存じます。

私の切なる願いを申し上げ、話を終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

        論文

 

 

 四全総総点検を点検・・・地域づくりの哲学はあるか

 

 

 

 [目次]

 

1.はじめに

 

 

国土政策の基本方向について・・時代の認識

2.地方の時代

3.自然、文化、交流の時代

 

 

過疎地域の活性化について

4.過疎地域の再評価

5.過疎地域活性化の鍵

6.リージョナルコンプレックスについて

7.地域連携軸構想に欠けているもの

 

 

流域の再認識について・・流域に関する最近の動き

8.流域について概念の整理

9.ドラゴンプロジェクト

10.中山間地の問題

11.水循環の問題

12.異常気象の問題

 

 

流域の再認識

13.総点検における流域の認識

14.流域の持つ本質的な意義

15.流域の水管理

 

 

 

  はじめに

 

 この平成6年6月に、国土審議会調査部会(部会長 下河辺淳)か

ら、「四全総総点検調査部会報告・・・新しい時代のはじまりと国土

政策の課題・・・」が出た。

 四全総策定後、その基本的目標の達成を目指して、公共投資の計画

的実施等を通じて国土基盤の整備が着実に進められるとともに、各地

域において特色ある地域づくりが行われている。しかし一方、総人口

の伸びの鈍化や高齢化の急速な進行、経済の一層のボーダレス化に伴

う国境を越えた様々な活動・交流の活発化、地球環境問題の顕在化等

を背景とした環境保全に対する関心の高まり等、国土をめぐる情勢は

大きく変化している。こうした情勢に対応し、長期的視点に立って、

国土政策の対応方向を明らかにするため、第15回国土審議会(19

92年12月)において、同審議会に調査部会を設け四全総の総合的

点検作業を行うことが決定された。

 以来、約2年間、精力的に検討が進められた結果、ようやくこの6月

に報告書が出た。四全総策定後の国土の状況と課題については、大変

よく分析してあるし、現在を新しい時代のはじまりと認識して、人と

国土をめぐる経済社会情勢の変化を記述した部分についても、よく書

かれていると思う。共鳴する点が多い。しかし、肝心のこれからの国

土政策の基本方向については、「新たな国土の軸」構想と「地域連携

軸」構想というものが中心になっているのだが、私などの感覚からす

ると、それはそれで良いとして、ほかに何かが欠けているという感が

強くする。つまり、これからの国土政策の基本方向については、まだ

議論が未熟であるという感を拭い切れない。

 

 私は、昨年河川局長を辞めるまで、永い間河川関係の仕事を通じて

国土づくり、地域づくりに係わってきた。国土庁ができる前、計画局

で新産・工特の仕事にも係わったし、地方建設局で地域計画の仕事に

係わった期間も少なくない。特に、中国地方建設局長の3年間は、中

国・地域づくり交流会の設立に尽力するとともに、中国山地を中心と

する過疎地域の地域活性化に積極的に取り組んだ。そういった経験か

らであろうか、私には、河川を中心に据えながらも、地域づくりにつ

いての熱い想いがある。特に今は、河川環境の仕事に携わっているの

で、自然、とりわけ水環境と地域との関係を考えながら、地域づくり

に貢献していきたいと考えている。

 

 この度の報告書でも述べているように、過疎地域の活性化の問題は

国土政策の最大の問題であるし、特に今は、自然再認識の時代にあっ

て、水環境の問題は誠に重要である。私は、河川について、21世紀

に向けてやらねばならないことが多々あると考えている。河川局のお

いても、新たな施策展開に向かって、さらなる挑戦をしていって欲し

いと願っているところだ。

 かかる私の想いからすると、地域連携軸構想というのは、その中に、

河川局がこれから挑戦すべき新たな施策展開が入り切らないのでは

ないか、そんな心配が強い。地域連携軸構想を押し進めることは、

これからの国土政策上必要条件であるとは思うが、必ずしも必要十分

条件ではない。その点について、国土庁や河川局の担当者はもちろん、

多くの関係者に問題提起をするつもりでこの文をしたためた。思いつ

くままに書いた取り留めのない内容なっているかと思うが、その点は

大方のご叱責を賜ることとして、これをきっかけに議論を深めてもら

えれば誠にありがたい。

 

 

 

1 国土政策の基本方向について

 

 

(1)時代の認識

 

(1.1)地方の時代

 

 これからは、経済拡大、所得向上を単なる目標として追求するの

ではなく、わが国が有する経済力を使って何をするのかが国の内外

において問われている。

 国土政策の観点からは、経済力を活かしながら、すべての地域が

国土の中でそれぞれの特性に応じた適切な役割を担い、そこに住む

人々が誇りと豊かさを実感できるような国土の形成を目指すことが

基本的な方向である。総点検報告でもそう述べられており、その点

については私も全く同感だ。

 

 人口減少・高齢化の進んだいわゆる過疎地域は、太平洋ベルト地

帯から離れた北東地域(北海道、東北)、西南地域(南紀、四国、

九州中南部、南西諸島)、日本海沿岸地域などに広く分布している。

 これらの地域については、高速交通体系の整備が遅れている地域

でもあるので、当然、高速交通体系の整備を中心とした交通条件の

大幅な改善というものが、地域活性化の重要課題になる。他の過疎

地域においても、交通条件の大幅な改善は当然必要である。

 

 しかし、過疎地域の活性化の問題が、道路問題だけで論ぜられて

良いものでは勿論ないし、ましてや、上記の高速交通体系未整備地

域だけが日の目を見て、他の地域が見捨てられるということがあっ

てはならない。総点検報告を読む限り、地域連携軸構想が、過疎地

域全般というより、道路を中心にしたある特定の地域の対策にシフ

トしないか、私は、そんな心配を拭いきれない。これからは地方の

時代である。すべての地域が国土の中でそれぞれの特性の応じた適

切な役割を担い、そこに住む人々が誇りと豊かさを実感できるよう

な国土の形成を目指す、それが地方の時代における国土政策の基本

的方向である。

 

 

 

 

(1.2)自然、文化、交流の時代

 

 

 これからの時代は、自然再認識の時代、共生の時代、あるいはコ

ミュニケーションの時代、いろいろの言い方があると思うが、私は、

21世紀における世界のキーワードとして、自然、文化、コミュニ

ケーション、この三つのキーワードを考えているので、ここでは議

論の展開上とりあえず自然、文化、交流の時代だと言っておこう。

 

 過疎地域の活性化に当たっては、豊かな自然環境や歴史的・伝統

的文化等それぞれの地域が有する諸資源の有効活用を図るほか、地

域内外との交流・連携を図り、地域のアイデンティティを確立し、

地域住民が共通の理念を共有するとともに、広く他地域に対して情

報発信していくことが重要であり、それによって住民が地域に誇り

や愛着をもって生活することができるようになると考えられ、国と

してもこうした地域独自の取り組みを積極的に支援して行く必要が

ある。総点検報告ではこのように述べており、私も全く同感だ。

 

 なお、これからは、我が国の世界における位置づけを踏まえ、自

国内のことのみでなく地球的視点に立った国土づくりを行うととも

に、我が国のみならず世界的な自然に対する価値意識の変化の中で、

人と自然が共生する安全で美しい国土の形成を目指すべきである。

こうした国土づくりを通じて、世界の中での我が国のアイデンティ

ティが確立されていく。この点も、総点検報告で述べられていると

おりである。

 

 そして、私が思うには、過疎地域においてこそ、地域の自然的特

性に応じ、人と自然が共生する地域社会をつくり出すことが可能で

はないか、その点をとりあえず強調しておきたい。そして今一つ強

調しておきたいのは、人と自然との共生とは、豊かな自然環境を有

効活用するだけでなく、自然の猛威とも共生するということであり、

そういう自然との共生社会を目指してこそ理想的な地域づくりと言

えるということである。過疎地域において理想的な地域づくりを進

めることは、とりもなおさず、世界のなかでの我が国のアイデンテ

ィティを確立することでもある。自然、文化、交流という3つのキ

ーワードの中で、特に自然というキーワードが当面の重要課題であ

ることを指摘しておきたい。

 

 

 

 

(2)過疎地域の活性化について

 

 

(2.1)過疎地域の再評価

 

 なるほど、経済的な面で、過疎地域の人々の生活を守ることはな

かなか難しい。

しかし、そこにはそれぞれの歴史と文化があり、それらを守り、そ

して水と緑を守る人々の生活がある。それら歴史・文化、自然は国

民共有の財産であり、過疎地域を経済的な側面だけで評価してはな

らないだろう。勿論、過疎地域の経済的な基盤の強化についていろ

いろ工夫が必要だとしても、経済的な価値評価だけでなしに、歴史

・文化、自然というものを含めた総合的な価値評価が国民の間に広

がらなければならないだろう。

 

 自然再認識の時代において、やっと、過疎地域における地域活性

化に新たな機会が訪れた。ドイツにおける「美しき我が村運動」の

ような国民運動を緊急に展開して、過疎地域の本格的な活性化を図

らなければならない。

 

  勿論、これからの国土づくりに当たっては、過疎地域や都市地

域の如何にかかわらず、自然は重要である。自然は配慮ないし保護

する対象としてのみでなく、回復し、創造する対象として、また、

健全な姿で将来世代に引き継いで行くべき資産としてとらえていく

ことが求められている。つまり、地域の如何にかかわらず、こうし

た観点に立って、人の営みと自然の営みの新たな統合を目指すこと

が必要である。しかし、世界に誇れるような、理想的な自然との共

生社会は、先にも述べたが、私は、過疎地域でこそ実現可能であり、

国土政策の中でこのことはしっかりと認識されなければならないと

思う。

 

 

 

 

(2.2)過疎地域活性化の鍵

 

 

 心の豊かさや生活のゆとり、うるおいを求める方向で国民の価値

観が変化し、人々の自然への価値意識が高まるなかで、今も述べた

が、都市とは異なる、自然と歴史・文化に恵まれた生活空間や風景

を有する農山漁村は、人間の活力の涵養や活動、居住の場として国

民全体で守り支えていくかけがえのない資産であると位置づけられ。

 

 このような農山漁村の新たな位置付けを踏まえ、地域自らの選択

に応じて自主性と創意・工夫を発揮し、従来の対策にとらわれない

新たな視点で、都市との交流さらには諸外国との交流も念頭に置い

た、農山漁村の魅力の向上と地域社会の変革に取り組む必要がある。

 

 都市との交流、さらには諸外国との交流を目指した地域づくりに

より、地域の発展に向けた新たな可能性が生まれ、全国に個性豊か

な地域が展開される。交流をキーワードとする地域づくりは、自然

のみならず歴史・文化を生かした地域づくりが前提であり、それを

前提として新しい文化の創造を目指す地域づくりでもある。

 

 世界各国には、ジュネーブ、アスペン、カンヌ等規模の小さな都

市であっても、特定の分野で世界的な評価を獲得している都市が存

在する。我が国でも、近年、世界に向けて情報発信する個性的で魅

力ある地域(いわゆる「小さな世界都市」)が形成されつつある。

「小さな世界都市」の形成に当たっては、新たな魅力ある個性を創

造したり、自然、文化、産業等の地域資源に新たな価値観を吹き込

むことが重要であり、今後、地球時代における地域活性化の一つの

方策として地域の積極的な取り組みが望まれる。

 

 農山漁村においてもそういった世界を意識した地域づくりも必要

であり、交流というものは、歴史や伝統文化とあいまって、地域の

魅力を向上させる。交流の哲学的意味は、古いものを壊し、新しい

より価値のあるものを創り出すことにある。農山漁村においては、

ややもすると古いもののみに埋没する傾向があるので、歴史・文化

をキーワードにした地域づくりは、交流を前提として新しい文化の

創造を目指すべきである、その点を強調しておきたい。

 

 

 

 

(3)リージョナルコンプレックスについて

 

 地域づくりについては、それぞれの地域の住民の選択と責任のも

と、地域自らが主体的に取り組めるような体制づくりが強く求めら

れている。

 

 地域づくりは人づくりとよく言われるが、地域づくりに取り組む

サークルないし団体が生き生きしていなければならない。数名のサ

ークルから大きな団体までいろんな組織があって、いきいきと独自

の活動をしている。そして、それらの組織が何かある共通のテーマ

で結ばれている、そういう地域社会はいきいきしている。坂本慶一

氏(福井県立大学学長)は、リージョナルコンプレックスと呼んで

いるが、今後、わが国は、そういう地域社会の実現を目指さなけれ

ばならない。それが開かれた地域社会であり、共生、交流、連携

(ちなみに、共生、交流、連携は同根の言葉であるがこの順序で概

念が広い)をキーワードとする共生社会である。

 

 住民の属するコミュニティレベルといった地域社会の活性化も必

要ではあるが、コミュニティレベルを超えて、個人を主体にした地

域活動がより重要になってくる。わが国のいわゆる「むら社会」は、

そのような地域社会に変革されなければならない。

 

 事実、近年は、地域づくりにおいて、地域住民(ボランティア団

体)や地域の企業、さらには非営利団体等の果たす役割がますます

重要になってきているようで、このような多様な主体が、その有す

る人材やノウハウを活用しつつ、互いに交流、そして場合により緩

やかに連携しながら、地域づくりに積極的に参画するというケース

も多くなりつつある。

 

 リージョナルコンプレックスを形成していくため、福祉その他各

分野の施策が必要であるが、国土政策においてもそのことが重視さ

れなければならないのであって、地域における多くのサークルない

し団体が何を共通のテーマにして交流、連携するのが適当なのか、

今回の総点検においては、その点の議論が欠けている。

 

 現在は、本格的な高度情報化の時代の幕開け。今後は、従来、各

種の制約によって活動範囲が狭められていた人々が、フェイス・

トゥ・フェイスに近い環境でのコミュニケーションを通じて、経済

社会活動に積極的に参画し、自らの能力をより発揮することが可能

となる。

高度情報化については、政策的にも各般にわたって積極的な取り組

みが必要であるが、これからの地域づくりには交流、連携が不可欠

であるので、マルチメディアやパソコン通信を前提としたコミュニ

ケーションシステムを地域に構築していく必要がある。そのことは、

高度情報化を推し進めることにもなるが(我が国の場合とかくハー

ド先行と言われており、われわれはもっと利用に熱心でなければな

らないと思うが、今はその点に触れない)、何よりもリージョナル

コンプレックスの育成にも不可欠なことであろう。

 

 今後の国土政策の最大の課題は、過疎地域の活性化である。人口

はともかく、いきいきとした地域社会を作ることである。共生、交流

、連携をキーワードとした共生社会を作らなければならない。その

ためには、リージョナルコンプレックスを作らなければならない。

したがって、これからの国土政策の重要戦略は、如何にリージョナ

ルコンプレックスの育成をしながら地域づくりを進めていくか、そ

こになければならない。

 

 この点について、もう少し説明をしておきたい。これからの国土

政策は、ハード面については産業基盤というより生活基盤が中心に

なるので、それをどのように作っていくのか、そういったソフト面

を重視しなければならない。生活基盤というものは、大変幅が広く、

中にはハード先行でソフトが後からついてくるというものもあるに

はあるが、むしろ、ソフトが先行して、それを支援する形でハード

が後からついて行くというほうが望ましいであろう。

 

 町とか村というものは地域の住民が作り上げていくものであり、

町づくり、村づくりは、地域の住民が主役である。ソフトが重視さ

れなけらばならない所以である。ハード面を考えると同時にソフト

面を考える、また、ソフト面を考えると同時にハード面を考えると

言うことが肝要である。リージョナルコンプレックスの育成という

のは、言うまでもなくソフト面である。広域根幹施設は別として、

生活に身近な施設になればなるほど、ソフトの内容でハードの内容

が違ってくるし、ハードの内容でソフトの内容が違ってくる。したが

って、これからの国土政策は、リージョナルコンプレックスの育成

ということを考えながら、そのために必要などのようなハードをど

のように作っていくのか、その点が戦略として極めて重要であると

いうことだ。

 

 

 

 

(4)地域連携軸構想に欠けているもの

 

 この6月に出された四全総総合的点検調査部会報告で、これから

の国土政策の基本方向として、「新たな国土軸」構想と「地域連携

軸」構想が主たる戦略として打ち出されているが、この点について

更に私の考えを述べておきたい。

 

 まず、私の率直な感想として、これらの構想は、先にも述べたよ

うに、道路との関連で出てきたとの感を拭い切れないが、その点は

さておき、地域連携軸構想がどういう地域づくりの哲学ないし理念

から重要になるのか、その点が私には全く判らない。地域連携軸の

社会実験的な試みが既にいくつかの地域で行われていることは私も

承知している。地域連携軸構想は、運動論として大変素晴らしい発

想だと思う。しかし、誠に失礼な言い方で恐縮だが、地域連携軸構

想というのは、私には、運動論だけから一人歩きしているとの感が

強く、地域づくりの理念というものがほとんど感ぜられない。

 

 地域の実態、現場の実態を踏まえ、地域づくりの哲学を考える、

そこから明日の地域づくりについての理念というものが生まれてく

ると思う。これからの地域づくりは、21世紀を見つめ、わが国の

国是というか理想に基づいて進めていく必要があるが、そのために

は地域づくりの哲学というものが必要だということだ。

 

 中国地方は、中国山地を中心として、全国でもっとも先鋭的に過

疎化が進行した地域である。私は、中国地方建設局長時代、そうい

う実態をみて、中国・地域づくり交流会(会長 香川不苦三修道大

学学長)という、地域づくりに熱心に取り組んでいる人たちの交流

組織を仲間と一緒に作った。そして、数多くの部会を作り、地域づ

くりに関する交流活動に力を入れてきた。そういう実践活動を通じ

て、これからの地域づくりには、やはり、地域づくりの哲学が必要

だと痛感し、そのための研究会を作った。そして、国際日本文化研

究所長の梅原猛先生や法政大学教授の中村雄二郎先生など、哲学者

の話も聞くなどしてそれなりの勉強をしてきた。しかし、その点に

ついては、また別の機会に述べるとしてここでは触れないが、ただ、

今は内外ともに混沌の時代だから、21世紀に通用する哲学を考え

ながら、21世紀における理想、そしてこれからの地域づくりの理

念というもの考える必要がある、その点だけは指摘しておきたい。

 

 地域の実態、現場の実態を踏まえることは勿論不可欠なことだ。

しかし、明日の地域づくり、国土づくりに今必要な事は、理念であ

る。地域連携軸構想は、確かに、ひとつの有力な便法であり、これ

からの国土政策上最低限必要なことと思う。しかし、必要条件であ

るとしても必要十分条件ではない、というのが私の主張である。以

下、その点について具体的に説明をしたい。

 

 地域連携は、これからの国土政策で戦略的にも重要であると私も

思っている。しかし、連携は、何も軸線である必要はない。そうい

うものがあっても良いが、そうなければならない必然性というもの

はないと思う。駒ヶ岳サミットとか分水嶺サミットとか、同じ悩み

を持つ市町村が交流する事例は近年多くなってきているし、海外も

含めて遠く離れた市町村が姉妹関係を結んで交流する事例も少なく

ない。

それらの交流が更に進んで、お互い連携して何かと取り組む、これ

は素晴らしいことである。しかし、それらは必ずしも軸であらねば

ならない必然性はないであろう。道路とか川などを念頭に置いたと

き、確かに軸としてのいろんな交流や連携が考えられるし、地域の

活性化に有効であろう。しかし、もっと大切なことは、それぞれの

地域が、軸ということに拘らないで、幅広い範囲で交流をするとい

うことである。そして、何か共通のテーマで連携できれば連携する。

そういう弾力的な考え方こそ大切ではないか。道路とか川を軸にし

た交流や連携は、交流や連携の一つの形態でしかない。そのように

私は考えている。

 

 しかし、私の考えとして、もっと重要なことは、そういう交流や

連携を進める基本的なこととして、リージョナルコンプレックスの

育成という課題である。地域の自然とか歴史・文化をキーワードと

して、どのようにして地域におけるコミュニケーションを進め、ど

のようにリージョナルコンプレックスの活動を発展させて行くか、

そのための戦略が国土政策になければならない。

 

 リージョナルコンプレックスの活動としてどんなものが考えられ

るのか。それは、現在いろんな地域で活動しているサークルや団体

の活動を見ればおおよその見当がつくであろう。そういう実態に基

づきそれらの活動を支援する施策を検討し、今後それらの施策を強

力に展開して行くべきであるが、水とか河川について言えば、地域

連携軸構想からはそれらの地域活動を支援する施策はあまり思いつ

かない。

 

 今は、自然再認識の時代である。後ほど述べるように、私は、水

や河川に関する今後の施策についていろいろ考えていることがある。

もし、それらが国土政策として展開できないようでは、私としては

何のための五全総かと言わざるをえない。

 これからの五全総の作業においては、自然、文化、コミュニケー

ションをキーワードとした地域づくり、国土づくりについて、そし

て坂本慶一先生の言われるリージョナルコンプレックスについて、

国土庁、建設省の担当者はもとより、是非、国土審議会の先生方に

も考えて戴きたいと思う。

 

 

 

 

2 流域の再認識について

 

(1)流域に関する最近の動き

 

(1.1)流域についての概念の整理

 

 近年、流域という概念を再認識しようとする動きが広まって来た。

 流域とは、本来、分水界に囲まれた集水域という自然地理学的概

念であるが、ただ単にそれにとどまらず、歴史的に見て河川を中心

にして農山村社会が形成されて来たし、舟運を中心として村や町や

都市が発展して来たこともあって、流域は、社会経済的に見ても、

一つの圏域をなしているという認識が古くからあったかと思う。一

般の認識として、最近まで流域圏についての共通認識があったと思う。

三全総において、流域圏構想が打ち出されたのも、そういう認識が

あったからこそであり、流域圏の市町村は一つの運命共同体と理解

されていた。しかし、現在は、一般にそういう認識があるのかどうか。

 

 道路交通の著しい発展、水源地域の著しい社会経済的地盤沈下な

どにより、流域における人的、物的交流が相対的に少なくなったた

めであろうか、社会経済的な意味での流域の概念は、一般には、著

しく希薄になったようだ。

 

 しかし、中山間地の問題、水循環の問題、或いは異常気象時の水

管理の問題など今日流域が抱える諸問題を考えたとき、あらためて

流域の持つ社会経済的な今日的意義を明らかにし、流域という概念

についての共通認識を持つようにしなければならないのではないか。

流域の概念を、今日的な諸問題を視野に入れて問い直そう、そうい

う動きが最近とみに高まってきた。

 そういう動きの中で、私も、流域の持つ今日的意義をいろんな場

で申し上げていきたいと思っている。三全総で打ち出された流域圏

構想の再評価に繋がるかもしれないと期待しながら・・・・。

 

 

(1.2)ドラゴンプロジェクト

 

 治水事業は、社会資本を整備する事業のなかでも、国民の生命と財

産を守るもっとも根幹的なものである。わが国は、欧米先進諸国に比

べ河川の氾濫する地域に人口、資産が集中し、そこに社会経済活動の

中心があることから、治水事業が地域づくりや国づくりの基本である

ことはいうまでもない。

この重大な使命を果たすために、国土の利用状況、社会活動状況等

に対応して、的確な施策の展開と事業の推進を図ることが求められる

訳だ。

しかるに、これまでの営々たる治水事業の積み重ねにもかかわらず、

治水施設の整備水準は依然として低く、国民は水害などの危険から逃

れ得ないのが実情である。したがって、わが国は、真に豊かさを実感

でき、安全で活力ある生活大国の実現に向けて、治水施設のさらなる

充実を図らなければならない。

 同時に、水系環境は、地域の自然そのものであるし、人々の生活文

化や精神文化の形成に大きな役割を果たしてきており、自然への回帰

志向、あるいは精神的なゆとりへの志向といった国民の意識変化を考

えるとき、生態系、風景、親水性等に配慮しつつ、うるおいのある美

しい水系環境というものを創造することは、現下の緊急かつ重要な課

題であるといわなければならない。つまり、自然環境や文化を重視し

た治水事業の新たな展開が、今求められているように思われるのであ

る。

水文化とか河川文化という言葉も最近はよく聞かれるようになった。

文化的な側面から、水とか河川を見直そうと言うことだ。

 

 かかる観点から、国際日本文化研究所の安田喜憲教授の提唱により、

九頭竜川をモデルにドラゴンプロジェクトが始まった。ドラゴンプ

ロジェクトは、地域の活性化を図ろうとする21世紀に向けての新し

い取り組みであって、全国的にみて勿論初めての試みである。三全総

において流域圏構想というものが打ち出されたが、あれは言うなれば

出すのが少し早すぎたのであって、今やっと流域圏構想の実現に向け

て動き出せるような状況になったと思う。流域を中心として地域のあ

り方を論じ、水と地域のあり方を論じ、水の文化・河川の文化を論じ、

流域における水管理のあり方を論じ、リージョナルコンプレックスの

育成を図りつつ地域レベルで実践的な取り組みをしようと言うのは、

本格的なものとしてはこのドラゴンプロジェクトが始めてであると思う。

また、このような学際的なメンバーにより総合的に地域のあり方を

論ずるというのも全国で初めてのケースではなかろうか。私は、21

世紀のキーワードとして、自然、文化、交流の3つのキーワードを考

えているが、川とか水を通して自然を考え、川や水を通して地域の文

化を考え、川や水を通していろんな交流活動を実践していく、そうい

うねらいを持ったこのドラゴンプロジェクトは、全国的にみても大変

意義の深いものであるし、また地域にとってもこれからの地域活性化

に大きなインパクトを与えるのではないかと思っている。私は、全力

を挙げてこれと取り組む覚悟である。

 

 

 

 

(2)中山間地の問題

 

 米の自由化という問題に伴って、中山間地の問題が突如としてクロ

ーズアップされてきた。

 中山間地の農業が今後どうなって行くのか、そして中山間地におけ

る農山村はどうなって行くのか、そういう深刻な問題がある。中山間

地という言葉は、農業の立地条件からする地域区分であるかと思うが、

農林水産省を始めとして農業関係者の間では今真剣に中山間地の問

題が議論されている。今後農林水産省が中心になって、中山間地の農

業対策や農山村対策が講じられていくと思うので、ここでは中山間地

という言葉を使うが、中山間地の問題は水源地域の問題でもある。中

山間地の農業が荒廃し、農山村が荒廃するという状況が進めば、結局

は、農地が荒れ、山が荒れ、水源地域が荒廃することになる。ひいて

は河川が荒れて水害が頻発することになる。このことは明らかであろう。

河川管理者も決して無関心ではいられない。

 

中山間地の問題は、水源地域の問題であり、過疎地域の問題でもある。

すなわち、中山間地の問題というものは、地域づくりと密接に関係し

ており、おそらく総合的に対応して行かないと解決できないと思う。

農林水産省だけの問題では勿論ないし、行政だけで解決できる問題で

もないだろう。私は、森林組合や農協その他諸々のものを含めた民間

レベルでの、上下流交流、都市と農山村との交流を進めながら、解決

の糸口を見つけだしていかなければならないのではないかと考えている。

 そこで、交流をキーワードにした地域の活性化に関し、河川管理者

のやるべきことはあるのかないのか。水資源開発を進める立場、ダム

によって洪水調節を進める立場、発電水利など水利権を所管する立場、

砂防事業を進める立場、地滑りやなだれ対策を進める立場、日常の河

川水の水量や 水質を管理する立場などいろんな立場があるので、ソ

フト面が中心になるかも知れないが、私は、今後やるべきことが多々

あると思っている。

 

 その際、基本的に重要なことは、下流域の人々だけではなく、もっ

と広く国民的なレベルで、流域についての共通認識が必要だというこ

とではないか。

 

 

 

 

(3)水循環の問題

 

 最近、水系環境とか水循環ということが言われるようになっている。

自然に対する国民的な関心の高まりの中で、いきおい河川や水に対す

る関心も高くなって来ている。そして、水というものを、山から海ま

で含めて考えるべきだという考え方が多くなって来ている。さらに、

川の水は小河川や農業用水などとも繋がって、流域全体で水の系とい

うものが存在する。水量や水質を考える場合にも、また、自然生態系

を考える場合にも、流域全体で考えることが肝要である。そんな考え

方から水系環境という言葉がよく使われるようになった。そして、そ

ういった水系環境の望ましい姿として、水循環ということが言われ出

した。

水循環という言葉は、まだ水系環境という言葉ほどは定着していない

ようで、人によって若干イメージが異なっているかもしれない。

 

 水循環が適性かつ健全に維持された状態とは、一つは、量に関して、

基本的には自然の保水機能が十分あり土砂流出の悪影響もない状態

である。

ただし、ダム等水利用施設のある場合は適切な維持流量が確保されて

いなければならない。その結果、水量が豊か、洪水も急激には出ない、

また洪水時の土砂流出や流木が少ないという状況が作り出される。二

つ目として、質に関して、汚水の流入もなく自然の浄化機能が維持さ

れた状態。その結果、河川の水質はきれいであり、魚類等の生態系も

豊かである。三つ目は、地下水や水路に関して、地下水涵養機能が維

持され水路の水も豊かである状態であって、その結果、湧水が保全さ

れ、身近な水路にも潤いのある水環境が形成される。

 

 こんな状態は、おおよそ現実離れしていて何を夢みたいなことを言

っているのかということかもしれないが、先程から再三述べているよ

うに、これからは自然再認識の時代であるので、我が国が世界の中で

我が国としてのアイデンティティを確立するためには、そのような生

活環境を持つべく努力して行かなければならないと思う。多くの国民

もそれを望んでいるのではないか。

 

 今、私たちは、そういう生活環境を回復すべくいろいろと対策を検

討中である。その際、当然河川管理者の責任は大きいのだが、大事な

ことは住民まで含めた多くの関係者の一致協力した動きが必要であ

るということだ。水量や水質の問題を水循環という視点に立って本格

的に解決するとなると、それはもう流域全体の問題であり、住民まで

含めた一大運動が展開できるのかどうか。言うは安し、行うは難しで

あろう。基本的に、流域というものについての共通認識が必要である

所以である。

 

 

 

 

(4)異常気象の問題

 

今は、地球環境が心配されている時代であり、地球温暖化が心配され

ている時代である。今後、もし地球温暖化が進めば、世界的に気候が

大きく変わり、異常気象が生じやすくなるのであって、その結果、異

常洪水や異常渇水が起こりやすくなる。河川局では、そういったこと

も視野に入れながら、異常洪水や異常渇水に対する危機管理を検討し

ている。

渇水調整を頭に思い浮かべれば判るように、危機管理は、基本的には

、流域における諸団体の良好な関係が大前提である。

 

 また、慢性的な水不足の解消を図るためにも或いは異常渇水対策と

しても今後ともダムの建設が促進されなければならないが、多目的ダ

ムを建設する場合においても、上下流の良好な関係が維持されている

かどうか、そのことが基本的に重要である。その場合、市町村のみな

らず住民レベルでの相互理解が大切であり、そのために、各地で上下

流交流が行われている。「蛇口の向こうに顔がある」とは、関東学院

大学の宮村忠教授が言われ出した言葉だが、逆説的に言えば、住民レ

ベルでの相互理解がまだまだ不十分という事かも知れない。

 

 森林が適切に維持されていなければ、異常洪水によって一番ダメー

ジを受けるのは下流地域である。ダム建設が遅れて、異常洪水によっ

て一番ダメージを受けるのは下流地域である。下流地域の人々は、水

源地域があっての下流地域であることを十分認識しなければならない。

やはり何と言っても、流域はひとつの運命共同体である。

 

 

 

 

5流域の再認識

 

(5.1)総点検における流域の認識

 

 このたびの総点検で、流域というものがどのように認識されている

だろうか。まずその点について見てみよう。

 

「自然のメカニズムに即した健全な国土を形成するためには、国民が、

自ら生活する地域の自然の基本的な単位である流域圏を十分認識し、

それを可能な限り乱さないような国土の利用を進めることを共通認

識として持つ必要がある。このため、地域の実情に応じ流域を単位と

した住民の地域間交流や自然教室、自然とふれあえる場の整備などを

推進し、流域住民の参加を得て、地域ごとに特徴のある文化をいかし

た地域づくりを行い、人と自然とのかかわりあいを深めていく必要

がある。」

 

 これが総点検報告における流域圏に関する記述であるが、異常洪水

や異常渇水のことが全く意識されておらず、私には大いに不満である。

流域というものについての認識は、洪水や水資源の問題が基本になけ

ればならないし、さらには中山間地の問題、水循環の問題等も強く意

識されていなければならない。更に言えば、流域についての共通認識

というものは、単にそれらだけでなく、歴史的なものはもとより、も

っと社会的、経済的な諸々の面を含めて出来上がっていくものではな

いかと思っている。

 

 すなわち、私などがこれから取り組みたいと考えている水循環とい

うか水管理を中心とした流域の問題については、勿論それだけでも多

くの関係省庁が協力しないとできないし、ましてや地域活性化の問題

が絡んでくるとなると極めて幅広い施策が必要になってくる。国土政

策上明確な方向付けがなされてないと何ともならないのではないか。

流域の問題は、国土政策としても誠に大きな国民的課題であると思っ

ている次第である。地域連携軸というような構想だけでとても包含で

きるものではない。

 

 

(5.2)流域の持つ本質的な意義

 

 これからは、自然再認識の時代である。自然に対する正しい認識と

いうかトータルとしての認識が必要だと思う。自然の恵みのみならず、

自然の恐ろしさについても認識されなければならない。知水、潤水、敬

水ということを提唱している人もいるし、敬水思想の重要性を説く学

者もいる。今後、わが国民が持つべき自然観は、アニミズムによるだ

けでなく、マナイズムによるものが重要であろう。水についても正に

そうで、自然の恵みとしての水、自然の恐ろしさとしての水、それが

水の本質であり、そういった水そのものについて国民の関心が高まっ

ていけば、流域についての国民の意識が高まっていくのではないか。

 

 かかる観点からいって、自然の再認識の時代は、流域の再認識の時

代である。そして、水の再認識の時代、森の再認識の時代である。自

然の思想とともに、水の思想、森の思想が必要である。そして、それ

らを統合する哲学が必要である。

 

 

 

 

(5.3)流域の水管理

 

 水は地域社会が存在するための基礎資源である。森もそうだ。そし

て、流域はそれらを共有している。

 

 公共施設を分類すれば、道路は利便施設であり人工公物であるが、

河川は基礎施設であり自然公物である。そして、ダムは、河川であり

公共施設であって水系施設、下水道は、河川ではないけれど公共施設

であって水系施設、堰、農業用水路、上水道、工業用水道は、公益施

設であって水系施設である。

 

 私は、勝手にこんな分類をしているのだが、基礎資源に関連した基

礎施設管理の原則、例えば国と地域との関係はどうあるべきなのか。

自然公物管理の本質から、例えば地域の責任と権限はどうあるべきな

のか。また、水系施設である公共施設と公益施設の管理の関係はいか

にあるべきか。

 

 私は、今後、こういったことの学問的な検討を加える必要があると

考えているので、今は軽々しくは言えないが、水系施設における水の

管理(水量、水質の管理)は、本来、流域単位で統合管理ができない

だろうか。少なくとも総合的に管理される必要があるが、現在は、法

制度上の問題からか実体上の問題からか、ともかくそれがうまくいっ

ていないように思われる。だからこそ今日の水に関する様々な問題が

生じているのではないか。場合によれば、水基本法というものが必要

かもしれない。

 

 流域における総合的な水管理或いは統合的な水管理というものは

それほど難しい。しかし、上述のように、流域の本質的な意義からし

て、どうしても実現していかなければならない国土政策上の重要課題

である。

 

 運命共同体というものは、基礎的なもので結ばれて、それを当然の

前提として存在している組織をいうのだろう。水はもっとも基礎的な

ものである。流域は、水で結ばれ、その関係が崩れれば大きな障害が

出てくる。もし、その水の供給が途絶えれれば、地域社会そのものが

存立していけない。国土の管理は、流域の管理が基本であると言えば

言い過ぎであろうか。

 

 

おわりに

 

私のもっとも尊敬する梅原猛先生は、「これまでの科学技術は自然を

征服するための科学技術であったが、これからの科学技術は自然と共

生し、自然を尊敬するための科学技術、共生と循環の原理に基づく科

学技術でなければならない」とおっしゃっておられる。先生はそうい

った哲学者としての持論から長良川河口堰に反対をして居られ、その

点については、現実に責任を持つ行政の立場として全く同意できない

し、先生のためにも誠に残念に思うのだが、上述の基本的な考え方に

ついては、私も全く賛成である。今後、世界は、そういう方向で進ん

でいかなければならないと思う。

 

 ちなみに、長良川河口堰について少し触れておくと、長良川河口堰

はなるほど自然を改変するけれど決して自然を破壊するというもの

ではないし、洪水という自然の猛威から人々の生活を守るための、つ

まり自然と人との共生のための知恵である。人類は自然を改変しなが

ら現在の文明をつくりあげてきた。確かに、近年は、自然の改変に行

き過ぎの面も出てきて、〈自然との共生〉というわが国の伝統的な思

想にもっと思いを寄せなければならないのは当然だと思うが、私には、

長良川河口堰が共生の思想に反するものであるとは到底思われない。

 

わが国の伝統的な自然観からすれば、「人工が自然を完成し、自然

が人工を完成する」、私はそのように考えているが、それはともかく、

自然とは何か、文化とは何か、自然との共生とは何か、自然環境や文

化を重視した治水事業のあり方とは具体的にどんなことなのか、そし

て、これからあるべき合意形成のあり方はどうなのか。そんな議論を

中心に、これからあるべき河川行政について私どもは随分勉強をして

きたつもりである。

 

 そして、今、私は、河川環境の三代要素、自然生態系と社会系と文

化系、それらを考えながらこれからの川づくりを進めていきたいと考

えている。そして、そういったこれからの川づくりは、さまざまな交

流活動あるいは連携によって進められる。言うなれば、私は、梅原猛

先生の言われる「循環と共生社会」の一つの姿を夢見ているわけだが、

私の予感としては、今私が考えているような動きがわが国の社会に広

く定着していけば、多分、そのことが梅原猛先生の言われる第三の文

明というものをも作り出していくことになるであろう、そんな風にも

感じている。是非、国土政策についても、国土づくりの哲学、地域づ

くりの哲学に基づいて、もっと夢のある議論をして欲しいものだ。

 

旅のすすめ

 

 

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 <目次と要点>

 

(1)、はじめに

  *わが国らしい生き方 *「知と情」を磨く

 

(2)、JUUU−NETの活動に何故「旅」を重要視するのか

 

 

共生、コミュニケーション、連携

 

  *中村雄二郎氏の「共振する世界」

 

* 老松克博氏の「漂泊」

 

  *共振」は「漂泊の旅」の中にある

 

  *セカンドハウスに悠々の時間を過ごす、

 

  *リゾートオフィスで自然との触れ合いを楽しみながら仕事をする

 

  *コミュニケーションの世界

 

  *マルチメディアを駆使した「旅人の社会」

 

(3)、旅のさまざま

 

  *旅の幕開け * 新しい知識をもとめての旅(先進地視察)

 

  *志士たちの交流が明治維新へのいとぐちをつくっていく

 

  *食客

 

  *旅行の設備や機関がととのってくるにつれて、

 

民衆が民衆に接し、学ぶ機会が失われてくるとともに、知識をもとめ、伝達し、自己形成のために役立てようとした旅から、単なる娯楽への旅が展開してくる。それでもなお旅に出て自分のいままでの生活の中にないものを得ようとする気持ちはつよい。

 

* 共通の観念をもちつつも、

 

それに気がついていない人びとが地域毎によどんでいる。その人たちが目ざめて手をつなぎあう。それは、旅をすること以外に目のひらきようのないものである。みんなであるいてみる。あるいて別の世界にふれてみる。またあるきつつ道づれをつくる。一人で見るよりは二人で見るのがよい。教え教えられながらあるく。

 

本当にそんな旅がしたいものである。

 

* 旅は気まぐれである。

 

何かにぶつかり、どんな人に出会うかわからない。その気まぐれな時間のなかで、旅人は何かを感じる。何かを発見する。美しい人、唄、祈り、言葉には言いつくせない哀しさ、優しさ、温かさ。

 

都市生活者は都市の中に閉じこめられているだけでは息苦しくて生活できないまでに過密化している。その上静かに考える場すら失われしまった。私たちはその解決の道の一つに旅を見出したい。

 

* 旅のさまざま

 

(テクテク歩く旅・長期間滞在して・日本は、山国であるとともに海国・茅手のふるさと・小さな宿)

 

* 思えば、

 

日本の民衆はいつも社会の下積みにせられ、歴史の表面に出てくることはなかったが、大変なエネルギーを持って、黙々と生活を築き、文化をつくりあげ、いつも変わらぬ日本人の心を持ち伝えてきた。旅はそういうことを教えてくれる。

 

* 旅をして地方の先覚者に会いともに語り、またそれぞれ現地における活動の様と地方の現状を知る。その土地に活気の満ち溢れているところにはすぐれた指導者とそれに同調する人々がおり、そういう土地の持つ生産力は素晴らしいものがある。

 

* 山が貧しいのではない。山に住む人たちとそれを導いていく人の意識の立ち遅れが、山村を苦しみに落としているのではないだろうか。しかし、地域によっては、すごい人生観や活力を持った人たちがまだまだいる。旅をしてそういう人たちと会いたいものだ。

 

 

 

(4)、JUUU−NETの活動方針

 

(5)、旅のライブラリー

 

私は、実験的に、私のホームページで「私の散歩路」を紹介している。こういったページが地域において蓄積されいけば、大変価値のある旅の情報ライブラリーとなるのではないか。

 

 

 

旅のすすめ

 

 

 

(1)、はじめに

 

 国際化が進展する中で、社会のグローバル化が進展する中で、或いは地球化が進展する中でと言っていいかも知れないが、今後、わが国は、わが国らしい生き方をしていかなければならない。われわれ日本国民は、世界における、それぞれの民族文化の違いというものを十分わきまえ、かつ、それぞれの民族文化というものを大切にしながら、その上でわが民族らしい生き方をしていかなければならない。

 

 経済的には、国際分業の中で、伝統産業というものを大切にしながら、歴史・文化を大切にしながら、情報産業という先端産業を育んでいかなければならない。「両頭裁断」という言葉があるが、伝統産業の育成と先端産業の育成という、一見矛盾するものを両立させなければならい。

 

 われわれは歴史を生きなければならないのである。歴史というものは、われわれ身体の一部である。われわれ自身である。したがって、歴史を大切にしない限り、われわれ自身の能力、「知と情」は育たない。「知と情」が育たない限り、先端産業の育成なんてものは到底期待できないではないか。

 

 私は、これからわが国が先端産業で生きていくためには、われわれ自身が「知と情」を磨かなければならないと思っている。

 

「知と情」を磨くためには、何が大事か。おそらく、自然との触れ合い、歴史・文化との触れ合いがない限り、「知と情」は磨くことは難しいであろう。また、人との触れ合いがなければ、

 

 われわれ自身の「知と情」を磨くことは到底できないであろう。

 

 願わくは、天籟を聞き、地籟を聞き、人籟を聞かなければならない。

 

 自然と触れ合い、歴史・文化と触れ合い、そして人々と触れ合うそういう環境が身近に整っていなければならないし、又われわれは、旅に出なければならないと思う。われわれは大いに歩き、見て、聞かなければならない。「あるき、みる、きく」、そのための旅に出なければならない。私が、「ロマンある地域づくり」を唱え、旅をすすめているのも、畢竟、「知と情」を磨きわれわれらしい生き方をするためだ。

 

さあ、皆さん、これからは大いに、・・・・天籟を聞き、地籟を聞き、・・・そして人籟を聞く旅に出ようではないか。

 

 

 

(2)、JUUU−NETの活動に何故「旅」を重要視するのか

 

 JUUU−NETは、個人に焦点を当て、それぞれが精神的にも充実した生活ができるよう、共生、コミュニケーション、連携をキーワードに、新しいイキイキとした地域社会を目指している。

 

 私たちの言葉としては・・・・地域の活充化ということだが、私たちJUUU−NETでは、それぞれ個人の個性というものを大切にし、お互いにお互いを認め合いながら共生していく、そのような社会を目指している。そして、その場合、それぞれ個人が実行するライフスタイルとしては、定住ではなくて半定住、言い変えれば・・・セカンドハウスやリゾートオフィスに基づいた「マルチハビテーション」であり、そして漂泊にも似た「旅」をこよなく愛し、別世界との出会い、コミュニケーションを楽しむ生活である。

 

 そして、さらには、会社人間ではなくて半会社人間、言い換えれば・・・・・地域づくりなどボランティアにも熱心な「マルチ人間」であり、仲間とのネットワーク・・・言い換えれば「コミュニケーション」と「連携」、そういったものに基づいて、常に何かをやりたいと願う行動派の人間である。そして、言うまでもなく、コミュニケーションの手段としては、勿論「触れ合い」というものをもっとも大切にしつつも、インターネットやパソコン通信・・言い換えれば「マルチメディア」を愛用している。

 

 今ここでは「旅」に焦点を当てて、これからの生き方について普遍しておきたい。

 

 我が国を代表する哲学者・中村雄二郎氏は21世紀の世界像として「共振する世界」を描いておられ、又新進気鋭のユング派精神分析家・老松克博氏は「共振の感覚は定住的なものの見方からはでてこない」と・・・「漂泊を生きる」ことの重要性を言っておられるが、まず、中村雄二郎氏の「共振する世界」をかいま覗いてみよう。

 

 永い間人々は、<天球の音楽>や<天球のハーモニー>というのを、詩的な表現か、せいぜい比喩的な表現としてしか受け取らなかった。だが今日では、電波望遠鏡の発明と発達によって、大宇宙が現実に音とリズムに充ち充ちていることが明らかになった。すなわち、われわれは、太陽系の惑星、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の発する電磁波を電波望遠鏡をとおして音に換えて聞くことができるようになった。私もそれら大宇宙の音を聞いたことがあるが、それは胎児が聞く母親の胎内音と実によく似ている。私たちは、そういった宇宙のリズムに包まれて誕生し、宇宙のリズムに包まれて生きている。生きとし生けるものすべてがそうなのだ。否、量子の場もそうであるとすれば、大宇宙のすべてがそうだということであろう。

 

 そしてより重要なことは、それらのリズムはお互いに「共振」しているということだ。この「共振」という働きは、宇宙や自然界のいたるところに見出される驚くほど普遍的な現象である。脳波同士の共振から始まって、動物固体の心筋細胞の共振、潮の干満のリズムと女性の生理との共振等等である。

 

 このように、この現実の世界は、正に「共振する世界」である。それはまた・・・「五大にみな響きあり」とするあの空海の「マンダラの世界」でもある。そういう認識が重要なのだ。そして、そういう認識の下、この現実の世界で今正にやらなければならないことは、中村雄二郎氏が言うように、生命的なリズム感覚を取り戻すこと、リズムを通しての根元的なコミュニケーションというものを取り戻すことである。今自分の住んでいる世界とは違う世界のリズム、いろいろな地域の持つリズムとの「共振」、言い換えればいろんな地域文化との響き合い、そういったものを実感するところから始めなければならない。それによってはじめて私たちの目指す「共生社会」がより現実のものになってくる。

 

 

 

 次に、老松克博氏の「漂泊」という概念に触れておきたい。

 

 日本の文化を貫く特徴として「漂泊」というものがある。俳句や能、歌舞伎、浄瑠璃など日本の代表的な文化には漂泊的なものが多い。「漂泊」は、私たちの行動パターン、つまりライフスタイルとの関係で言えば、「今が一番大事」という仏教で言うところの「無常観」、そういう世界観を持って生きていこうとする生き方である。悪く良くと刹那主義になるかもしれないが、すべてが起こっては消えていく中で、そこに生きる意味、価値を見出していこうとするもの、それが「漂泊」だ。老松克博氏によれば、西洋の「定住的な自我」に対し、日本人の自我には漂泊的な部分が多い。

 

 私たちは私たちの文化を生きていかなければならないが、それはとりもなおさず日本人の自我の特性・・・「漂泊」を生きていくということだ。

 

 その際、大事なことは、「共振」ということだ。漂泊を生きるには、今の言葉で言えば「縁(シンクロニシティー)」というものを信じることが大事であり、そのためには旅にでて、いろんなものと「共振(シンクロナイズ)」して、「縁」というものを実感することである。「袖触れ合うも他生の縁」。・・・仏教で言うところの「無常観」の中から逆に積極的な生き方が見出されていく。「共振」は、離れていて関係がなさそうなのに通じ合うということだが、それは定住的なものの見方からはでてこない。

 

「共振」は「漂泊の旅」の中にある。

 

 

 

 JUUU−NETは、個人に焦点を当て、それぞれが精神的にも充実した生活ができるよう、共生、コミュニケーション、連携をキーワードに、新しいイキイキとした地域が、私たちJUUU−NETでは、それぞれ個人の個性というものを大切にし、お互いにお互いを認め合いながら共生していく、そのような社会を目指している。

 

 そうだとすれば、私たちは、セカンドハウスに悠々の時間を過ごすなり、リゾートオフィスで自然との触れ合いを楽しみながら仕事をすることが必要だ。また漂泊にも似た「旅」をしなければならない。そうすることによってはじめて生命的なリズムを取り戻すことができるのではなかろうか。

 

 21世紀は、コミュニケーションの世界であり、情報の世界である。世界はまさしくウェブ(蜘蛛の巣)のごとく情報のネットに包み込まれてしまうのだが、その主役はあくまで個人である。そして、谷口正和氏がその著書「パラダイムの予言」で述べているように、それぞれ個人の個性というもの、個性という差異を認め合い、評価し合い、それを楽しみの交換にしていく社会、それは先行性というものが全社会的に活性化され、個人的特性というものがまるで」お花畑のように咲き誇るイキイキとした地域社会である。

 

それはとりもなおさずマルチメディアを駆使した「旅人の社会」でもある。

 

 

 

 (3)、旅のさまざま

 

 「旅」の歴史はとても古い。初期には、生活必需品を求め合うための旅から、或いは大和朝廷の命により任地におもむいた官吏の旅、そういった個人的欲求とは隔絶した点で旅はなされた。しかし、ある程度の経済的安定が満たされたとき、あるものは我が信じる神を求めて出かけた。これこそ自由な意志による旅の幕開けといえよう。

 

 平安時代から始まった熊野参詣は、鎌倉・室町時代には最大の盛り上がりを見せた。信仰の力は実に驚くべきものがあると感心する。伊勢詣でや四国88カ所めぐりなどの巡礼は時代を超えて盛んだ。

 

 信仰について言えば、信者のみならず宗教の布教活動も盛んに行われたのであり、これを見逃すわけにはいかない。例えば一遍上人。一遍上人は、民衆を固定した地域社会の中かに見出したのではなく、旅をすることによって、地域社会を超えることによって、見出したのである。旅をしなければ民衆全体を発見することはできなかった。

 

 また、俳人など芸術家の旅はよく知られているところだろう。芭蕉が、素晴らしい作品を大成したのも、旅によって、ものに触れ自然を見つめることからきているのであろう。芭蕉の文学を、足で書かれた文学とするのは、決していいすぎではあるまい。

 

 幕末の頃になると信仰の旅を名としつつも、新しい知識をもとめての旅がいよいよ盛んになってくる。私の尊敬するかの民俗学者・宮本常一の言うところにしばし耳を傾けてもらいたい(旅の発見、旅の民族と歴史3、宮本常一編著、八坂書房)。

 

 瀬戸内海地方に薩摩芋がひろく栽培せられるようになったのも新しい知識を求めての旅であったし、兵庫県加東郡社町のあたりで釣り針の製造が盛んなのもそうである。地方に見られるいろいろな手工業の由来をしらべてみるとそのほとんどが、そういった旅によって技術がつたえられたものが多いとのことである。

 

 今日のように農事試験場が各地にでき、また農業改良普及活動が盛んになってくると、旅をしなくても農業知識はいろいろ得られるようになってきているが、しかしそれだけではやはり十分ではなく、先進地視察はいよいよ盛んになろうとしている。しかもそれは単に農業だけではなく、あらゆるものについて言えることなのである。

 

 幕末の志士たちとよばれる人びともほとんど旅をし、先学者にあうことによって目をひらいている。吉田松陰、橋本左内、高野長英、平野国臣らをはじめ名をあげていけばきりがないほどである。それぞれの地方に住む有志にあうことによって目をひらき、また日本全体について考えるようになってきたのである。と同時にその頃は人材について言えば、中央と地方の差は

 

なかった。むしろ地方にすぐれた学者が少なくなかった。そしてこれらの志士たちの交流が明治維新へのいとぐちをつくっていく。

 

 宮本常一は、旅人のなかにはずいぶんのんきなものもいたと言っている。画家や詩人などのたぐいにそれが多かったようである。旅に出ていって気に入った家でもあると何日でもそこに滞在した。またそういう人をとめておいて文句を言わないような豪家や寺などがあったもののようである。

 

 まずしい画家たちはそのようにして地方の豪家などで食客をしつつ何日でもすごす。そして宿銭をおくかわりに絵を描いておくことが多かった。一芸一能に秀でておれば、金はもたずとも、そういう人をとめる豪家があった。またそういう家があるために当時の知識人も旅をすることができた。宮本常一はそのように述べている。さらに、宿へとまってもチョンガレ語りといえばただであったらしい。しかしその夜は泊まり客にチョンガレ(浪花節の前身をなすもの)を語ってきかせなければならなかった。宿といっても木賃宿であるが・・・。

 

 旅行の設備や機関がととのってくるにつれて、民衆が民衆に接し、学ぶ機会が失われてくるとともに、知識をもとめ、伝達し、自己形成のために役立てようとした旅から、単なる娯楽への旅が展開してくる。それでもなお旅に出て自分のいままでの生活の中にないものを得ようとする気持ちはつよい。そしてそれは国内の旅だけでなく、次第に国の外へ向かってひろがりを持ちはじめている。しかし旅本来の姿は自分たち以外の民衆を発見し、手をつなぐものであったことを忘れてはならない。昔はその中に自分を、また世の中を発展させる要素を見出していったが、いまもそのことはかわりないと思う。宮本常一はこのように言っているし、又次のようにも言っている。大変示唆に富んだ言である。

 

 共通の観念をもちつつも、それに気がついていない人びとが地域毎によどんでいる。その人たちが目ざめて手をつなぎあう。それは、旅をすること以外に目のひらきようのないものである。みんなであるいてみる。あるいて別の世界にふれてみる。またあるきつつ道づれをつくる。一人で見るよりは二人で見るのがよい。教え教えられながらあるく。本当にそんな旅がしたいものである。

 

 

 

旅は気まぐれである。何かにぶつかり、どんな人に出会うかわからない。その気まぐれな時間のなかで、旅人は何かを感じる。何かを発見する。美しい人、唄、祈り、言葉には言いつくせない哀しさ、優しさ、温かさ。

 

 都市生活者は都市の中に閉じこめられているだけでは息苦しくて生活できないまでに過密化している。その上静かに考える場すら失われしまった。私たちはその解決の道の一つに旅を見出したい。

 

  それでは、現代の人々がどんな想いで旅をしているのか、「あるく、みる、きく」(企画監修宮本常一、日本観光文化研究所編、発行者馬場勇)から、旅のさまざまを紹介しておきたい。

 

@、アメリカの話しにこういうのがある。もっとも安く旅をするには飛行機を使い、もっとも         デラックスな旅をしたいと思えば各駅停車の汽車に乗ればよいそうだ。日本で考えると、さしずめ新幹線の旅と歩く旅がそれに当たるだろう。

 

 歩幅60センチでテクテク歩く旅は、自動車の砂煙で鼻のあたりを真っ黒にしながら、イライラするほどのあせりがあっても、未知の地を歩き、未知の人を知り、未知のものに遭遇する楽しみある。そして、こんな世界や考え方があったのかと驚き、びっくりしているうちに、ふと自分の見方考え方が違ってきていることに気がつくのである。

 

(67年5月号、「本陣への旅」、宮本常一)

 

A、私の旅は、広い地域を急ぎ足で動き回るというものではなく、あるところに長期間滞在して、土地の人々と生活を共にするものです。稲垣尚友三はそう言いながら、次のように述べておられます。(69年8月号、「人間らしさの原型を求めて」、稲垣尚友)

 

 「人間どこでどんな人にお世話になるかもしれん。わしのせがれも万が一にもあんたのような人に世話にならんともかぎらんからなあ。」といって微笑しながら旅人をいたわってくれたのだそうです。そういったことはどの村に行ってもそうだった。こうして稲垣さんは、生まれて初めて人間の生々しい触れ合いを経験することになりました。都会暮らしの稲垣さんには、生の人間をぶっつけ合う機会も少なく、人間らしいみずみずしさとはどんなものなのかを問うてみることすらなかったのを、エラブ島の人たちによって稲垣さんは生まれて初めて知ることになったのです。そういった人間のみずみずしさといい、青い珊瑚礁の海、そしてまた、外国語を聞くようでほとんどわからない島の人たちの交わす言葉、独特の哀調を奏でる蛇皮線の音、芭蕉の葉で葺いた家々、すべて初めて見る光景に稲垣さんは胸をわくわくさせたのでした。「何もかも東京の真似事かと思っていた私には、日本にもこんな個性豊かな土地が合ったのかと思ってうれしくてなりませんでした。」・・・稲垣さんはそうおっしゃっておられます。

 

B、日本は、山国であるとともに海国です。そして三陸海岸は、海と山がもっとも強くつながり合い、融け合っているところです。だからこそここで生き、ここを開発してきた人たちは、有無を言わさず山と海の両方にかかわりをもってきたのではないか。そしてそういう人たちの心には、ふだんわたしたちの気付かない人生観や自然観があるはずだ。旅は、そういうわたしたち以外の人の人生観や自然観を知り、それを知ることによって、私自身のそれを確かめ、広げ、深めることができる、言い換えれば私自身の内面の可能性を無限に押し広げていくためのある体験だ、と私は思っています。(69年8月号、「三陸海岸」、姫田忠義)

 

C、会津田島は茅手のふるさとである。茅手とは、屋根葺き職人のことで、毎年5、6人の組を作って、関東は、栃木、千葉、東京、山梨方面まで出稼ぎに出ていった。彼らは年季の入った旅人であった。江戸時代から始まり昭和初期は勿論のこと最近までのことだ。葺き場には毎年世話になる宿があった。「わらじむぎ」という。宿といっても普通の農家であった。茅手にとっては会津にいる家族と連絡する場所になる。草屋根はもうなくなろうとしています。でもまだ茅手たちは各地に健在。技術も分布も教えてくれるでしょう。歩くときは、できるだけ乗り物を降り、大きな道もはずして下さい。そのほうが発見も大きく、楽しみも大きいからです。バスもなければ便乗も宿も頼まざるを得ないし、失われた「旅」も失われていないことに気付くでしょう。(69年9月号、「草屋根、会津茅手見聞録」、相沢つぐ男)

 

D、旅先で接する温かい人の心は何よりも嬉しいもの。行きずりの私たちへ示してくれた、この真心のこもった親切は心に深くしみ通った。村でただ一軒という小さな宿の屋根裏部屋で粗末なベッドに泊まったこの夜が、今までの立派なホテルより心温まる一夜であったことはいうまでもない。その夜、寝静まった村の道に寝ころんで星空を仰いだとき、私は心からこの旅にきてよかったと思った。旅の本当の良さは、思いがでず、あるいは苦労して自分で得た、他の誰でもない、自分自身の体験から生まれるものであろう。集団の旅では、景色の印象は残っても、本当の旅の良さは余り望めない。

 

 (69年12月号、「欧州アルプス・22日間」、吉川洋子)

 

 

 

 さて、以上は旅の様態を示すほんの一端であり、書き出すときりのないほど旅の様態というものはさまざまだと思う。またまた宮本常一で恐縮だが、宮本常一の言でこの節を締めくくりたいと思う。

 

 思えば、日本の民衆はいつも社会の下積みにせられ、歴史の表面に出てくることはなかったが、大変なエネルギーを持って、黙々と生活を築き、文化をつくりあげ、いつも変わらぬ日本人の心を持ち伝えてきた。旅はそういうことを教えてくれる。

 

 旅をして地方の先覚者に会いともに語り、またそれぞれ現地における活動の様と地方の現状を知る。その土地に活気の満ち溢れているところにはすぐれた指導者とそれに同調する人々がおり、そういう土地の持つ生産力は素晴らしいものがある。

 

 山が貧しいのではない。山に住む人たちとそれを導いていく人の意識の立ち遅れが、山村を苦しみに落としているのではないだろうか。しかし、地域によっては、すごい人生観や活力を持った人たちがまだまだいる。旅をしてそういう人たちと会いたいものだ。

 

 旅に生涯を、あるいは半生をかけたような人たちの旅は単に過去を懐かしみ、あるいはただあそびのためのものは少なかった。旅することによって何ものかを学ぼうとし、何ものかを発見しようとした。

 

 したがって、旅はいつも一つの問いかけであった。それは相手への問いかけであり、自分への問いかけであった。そして旅の発見は真実に生きている人間の発見であり、自分自身の発見でもあった。そして生きるということはどういうことであるかを考えるいとぐちをつくった。

 

 そのような旅は単に国の内のみでなされるにとどまらず。国の外に向かってもなされることによって、旅がさらに重要な意味をもってくるであろうことを痛感する。

 

 

 

(4)、JUUU−NETの活動方針

 

 旅の現状について、旅行するものにも、受け入れる土地にも、また旅行業者にも多くの不満があります。しかもその原因は、旅行業者だけでなく、地元も旅行者もそれぞれせっせとこしらえたいるもののようです。本当に楽しめる旅を取り戻すためには、どうすればいいか。

 

 そんな問題意識から、「あるくみるきく」の会では、会の活動に関しひろく会員の意見を聞かれたことがある(「あるく、みる、きく」、69年10月号)。大変参考になると思うので、その主なものを掲載させていただく。

 

 

活動としては、こんなところにも観光資源があるという紹介、資源をどのように保護市営久賀の問題、各地の郷土研究家との交流・連携、正しい地図の読み方、観光資料の交換とそれらの検討機関誌、地域の諸団体との交流・連携(例えば、植物友の会の旅行プランとつながりが持てないか)。(長野辰野町、小野正幸)

 

 

未知の土地を訪ねるたびに、知らない、余りにも知らない処の多い日本の国土の広さに驚かされます。旅するということが何を求めることか、常に自分たち自身の中に観照しあう会であって欲しいと思います。また、次第に画一化されてくる日本の国の中で、その土地固有のローカル色を何らかの形で記録し、体系化していくこと、そのような活動を会員の積極的な志向とともに行えたらと思います。(京都新宿区、永岡秀子)

 

  3.「観光」ではなく、人間形成の面から見た「ほとり旅」・・・そういった精神的な啓発   を期待する。(東京都葛飾区、吾妻敏夫)

 

 

趣味的な会でなく、社会的な大きな影響力を持った会にすべきである。自然及び歴史的文化の保護のための諸活動をおこない、観光開発の在り方についてコンサルタント的な、行政に対する働きかけができるようにする。(北海道羅臼町、羽賀克己)

 

 

日本の自然及び人々の培ってきた風物、民俗はすばらしいものがあります。これをできるだけ多くの人が親しみ勝つ保護維持する必要があります。その手目には、これらのものを暖かく見守る会が必要かと思います。そして会員による旅行など旅の研究をさかんにし、単に娯楽の旅行の旅でなく、人間一人一人の向上、やすらぎのある旅にするため、旅の研究活動をすることだと思います。またその成果を一つ一つ出版していきたいものです。(広島市呉市、三好義雄)

 

 

多忙な生活をさいて旅に出るのだから、余り遠距離でない所を取り上げていただきたい。会も各地域に分けて・・・。また青年とか老人向きとか、健脚向き、家族向きなどに分け、特に旅に対する感慨は非常に差がありますから、歴史的とか地理的とか民俗的とかの好みによって分けていただきたい。(埼玉県春日部市、小川正雄)

 

 

「観光について、観光行政に投影できるような、社会発見のできる会。したがって、各地域、各界、各層の理解者と熱心な推進者、関心ある同好者で組織する。そして余暇の創造的活動として民俗的観光(史跡観光、産業観光に対して)をうみだしてゆき、自然、風土、民俗(有形・無形)の隠れた資源を見出し、正しく観光資源化し、系統的に発掘し、方法を指導し、記録し、まとめ、紹介する機関を確立する。(兵庫県宝塚市、田中照三)

 

 

古きがよいという考え方もあらためて、新しい観光地は如何にあるべきかを調査研究する機関が欲しい。やたらに懐古趣味にふける時代でもないと思います。(東京都大島町、成瀬喜代)

 

 

その対象内容に興味を持つ人が、余暇時間の多少や金銭的余裕の有無に係わらず参加できるような土地土地に即した会を望む。それには文書活動とともに、地域毎にできるだけ細密な組織単位を設け、会費も年額100円ぐらいにし、地域間の連携・・横の活動に、そしてその発意に重点を置くことである。(大阪市大東市、織戸健造)

 

 

さらに、「あるく、みる、きく」の1969年11月号掲載のアンケート結果は、JUUU−NETの今後の活動方針を考える上で大変参考になるので掲載しておく。このアンケートは、宮本常一著「私の日本地図」の読者1700余人に対しておこなわれた「旅の会」の設立に関するアンケートである。回収率は9%であり、150名の回答があった。以下その結果である。

 

 1、どのような会にするか

 

@現在多数を占める「旅」又は「観光」に対する批判、および本来の「旅」の姿を求める(16)

 

 レジャー的旅を排す、旅に対する観念の是正、観光反対、主体性をもった旅、観光とは何か、かって先人の求めた旅、新しい旅と観光、理念のある旅、本来の旅の在り方、旅に求めることを常に自分自身に問える旅・・・このようなことが考え、語り合え、実行のできる「会」

 

A旅を通じて自己を、日本を考える(12)

 

・・旅によって人生を探り、心の糧を養う。日本再発見を誘い、新しい愛国(郷)心を助長。今、文明の時代に埋もれてしまっている日本人の本来の姿を探求。観光のモラル向上。真の心ある国土をつくる。観光を国民に普及させるために、リーダーとなる若人の育成。人間形成の面から見た「ひとり旅」の啓発。日本人の精神衛生運動。

 

B社会的影響をもつ(33)

 

  観光の在り方について、観光行政に投影。各地域、各界、各層の理解者と熱心な推進者、      そして関心のある同好者で組織、社会的影響力を持つ。文化人の団体として、政治、経済人に意見する。自然および歴史的文化の保護。

 

  Cアマチュアの立場からの研究を・・・(15)

 

・・民芸、民俗、文化財等を探る。自然科学(昆虫、植物、地質、古生物など)。学習の色を濃くする。単なる同好の士の集まりではなく、明確な研究発表を進めるとともに、創造的発表の場とする。我が国および外国の民間伝承の研究。研究所の成果を反映させる。

 

D会員相互の親睦および土地の人たちとの交流(12)

 

 

 

2、どのような活動を望むか

 

@旅の企画、実施(32)

 

・・・会員の旅行会の企画、実施。小グループ、個人の旅に便宜を。一カ所に長期滞在。その道の講師を中心にグループ旅行。安く楽しい旅。旅行の情報交換や道案内としての連絡所を各地にもつ。外国旅行の研究と実施。ツーリストを使っての秘境の旅。

 

A機関誌を出す(23)

 

・・・機関誌を通じて会員相互の旅に関する情報交換、質疑応答、旅に関する刊行物の紹介。会員の声を、人々が何を求めているか。紀行文、会員の旅日記。研究を発表。テーマ別編集、「旅」より一歩突っ込んだもの。余り難しいものにならないように。今までの旅行雑誌の如き会報では嬉しくない。機関誌は読み捨てにならず、記録として保存しておきたくなるもの。当分の管は機関誌中心で。旅行記、案内を出版。

 

B講演、映画会などの開催(25)

 

・・・映画、スライドによる講演会。雑談、座談会。実施踏査の体験や現地の研究家による講演。

 

C情報、資料の収集および提供(18)

 

・・・できるだけ豊富な資料、情報の提供。図書資料室をつくる。余り世に知られてない辺地の会員からの資料を収集。土地固有のローカル色を何らかの形で記録、体系化。世界の観光地紹介。

 

 

 

(5)、旅のライブラリー

 

 旅は歩くに限る。飛行機や列車、そして自動車での移動は当然として、目的地に着いたらともかく歩くことだ。歩いておれば、地元の人との出会いがあるかもしれないし、何かを感じ何かを発見するだろう。それが旅の本当の楽しさだと思う。ただ、時間の制約もあって、ある程度効率よく歩かなければならないという人も少なくないであろう。そのための情報が必要だ。情報には、学術的な情報、行政情報、市民レベルの情報があるが、市民レベルの情報こそ地域の情報としてもっとも価値がある。地域に密着したきめの細かい情報は行政ではそれを集めることは難しい。神社に関することは神主が一番詳しいし、その地域の歴史についても郷土史家がやはり一番詳しい。祭りや花見など人々の生活に密着した町のさまざまな様子も市民レベルでないとわからないことが多いのである。

 

 

 

今後、個人的なこだわりの旅行が増えていくといわれる中で、旅行業者の情報システムは飛躍的に整備されていくと思う。しかし、市民レベルの情報は旅行業者でこれを捕捉することはむつかしい。

 

 

 

私は、実験的に、私のホームページで「私の散歩路」を紹介している。こういったページが地域において蓄積されいけば、大変価値のある旅の情報ライブラリーとなるのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

虎と鞍馬寺

 

虎は鞍馬寺と深い関わり合いがある。

 

金星から降臨したサナートクラマの霊波を

 

受けて、鑑鵜(がんてい)上人は鞍馬山上に

 

導かれてきたのは、宝亀元年正月4日午前4

 

時、つまり寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻であった。

 

そして、

 

燦然と輝く太陽の中に毘沙門天を拝したのであった。

 

サナート・クラマが毘沙門 天の姿をとって降臨されたのだが、

 

そんなところから、虎は、鞍馬寺に大変関係の深い神獣となっている。

 

 

本堂に安置された毘沙門天、吉祥天、ゼンニシ童子は国宝だが、「阿吽の虎」がこれらをおもりしている。

 

 

サナート・クラマ

 

サナート・クラマは、今から650万年前、はるか宇宙のかなたの金星から、白熱の炎に包まれ天地を揺るがす轟音とともに、地球に降臨された。

 

その聖なる地点が、鞍馬山奥の院魔王殿のあるところであった。

 

サナート・クラマは、世界性を包含した宇宙神であり、様々な姿をとる。毘沙門天もそうだが、白髪の僧形をとるときもあれば、愛らしい童形で現出することもある。極めて日本的な姿としては「天狗」もそうだ。義経が牛若丸といった頃、鞍馬寺でこの天狗から変幻AL自在の兵法を教え込まれたが、この天狗も、実は、サナート・クラマが姿を変えて出現たのであった。

 

 

 

こうした伝承への興味は尽きない。だが、鞍馬寺の初代貫首・信楽香雲の著した「鞍馬山歳時記」によれば、さらに驚くべきことがある。

 

サナートクラマは、もともと地下の魔界の支配者であるが、その魔界への通路は、地球上では北欧、ヒマラヤ、南米そして日本の4カ所しかなく、日本のそれがこの鞍馬というのである。そして、サナート・クラマの究極の使命は、遠い将来、地球に破局が訪れたとき、人類を誘導して水星に移住させることにある。

 

私の解釈としては、その魔界への通路とはいわゆるタイムトンネルのようなものであり、サナート・クラマはその4次元の世界を使っ<て我々人類を水星に誘導するのではなかろうか。

 

鞍馬寺は奥の院魔王殿、その付近はいつも不思議な霊気が漂っている。昼なお暗い杉木立の中、むき出しに累々とした奇岩は、2億5千年前に海底から隆起した水成岩である。

 

時空を超えて地球にやってきたサナート・クラマの舞台にふさわしい。

 

ヒマラヤ山中でおこなわれている満月祭と同じ祭りが鞍馬で行われているのは、全く不思議だ。

 

毘沙門天(サナート・クマラ)

 

 

毘沙門天すなわち多聞天は、古代インドの神話の中では、北方守護と財宝守護という二つの重要な役割を担った神で、別名クベーラと呼ばれる軍神にして福神であった。

 

インドでは、腰衣とターバンを巻いた貴人姿の神だったが、中央アジアを経由して中国にいたる間に、今日見られるような甲冑をまとった神将の姿になった。

 

中国の古い仏書には、敦煌(敦煌)の安西城が敵から攻撃されたとき、毘沙門天が配下のネズミに鎧や馬具の糸を噛み切らせて、敵の大軍を追い払ったので、これより以降、毘沙門天像を楼門上に安置するようになったという話が記されている。

 

日本の場合はむろん、鞍馬寺や東寺の毘沙門天は、平安京の守護神としての役割を担っていたが、一方では後世になるほど、財宝をもたらす現世利益の福神として庶民の信仰を集めた。

 

鞍馬寺には不動堂にも毘沙門天像が安置されている。また、もと本殿の前に立っていた重文の「銅灯篭」にも火袋の部分に毘沙門天のほかに吉祥天とゼンニシ童子の姿が彫られている。吉祥天は毘沙門天の妃(きさき)、ゼンニシ童子はその子供である。毘沙門天の家族像が刻まれたこの「銅灯篭」は、鎌倉時代に寄進されたもので、現世利益を願う20余人の施主の名前もぎっしり刻まれている。女性の名も見られる。

 

 

 

サナート・クマラの姿

 

室町時代の絵師・狩野元信は、何とかしてサナート・クマラの姿を描きたいと熱望、奥の院に篭もって大祈願を行ったところ、明け方になって霊示を受けた。

 

大杉から垂れた女郎蜘蛛の引く糸を辿っていくと、ついにその姿を垣間みることができた。

狩野元信はその姿を描き、そのまま本殿の奥深く治めた。

 

60年に一度、丙寅(ひのえとら)の年に限って開扉されるという。

 

 

 

金閣寺道

 

光悦寺から京見峠への自動車道を右に見て急な坂を降りる。

前方に丹後街道の分かれが見える。

 

 

 

 

 

 

反対方向に曲がると暫くは古都ならではの雰囲気。

本当にいい散歩道だ。

 

お寺

 

 

 

 

 

鷹が峯は紙屋川に沿って下っていくことになるが、まもなく「しょうざん」に着く。

 

 

 

ここからは京都五山「左大文字山」の山麓ぞ沿いに行く。

間もなく天皇火葬塚だ!

 

 

 

「しょうざん」その2

 

 

鷹が峯山麓に展開する広大な庭園。

紙屋川を取り込みいろんな施設がある。

京都の新しい観光施設だ。

 

 

 

 

すぐ南側の畑から御土居が見える。

 

 

御土居に昇る朝日が美しい。

 

 

 

天皇火葬塚

 

 

 

上品蓮台寺からこの辺にかけては蓮台野といって西の化野(あだしの)、東の鳥辺野(とり)とともに古く平安時代には葬送の地として知られたところである。

 

初期には身元の判らない庶民の亡骸が放置され風葬されたことであろうが、平安時代以降は皇室の火葬場ともなった。

 

西行法師は「露と消えば蓮台野に送りおけ願う心を名にあらはさむ」と詠んでいる。

 

 

 

今ではすっかり住宅街になり、ここ金閣寺道は立派な家が多い。

 

 

 

まもなく御陵さんだ!

 

 

金閣寺道の概要版に戻る!

 

 

 

 

氷室

 

 

氷室の風景も一見普通の山村風景だが・・

 

 

チョット一味ちがうところがある。

 

氷室の空気には歴史の重みが感ぜられる。

 

 

この地は、昔、朝廷に奉るため、

 

氷を氷室で夏まで保存しておくという特別のところであり、それに因んでこの地は「氷室」という。

 

主水司の管轄であった。

 

 

 

氷をつくったという池が残っている。

 

 

 

藤原定家に

 

「夏ながら秋風たちぬ氷室山ここにぞ冬を残すと思えば」

 

がある(拾遺愚草)。

 

 

 

氷室神社は稲置大山主神をまつる。

 

拝殿は元和年間(1615―23)、

 

後水尾天皇内裏にあった釣殿(つりどの)を近衛家が拝領し、

 

さらに東福門院により当社に寄進されたと伝えられる。

 

 

 

祭りは、・・・・・

 

かって宮中に氷を奉った日に因み、

 

6月15日に行われる。

 

 

氷室にはびっくりするぐらい立派な家がある。

 

 

 

見張りをする猿。

 

 

こんな瓦もあったりして・・・おもしろい。

 

 

 

 

 

 

 

帰りは、京都五山の舟山に向かう古道を帰るとよい。

 

そこを通らずして氷室を語ることはできないと思う。

 

神社から

 

南に150メートルほど行ったところの

 

二股を左にとる。

 

 

 

 

 

 

 

舟山峠氷室道

 

 

山道をそれほど知っているわけではないが、

 

私が知っている限りにおいて「舟山峠氷室道」は、

 

京都でこれほど快適な山道はない。

 

氷室から京都五山の一つ舟山へと続く山道を

 

私は勝手に「舟山峠氷室道」と称しているのだが、

 

北山杉の森を右左に見ながら道は

 

ほとんど平らに曲がりくねりながら延々と続いている。

 

ハイキングにはもってこいの快適な山道だ。

 

舟山峠で京見峠からくる山道に合流する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一斉林の北山杉

 

 

 

 

 

 

 

 本来の北山杉・台杉

 

 

 

 

 

 

 

北山杉は、室町時代の茶湯(茶道)の流行とともに

 

台杉の丸太が茶室建築に利用され、朝廷の御用木となった。

 

周山街道(国道162)の中川や小野郷一帯が中心であるが、

 

鷹が峰から氷室にかけても盛んに生産されている。

 

中川や小野郷の杉丸田は、昔は、周山街道ではなく

 

丹後街道つまり京見峠、鷹が峰を経て京に運ばれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

台木は一本の親杉から何本もの垂木をとり、

 

40数年の歳月をかけて育てられる。

 

丹念に磨かれた丸田杉は日本座敷の床柱とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小一時間ほど歩くと

 

私が船山峠と呼んでいるところにでる。

 

京見峠に戻る!

 

氷室に戻る!

 

右に降りていけば30分ほどで

 

東海自然歩道は「尺八の池」に出る。

 

 

 

 

 

 

台杉から一斉林へ!

 

 

 

大正時代ころまでは、床柱となる北山杉は

 

おおむね台杉という方式で生産された。

 

台杉方式とは、

 

一本の木に樹高の異なる数本の幹を成立させるやり方で、

 

立条という。大きくなった幹から順次択伐していく。

 

と同時に萌芽を発生させ、次代の幹を育てていく。

 

 

 

こうすると、一本の木から次々と床柱が得られる。

 

この方式では、

 

幹のバランスをとったり、低い幹にも光をよく受

 

けさせるために、枝打ちや剪定に力を入れるのが特徴である。

 

人手は必要だが、・・・そのおかげで・・・・

 

独特の樹形ができることになる。

 

 

 

近年は、床柱が茶室だけでなく、一般の和風建築はもとよ

 

りマンションの和室などにも使われるようになったこと、

 

さらには陸送による運搬が発達したことなどの理由により、

 

台杉方式からより生産効率の高い皆伐方式に変わった。

 

この皆伐方式は、普通に、一本の幹を育てるが、枝打ちは

 

しっかりやって幹の梢にほんのわずかの枝葉を残すだけで

 

ある。こうするとすらりとした幹ができる。

 

 

 

北山杉の一斉林はすらりとした幹がそろって美しい。

 

 

 

このように、丸太生産は一代限りの生産方式に変わったが、

 

台杉はミニ化して垂木生産に受け継がれている。また、公

 

園や庭園の鑑賞樹としても、この台杉をよく見かけるようになった。

 

いずれにしても、台杉の生産方式は、

 

日本はもちろん世界にも例がなく、

 

京都が誇る世界的な文化遺産である。

 

 

 

 

鷹が峰

 

 

 

 

 

この美しい山が鷹が峰という山であるが、

 

その名に因んでこの地を「鷹が峰」という。

 

 

 

 

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鷹が峰は、私の実家の近くであり、

 

その付近のことは帰京報告4にでてくるので

 

参考にしてください。

 

 

 

上賀茂神社2

 

この上賀茂の地域は・・歴史的風土特別保存地域になっていて、京

都の中でも独特の雰囲気を持つ地域である。このような雰囲気の散

歩道はそうあるものではない。私はとても気に入っている。この上

賀茂神社と下賀茂神社と・・・京都は遥か西の方、嵐山というか桂

川の向こうにある松尾神社、この三つの神社が秦氏が祀った三所大

明神と言われている。上賀茂神社と下賀茂神社とは言うまでもなく

一体のもの。したがって、賀茂神社と松尾神社が秦氏を通して一つ

になっていることは大変興味のあることである。平安遷都は秦氏と

賀茂氏一体となって初めて出来た大事業でなかったか?

 

 

 

 

 

 

上賀茂神社のややくわしい説明は、ここ!

 

 

上賀茂神社の詳細な説明は、ここ!

 

 

 

 

 

次へ!

 

 

 

賀茂神社の概要

 

 

 

かもわけいかずちじんじゃ  賀茂別雷神社

 

 

 

通称上賀茂神社。祭神は賀茂別雷神。

 

 

 

 

 

 

この神は大和の葛木山に故地をもつ賀茂氏の神である賀茂建角身(た

けつのみ)命の娘玉依媛(たまよりひめ)命と山代の乙訓(おとくに)

社の雷神との間に生まれた若き雷神であったと伝える。

 

 

 

 

 

 

律令政府は、711年(和銅4)には国司の臨検を命じて統制にのりだ

し,806年(大同1)になると賀茂祭は勅祭をもってとりおこなわれる

朝廷の祭祀になった。本殿と権殿は1864年(元治1)の造替で国宝,

ほかに1628年(寛永5)の建築が多く,重要文化財になっている。現

行の祭礼は葵祭のほか御棚会,夏越祓,相撲神事などである。

 

先にも述べたように、この上賀茂神社と下賀茂神社と・・・京都は遥

か西の方、嵐山というか桂川の向こうにある松尾神社、

この三つの神社が秦氏が祀った三所大明神と言われている。

上賀茂神社と下賀茂神社とは言うまでもなく一体のもの。したがって、

賀茂神社と松尾神社が秦氏を通して一つになっていることは大変興味

のあることである。

 

 

 

賀茂神社のさらに詳細な説明はここ!(上賀茂神社)とここ!(下賀茂神社)。

 

 

賀茂伝説(概要)

 

 

かもでんせつ  賀茂伝説

 

 

 

山城の賀茂建角身(かもたけつのみ)命には,玉依日子(たまよりひ

こ),玉依姫(比売)(たまよりひめ)の2子があった。タマヨリヒ

メが瀬見(せみ)の小川(賀茂川の異称)のほとりに遊ぶとき丹塗矢

(にぬりや)が川上より流れ下り,これを取って床の辺に挿し置くう

ちについにはらんで男子を産んだ。長ずるに及び7日7夜の宴を張り,

タケツノミがこの子に〈汝が父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ〉と

言ったところ酒杯をささげて天に向かって祭りをなし,屋根を突き破

って昇天した。これが上賀茂社に祭る賀茂別雷(かもわけいかずち)

命であり,下鴨社にはタマヨリヒメとタケツノミをまつり,社家の賀

茂県主(あがたぬし)氏はタマヨリヒコの後裔だという。

賀茂県主氏は賀茂川流域の葛野(かどの)を本拠とする豪族で,農事

に関する水の神(雷神)を祭る巫女と政治をつかさどる男君とで支配

していたが,その巫女を神の妻として,神の子を産むほどまでに霊力

ある女として語り伝えるところにタマヨリヒメ母子に対する信仰が生

まれた。

 

 

 

こうした信仰は古代の氏族伝承に広くみられるもので,賀茂氏もみず

からの出自と祖神にまつわる伝承を神と巫女との奇跡として語り伝え

たのである。

 

 

 

 

 

 

 

賀茂神社の詳細

 

かもわけいかずちじんじゃ  賀茂別雷神社

 

京都市北区上賀茂本山に鎮座。通称上賀茂神社。祭神は賀茂別雷神。

 

この神は大和の葛木山に故地をもつ賀茂氏の神である賀茂建角身(た

けつのみ)命の娘玉依媛(たまよりひめ)命と山代の乙訓(おとくに)

社の雷神との間に生まれた若き雷神であったと伝える。律令政府は

698年(文武2),702年(大宝2),738年(天平10)などたびたびに

わたり,賀茂祭(葵あおい祭)の群衆と騎射のことを制限ないし禁

止した。また711年(和銅4)には国司の臨検を命じて統制にのりだ

し,806年(大同1)になると賀茂祭は毎年4月の中酉日に勅祭をもっ

てとりおこなわれる朝廷の祭祀になった。810年(弘仁1)には斎院

をおき,嵯峨天皇皇女有智子内親王を斎王として祭りに奉仕させるよ

うになって朝廷祭祀としての形をととのえ,伊勢神宮につぐ尊崇をう

けた。後鳥羽上皇のとき,神主賀茂能久が承久の乱に上皇方について

参戦し,斎院もこのとき廃絶した。社領としては大化のころ封戸14

戸,神田1町8反が寄せられたと伝えられるが,785年(延暦4)には

愛宕郡内の封戸10戸が,865年(貞観7)には山城国の神田5反が,940

年(天慶3)には封戸10戸が寄せられた。1018年(寛仁2)に愛宕郡

内の8郷が賀茂社に寄せられ,このうち賀茂,小野,大野,錦部の4

郷を別雷社が領有した。4郷はやがて再編成されて,河上,岡本,大

宮,小山,中村,小野の6郷となり,賀茂境内六郷といわれて,中世

を通じて社領の根幹をなした。このほか1090年(寛治4)には不輸田

600余町が寄進され,阿波国福田荘,若狭国宮河荘,加賀国金津荘,

近江国安曇河御□などがおかれた。その後も社領が増加し,1184年(元

暦1),源頼朝は42ヵ所の賀茂別雷社領を安堵した。別雷社は賀茂氏

人集団によって維持され,氏人のなかから神主がえらばれて祭祀と社

領を管轄した。境内六郷には往来田制度がしかれ,氏人のうち140人

が境内の田地を独特の割りかえ方式によってながく保持した。豊臣秀

吉は2572石を安堵し,江戸幕府にひきつがれた。1871年(明治4)

に官幣大社となった。本殿と権殿は1864年(元治1)の造替で国宝,

ほかに1628年(寛永5)の建築が多く,重要文化財になっている。現

行の祭礼は葵祭のほか御棚会,夏越祓,相撲神事などである。

 

□賀茂御祖(みおや)神社 大山 喬平

 

 

 

 

 

 

賀茂建角命

 

 

かもたけつのみのみこと  賀茂建角身命

賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨社)の祭神で賀茂県主(あがたぬし)

家の祖とされる。〈賀茂の猛々しい者〉という意。賀茂伝説によると,

神武東征の先導を務めたあと賀茂川を上り,〈久我の国の北〉の山麓

に居して,玉依姫(比売)(たまよりひめ),玉依日子(たまよりひこ)

を生んだという。賀茂信仰の中心は本来このタマヨリヒメ母子の信仰

にあり,タケツノミは男系の系譜意識の発達に伴い,姫神の父として

説話的に加えられたのである。

 武藤 武美

 

 

 

 

 

堀川のチンチン電車

 

 

 

 

 場所は違うが、私の家の前もこんな感じ。

(この写真は川向こうから撮っている)

 

 

 

昭和36年に廃止されるまで、

私は毎日のようにこのチンチン電車を見て育った。

とてもなつかしい!

 

 

 

 

 

詳しくはここをクリック!

 

 

 

 

 

京都のチンチン電車

 

 

 

 

明治になって、東京が首都となり、

天皇が東京にお移りになった。京都は、

「天皇さんがおられなくならはった!」

ということで、騒然となった。

明治政府はそれを鎮めるため、・・・・

わが国近代化の先駆けをまず京都で行うこととした。

 

 

すなわち、かの有名な疎水運河と、・・・・

そしてそれに関連し、わが国最初の発電所と電気鉄道、

・・・・この二大プロジェクトの建設である。

 

 

明治28年2月1日開通の伏見線に続き、

2ヶ月ほど遅れ、市内線も、

何とか勧業博覧会開催に間に合わせる形で、

何とか4月1日に開通した。

 

 

ちなみに、伏見線が真っ先に急がれたのは、物資輸送の拠点が

伏見港であったからにほかならない。淀川汽船と契約して京都

駅前から大阪八軒屋までの通し切符も発売されていた。淀川汽

船などというものの想像が今の私たちには到底できないが、京

都にとって、伏見の存在は誠に大きいものがあったのである。

 

 

博覧会の会場は岡崎であったのと

水力発電所のある水利事務所が蹴上げにあったためか、

最初の市内線は、

京都駅前から高瀬川に沿って二条通りに達し、

東へ専用の木橋で鴨川を渡り、疎水に沿って蹴上げまでいった。

 

 

市内線の第二期工事分は、

第一期工事と少し遅れる形で進んでいたが、

同年九月二十四日に、

木屋町二条から堀川中立売(なかだちゅうり)までが完成した。

 

 

堀川中立売(なかだちゅうり)が終点であった時期があるわけで、

その写真が次の写真である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、堀川に沿って走るチンチン電車は、

京都駅前から北野神社まで延長され、

昭和三十六年七月三十一日の廃止まで

堀川電車又はチンチン電車と呼ばれながら

京都の人々に親しまれてきた。

 

 

 

 

 

 

次の写真は、

堀川中立売(なかだちゅうり)から北野神社に向かって

堀川を渡ろうとするチンチン電車。

 

 

堀川中立売・・・この近くにかの有名な「一条戻り橋」がある。

 

 

朱雀高校の同級生・佐々木清蔵君の家のすぐ近くだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、京都市がそれら電気鉄道を買収し、

広軌の市電が一般化していくが、

北野線だけはチンチン電車のまま走り続けるのである。

 

 

したがって、一般の市電とチンチン電車のダブリ区間、

四条堀川から西洞院(にしのとういん)までは、

六本のレールが敷設されていた。・・・・・・誠に珍しい。

 

 

 

 

 

 

 

一条戻り橋

 

 

 

一条戻り橋は堀川にかかっている橋である。だから、住所は堀川一条である。数十メートル南が「中立売(なかだちゅうり)通り」で、堀川のちんちん電車はそこで堀川を渡っていた。

 

 

 

ちなみに、京都における住所のつけかたを説明しておくと、私の家は堀川丸太町である。堀川通りというのは、堀川を挟んで東を東堀川、西を西堀川という。厳密には、そのように言った方が良いが、東西の区別をしなくても郵便物は届くし、私の家では、ずっと「堀川丸太町下がる」であった。京都では、平安京以来碁盤の目状に通りができているので、通常、下がるとか上がるとか、或いは東入るとか西入るとか言っている。私の悪友、清水達夫君の家は「堀川丸太町東入る」である。

 

 

 

 東堀川一条上がるに、朱雀高校の同級生、佐々木清八君の家があった。一条戻り橋のすぐ近くだ。お兄さんが碁会所をやっておられて、そのお兄さんに何度か碁を教えて貰ったことがある。「じんけん」の家は、「堀川中立売(なかだちゅうり)西入る」にあった。一条戻り橋のすぐ近くだ。高校時代は、「じんけん」のすすめにより、家庭教師は「じんけん」の同級生、重久(しげひさ)先生のところに西堀川をずっと北大路の向こうまで行っていた。週二回、自転車で。だから、一条戻り橋は、毎週、往復四回はすぐ横を通っていたわけである。そのようなことから、一条戻り橋は、堀川にかかる橋ということも勿論あって、私にとって、大変懐かしい橋だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戻り橋の名の由来

 

 

 

 

 

 戻り橋の名についてはこんな由来がある。

 

 

文章(もんじょう)博士の三善清行が亡くなったのは918年だが、

 

 

その死去の知らせを聞いたその子の

 

 

浄蔵(じょうぞう)が京都に戻ってきたとき、

 

 

偶然父の葬列に出会った。

 

 

 

 

 

祈祷上手の高僧・浄蔵が念じたところ、

 

 

亡くなった三善清行が一瞬蘇生したと言われており、

 

 

「戻り橋」の名がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

朱雀(すざく)高校

 

 

 

私の母校・朱雀(すざく)高校は、二条城の西側に面して在る。二条城が邪魔して分かりにくいが、ちょうど二条通りの位置に位置している。

 

 「神仙苑」は、二条城によって大半が取られてしまったので、これも分かりにくいが、平安時代、鎌倉時代、室町時代はちょうど朱雀高校の位置から東に神仙苑が広がっていたことになる。又、朱雀高校の少し東に千本通りがあり、ちょうど二条通りの延長線上に「出世稲荷」があり、もうそこは「朱雀門の跡」である。 したがって、私の母校・朱雀高校は、「朱雀門の跡と神仙苑の間に在る」ということになるのだが、当時における神仙苑の広がりを考慮すれば、正確には、「朱雀門の東側・神仙苑の西側」にあるということになる。

 

 

 

 しかし、大雑把な言い方からいえば、朱雀門のあったところといっても良いし、神仙苑のあったところといってもそう間違いではない。そして又、歴史的な時間というものを超越してしまえば、朱雀高校は朱雀門であり神仙苑である。

 

 

 

 朱雀門は、大極殿のある大内裏(だいだいり)に入る門であり、その外は俗なる世界、内は聖なる世界という、いうなれば世界をわける境の門である。その外は、俗なる世界であると同時に、それは邪悪の世界でもあり、恐ろしい鬼の出現する世界であった。だから、当初には、毎年、6月と12月の晦日に、武官百官が朱雀門に出てきて大祓の儀式を行ったのである。その大祓とは、聖なる大内裏から邪悪なるものを追い払う神事であり、いうなれば恐ろしい鬼を追い払う儀式であったのである。

 

 

 

 平安京の起点は船岡山である。川の場合もそうであるが、京都では、船岡山から下流を見て左・右をいう。したがって、京都は、朱雀大路の東が左京、西が右京である。京都盆地を貫流する鴨川が関係しているからか、或いは運河としての堀川が関係しているからか、さらには神仙苑が朱雀大路の東側に広がっているからなのかどうか、京の都は、左京が栄え、右京はそれほど栄えないままずっときた。右京を根城に朱雀門には鬼が棲んでいたらしい。

 

 

 

 宇治の平等院に「葉二(はふたつ)」という名笛が残っている。元は朱雀門の鬼の笛であったところから、別名「朱雀門の鬼の笛」という。その笛を吹ける者がいなかったので、天皇の命により、浄蔵という笛の名手が、月のあかるい夜、朱雀門にきてその「葉二」を吹いた。そうすると、朱雀門の上から、鬼が大きな声、でそれを褒め称えたという。

 

 

 

 朱雀門の鬼は、「羅城門の鬼」や「一条戻り橋の鬼」などとは大分様子が違うようである。朱雀門の鬼は、名笛を持っていたり、名笛の奏でる音曲の良し悪しが判った。籟は、竹の笛の意。天が奏でる笛の音・天籟を聞くことができたし、地の奏でる笛の音・地籟を聞くことができた。人籟を聞くことも当然できたのであろう。ただ単に邪悪の世界に棲むだけでなく、聖なる世界をかいま見ることができたので、宇宙の真理というものを、そして又、当然、この夜の真理というものを会得していたのではなかろうか。

 

 

 

 日本の鬼は、邪悪なるもののすべて、象徴的には、自然界の猛威を表しているといっても良いかも知れない。そういう言い方からすれば、聖なるもの、それは自然の恵みである。朱雀門の鬼は、邪悪なるものと聖なるものとの境に棲む。それは、邪悪であるとともに聖である。言うなれば、朱雀門の鬼は、自然との「共生」の、まさに象徴的存在であるのかも知れない。

 

 

 

 このように語れるのも、ふるさと・京都のお陰、母校・朱雀高校のお陰である。私は、今、そういったことをつくづくありがたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

神泉苑

 

 

 

平安初期庭園の遺跡。京都市中京区門前町に所在。

 

 

平安京選定と同時に計画された禁苑で、

 

 

大内裏の南東に隣接し,

 

 

北は二条,南は三条,東は大宮,西は壬生の大路に囲まれた

 

 

南北4町,東西2町の広大な地を占め,

 

 

周囲に築地をめぐらし六つの門を開いていた。

 

 

 

 

 

苑内北東部に神の泉の名のとおり水量豊富な湧泉があり

 

 

中央部の大池にたたえられ,池には大きな中島があった。

 

 

 

 

 

池に南面して正殿(乾臨閣)があり屋根には鴟尾(しび)を上げた。

 

 

正殿の左右に閣が,池に臨んで東西に釣台があり,

 

 

これらは廊でつながれていた。

 

 

湧泉から池までの流れは,滝とも呼ばれる瀑流をなし,

 

 

小橋を架け,滝殿を構えた。

 

 

池の北岸には

 

 

神泉苑監で画家として著名な巨勢金岡(こせのかなおか)が立てた

 

 

庭石が数多くあった。

 

 

神泉苑は立地がよく,

 

 

豊富な水をもつ大規模な自然園に近い園池に

 

 

人工的な部分を加えたもので,

 

 

池に南面して左右対称の堂々たる建築をもっており,

 

 

まもなく寝殿造や浄土庭園として形を整えてゆく

 

 

前駆をなすものであった。

 

 

 

 《日本紀略》の800年(延暦19)

 

 

桓武天皇の行幸記事が初見で,

 

 

802年2月には早くも舟を浮かべ,この月は4度の行幸があった。

 

 

3月には観花,5月には競馬,7月には納涼,七夕,相撲,

 

 

9月には射術,琴歌,挿菊の遊びがあった。

 

 

また詩賦吟詠,狩猟,釣魚などが行われた。

 

 

これら恒例儀式のだいたいは《内裏式》等によって知られる。

 

 

 

 

 

神泉苑でのこれら宴遊は

 

 

桓武天皇末年から平城・嵯峨両天皇の間が最盛期であり,

 

 

天長年間(824‐834)以降は,

 

 

神泉苑は信仰の浄地とされ,

 

 

祈雨,止雨の霊場とされた。

 

 

空海の祈雨修法の伝説は名高い。

 

 

 

 

 

天慶年間(938‐947)以降

 

 

神泉苑の水は潅漑用水としても利用された。

 

 

平安時代末期には池水も汚濁し,

 

 

池水の掃除が行事の一つとなり東寺がもっぱらこれに当たった。

 

 

鎌倉・室町時代には何度か補修されたが荒廃の一途をたどり,

 

 

 

 

 

慶長年間(1596‐1615)の二条城造営により

 

 

北部4分の1が城内にとりこまれ,

 

 

江戸時代には民家に侵食された。

 

 

現存する部分は,

かつての苑地北東の一部であり,旧規の6□ほどにすぎない。

 

 

 

                       牛川喜幸

 

 

 

 

 

 

[賀茂川から堀川を望む]

[堀川について] [堀川について(2)]

[堀川の想い出]

[水の復活]

 

 

 

 

 

 

 

 

一条戻り橋の鬼

 

 

 

平安京の中枢部はいうまでもなく、大内裏(だいだいり)であった。今でいえば、皇居と霞ヶ関と永田町を合わせたようなところとご理解いただければいい。その大内裏に入る門が朱雀(すざく)門であり、そこから南へ朱雀大路が延びていた。朱雀大路の南端・九条通りに羅城門があって、そこから外はもう平安京ではない。北側は一条通りが境であって、そこから外はずっと野原が続いていたのである。したがって、羅城門に棲む鬼と一条戻り橋付近に出没する鬼は、同じ鬼と言っても、朱雀門に棲む鬼とは異質のものであり、これは退治しなければならない。渡辺綱(わたなべのつな)の登場だ。ここでは、一条戻り橋の伝説を紹介しておこう。

 

 

 

一条戻り橋付近に鬼が出没するという噂がたち、夜は、その付近には人が近寄らなくなった。

 

ちょうどその頃、源頼光の使者として渡辺綱が一条大宮にあるさる高貴なお方の屋敷に行くことになった。夜のことである。渡辺綱は、源氏の宝剣「髭切」を携え出かけていった。

 

宝剣「髭切」を恐れてか、鬼は出なかった。その帰り道、一条戻り橋を渡ると、東の橋詰めに立つ20歳余りの美貌の女房に出会う。

 

 

 

その女房が「五条あたりまで急用があって行かなければならないのだが、夜更けて恐ろしいので、送っていただけないか」と嘆願するので、綱は、女房をかき上げて馬に乗せ、東堀川を南に向かった。だいぶん行ってから、女房は、「五条あたりに急用があるというのは嘘で、実は、都の外のわが家まで帰りたい」と言う。「よろしい、お送りしましょう」と綱が言うか言わぬうちに、その美しい女房は、恐ろしい鬼と変じ、綱のもとどりを掴んで乾の方向・愛宕山をさして飛び上がった。かねて心得た綱は、源氏の宝剣「髭切」でそらざまに鬼の腕を切り、自らは北野神社の回廊に落ちる。鬼はそのまま愛宕山に飛び去ったが、もと鬼の腕はもとどりに取り付いたままであった。

 

 

 

鬼の腕を箱に封じ込め、七日の慎みに篭もる綱のもとに、摂津の渡辺というところに住む養母が訪ねてきて、「そういう珍しいものなら、是非、見せて欲しい」とせがむ。いったんは拒みつつ、さらにせがむ養母に、綱はついに箱の封を切る。これをじっと見つめる養母・・・・・。「吾が手なれば、取りて行くぞ」と言うままに、養母は恐ろしい鬼と化して飛んでいく。

 

 

 

恐ろしい話だが、この鬼が切り取られた腕を取りに来る話は、片腕を奪われた河童の話とどこか似ていて、大変興味のある話ではある。

 

 

 

 

 

 

戻り橋の名の由来

 

 

 

 

 

 戻り橋の名についてはこんな由来がある。

 

 

文章(もんじょう)博士の三善清行が亡くなったのは918年だが、

 

 

その死去の知らせを聞いたその子の

 

 

浄蔵(じょうぞう)が京都に戻ってきたとき、

 

 

偶然父の葬列に出会った。

 

 

 

 

 

祈祷上手の高僧・浄蔵が念じたところ、

 

 

亡くなった三善清行が一瞬蘇生したと言われており、

 

 

「戻り橋」の名がある。

 

 

 

 

 

滋野の井

 

 

 私の卒業した滋野中学は、滋野井からその名がきている。滋野とい

う地は、もともと水に大変恵まれた土地であって、滋野井なる井戸か

らこんこんと水が湧き出ていたらしい。中学校の南隣に同級生・小堀

さん実家、生麩屋さんの「麩嘉」があるが、そこが滋野井のあったと

ころだ。今も痕跡らしきものが残っているが、すっかり井戸水が少な

くなって「麩嘉」は困っているらしい。

 

 

 

 私の家は、私の父がそこに引っ越すまで、内藤さんという方が「餡

こ屋」さんをやっていた。餡こは、いうまでもなく小豆と砂糖が主な

材料だが、やはり水が大事であり、そこで「餡こ屋」さんが営まれて

いたのはいい井戸水がでたかららしい。小豆や砂糖はどこででも手に

入るが、水は場所による。家には、確かに、立派な井戸があり、結構

いい水がでていた記憶もあるが、それもいつとはなしに涸れてしまっ

た。

 

 

 

 平安遷都は、「風水思想」に立脚した都市計画がベースにあると言

われている。平安遷都は、おそらく、和気清麻呂を中心として、秦氏

と加茂氏の力に負うところ大であったと思われるが、誰の指示であっ

たのであろうか。今となってはただ想像するしかないが、私は、和気

清麻呂が淀川の開削を計画したりして土木の神様として今も祭られて

いるので、「風水思想」に立脚した都市計画を考えたのは、和気清麻

呂だと思っている。なんと気宇壮大な計画ではないか。

 

 

 

 京都は盆地だが、愛宕山と比叡山という姿のいい二つの山が、周囲

の小高い山を引き連れながら、それを守護するように鎮座している。

そして、加茂川と桂川という、いうなれば秦氏と加茂氏の川が、龍尾・

山崎で合流する。「風水思想」からはもっとも理想的な地形をしてい

るのだそうだ。龍頭・船岡山から吐き出される気によって、周囲の山

から集まる気が一気に天空に上昇する。その龍穴が、神泉苑である。

 

 

 

 神泉苑は、空海が唐から帰朝後、神泉苑で祈雨法を修して霊験をあ

らわし,その功によって真言宗をたてることを許されたとされる。神

泉苑で対抗する行者守円(敏)が瓶中に竜神を閉じ込め,殿上でクリ

を加持してゆでたり,呪詛したりするのを大師は破って勝利する。

 

 

 

 神泉苑は、二条城の南、堀川に近い。おそらく、堀川に沿って流れ

る加茂川の伏流水が、ここで一気に湧出していたのではないか。そう

考えると、滋野井の水も「餡こ屋」さんの水も神泉苑の湧き水とおそ

らく同じ水脈のものであろう。神泉苑も堀川とともに往時の面影は今

はない。何とか復活できないものか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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[賀茂川から堀川を望む]

[堀川について] [堀川について(2)]

[堀川の想い出]

[神泉苑] [水の復活]

 

 

 

 

 

京の水と生麩

 

 

 京都「いのちの水」という本がある。昭和58年6月に京都新聞社

から出された本だ。そこに、「麩嘉」のことが紹介され、京の水と生

麩のことが書かれているので紹介しておきたい。

 

 

BR>  京都市では、昭和56年1月、酒造と缶詰食品業を除く他の食品業、

34業種の食品業について、井戸水使用禁止の措置をとった。その中

に当然生麩も含まれていたので、困り果てた「麩嘉」のご主人、小堀

正次さんは、京都新聞朝刊に全段抜きの意見広告を出された。京の文

化や食品を育ててきたのは「京の水]であることを指摘、井戸水の果

たす役割がいかに大きいかを訴えたものだ。

 

 

 

 小麦粉を練り、水洗いをする。そういう作業を繰り返しながら、水

に溶け易い澱粉質を洗い流していく。そうすると、麩の素である小麦

たんぱくのグルテンの塊ができる。それにもち米やあわ或いはヨモギ

を加えて練り、それを蒸したりゆがいたりしたものが生麩である。だ

から、生麩づくりにとって水が生命という訳だ。また、冬場の場合、

5度前後まで冷えきった水道水でグルテンを練ると、それまで生ゴム

のように弾力性のあったグルテンがきゅっとちぢかんでしまって、生

麩にならないのだそうだ。

 

 

 

 京の湯葉や豆腐も京の水がその味を育ててきたのであって、京の水

がだめになればそういった京の味もだめになってしまう。京の水を大

事にして京の伝統文化というものを大事にしていきたいものだ。

 

 

 

 

 

 

[賀茂川から堀川を望む]

[堀川について] [堀川について(2)]

[堀川の想い出]

[滋野井] [神泉苑] [水の復活]

 

 

 

 

 

水の復活

 

 

 京都は、山紫水明の都市である。今もだ。他の都市に比べて、はっ

きりそう言えると思う。愛宕山や比叡山をはじめ、京都を取り巻く山々

は美しいし、嵐山や加茂川はとても美しい。しかし、神泉苑や堀川が

象徴的であるように、21世紀のキーワード、水の循環とか水システ

ムといった観点から都市の姿を見ると、大変憂うべき状態にあると言

わざるを得ない。

 

 

 

 21世紀は、梅原猛さんが言われるように、我々は、新しい文明を

目指さなければならないのであって、「循環と共生」というキーワー

ドでもって都市構造のあり方を考えなければならないのである。これ

からの都市において、自然との共生とか水の循環システムをどう考え

るか。極めて大事な問題であろう。

 伏流水の問題を考え、今総合治水対策で行われている「雨水の貯留・

浸透のシステム」の普及を真剣にに考えなければならない。各家庭で

も、雨水の利用とか水の循環利用を考える必要があるのではなかろう

か。飲み水は水道水でいいとして、水洗便所の水は循環水でいい。風

呂の水は雨水でいいかもしれない。蛇口の手前で必要な浄化は可能だ。

浄化技術が進歩しているので、今の技術ですればそう高額のものには

ならない筈だ。家庭雑排水も簡単な処理をして下水に流せば、公共下

水道の負担が大幅に減る。

 

 

 

 神泉苑の水が復活し、滋野井の水が復活すれば、各家庭で井戸水が

再び使えるようになる。水を通じ、自然の恵みを身近に感じれるよう

になれば、自ずと心豊かな人間になれるのではなかろうか。我々は、

水の心を心として生きていかなければならない。我々自身心豊かな人

間にならなくして共生社会は来ないし、梅原猛さんの言われる第三の

文明は来るべくもない。ともかく「雨水の貯留・浸透」の普及を図る

ことだ。

 

 

 

 

 

 

[賀茂川から堀川を望む]

[堀川について] [堀川について(2)]

[堀川の想い出] [滋野井]

[神仙苑]

 

 

 

 

亀の井

 

 

松尾山からの湧水で、

酒造家はこの水を元水として造り水に混和して用い、

又延命長寿或いはよみがえりの水として有名。

 

 

 

 

すぐ上に滝御前ことミズハメの神様が祀られている。

 

 

 

 

 

ミズハめの神!

 

 

松尾神社の罔象(みずは又はみつは)女神(めのかみ)は、

滝御前とも呼ばれ、字を見て判るように女の神様である。

勿論、水神であり、万物の生成、生育を司る神様である。

 

 

すぐ横に「亀の井」が・・・!

 

 

 

磐座の庭

 

 

磐座の庭は、背後の山の磐座(いわくら)に因んで作られたもの。

二神を表徴する二巨石を囲む岩石群の配置は、森厳味溢れ、作者

会心の作とされている。

 

 

 

 

 

 

蓬莱の庭!

岩の間から噴出する水が鶴形の池に注ぐところ、

多くの島が点在し、周囲を回遊しながら眺めると仙境に遊ぶ感がする。

 

 

上賀茂神社

 

 

の上賀茂の地域は・・歴史的風土特別保存地域になっていて、

京都の中でも独特の雰囲気を持つ地域である。

 

 

 

 

 

次へ!

 

 

 

 

 

 

 

[尺八の池]

[賀茂川] [双葉稲荷] [すぐきの里]

[太田神社] [賀茂の用水] [賀茂の磐くら]

[神光院] [京野菜の里]

 

 

 

上賀茂神社をやや詳しく・・・!

 

 

芸能神社!

 

また、富岡鉄斎の筆塚がこの境内にあり、

全国的に見ても大変貴重なものになっています。

 

 

 

 

 

富岡鉄斎の筆塚

 

 

富岡鉄斎は、ご承知のように、日本の文人画の最後の代表的作家。

京都に住み,詩文に通じ,書を能くした。本来は儒家である。平野国臣ら勤王の志士との交わりが深かった。車折神社の宮司をしていたこと縁からここに筆塚がある。是非皆さんに一度は訪れて欲しい隠れた名所だ。

 

 

 鉄斎の評価がきわめて高くなったのは、日本国内でも、国外でも、主として第2次大戦後である。梅原竜三郎や中川一政,美術史家ケーヒルJames Cahillや画家ビニングB.C.Binningは,鉄斎を世界美術史上の天才とし、しばしばセザンヌと比較した。

 

 

 

 

 

富岡鉄斎のさらに詳しい説明はここ!

 

 

 

 

富岡鉄斎

 

 とみおかてっさい  富岡鉄斎 1836‐1924(天保7‐大正13)日本の文人画の最後の代表的作家。

京都に住み,詩文に通じ,書を能くした。その画業は風景,花鳥,人物などを描き,みずから〈古人の筆意を学んで,人格で画をかく〉(《書画叢談》)と称した。生涯多作(小品を含めての絵画は2万点以上といわれる),晩年に至って,水墨と彩色のいずれにおいても独創的な様式を生み出し,近代日本の芸術家としても傑出する。梅原竜三郎は,将来の日本美術史が〈徳川期の宗達,光琳,乾山とそれから大雅と浮世絵の幾人かを経て,明治・大正の間には唯一人の鉄斎の名を止めるものとなるであろう〉といった。

 

 

 

 鉄斎は,京都の法衣商十一屋伝兵衛富岡雅叙の次男として生まれた。

名は猷輔,後に百錬,字は無倦)むけん)。鉄斎のほかにも鉄崖,鉄史の号がある。幼にして国学を大国隆正に,漢学を岩垣月洲に学び,後に陽明学を春日潜庵に,詩文を叡山の僧羅渓慈本に学んだ。絵は大角南耕,窪田雪鷹,小田海仙(文人画),浮田一□(大和絵)に就いたが,特定の師の系統をひくというのではない。文人画,大和絵,円山派,琳派,浮世絵などの諸派の作品から取るものを取って,独学工夫したといえるだろう。明清の諸家の影響は,おそらく大きい。西洋画の直接の影響はほとんどまったくない。

 

 

 

 1855年(安政2),19歳で,大田垣蓮月尼と北白川の雲居山心性寺に同居し,蓮月尼の製陶の手助けをしたことがある。その20歳代,幕末の動乱期には,いわゆる〈勤王の志士〉たちとの交際の範囲が広かった。30歳代から40歳代の前半にかけて,明治初期の鉄斎は,全国を旅行し,結婚して,最初の妻の急死ののち再婚し,離別し,三度結婚し,いくつかの神社の宮司となり,《称呼私弁》)1869)などの著作を出版すると同時に,その画業をつづけていた。45歳のとき)1881)に兄伝兵衛が死に,大阪の宮司の職を辞して京都に帰り,上京区室町通一条下ル薬屋町に住んで,その後は読書と書画の制作に専念する。

 南画協会の創立)1896)に参加,多くの展覧会の審査員となり,また帝室技芸員)1917),帝国美術院会員)1919)でもあった。しかし自作の展覧会への出品は,南画協会の場合を例外として他にはほとんどない。新日本画(狩野芳崖から横山大観まで)や油絵に対抗して,伝統的文人画を擁護したといえる。1924年12月,88歳で急逝。寺町四条下ル大雲院にて葬儀,富岡家墓地に葬る。法名は無量寿院鉄斎居士。

 

 

 

 絵は60歳以後,ことに80歳以後に妙味を加え,成熟して,独特の世界をつくり出した。その画題は,明清画の伝統に従い,風景にしても人物にしても,中国の古典に材をとることが多い。しかしそこにも個人的な好みはあらわれていて,儒・仏・老荘の三教一致の立場をとった鉄斎は,好んで釈迦,観音,達磨,孔子,老子を併せて描き,また道教的桃源境の図を多く作った。また実景を写実的に描くこともあり,たとえば富士は,ことに好んだ題材である。円熟した時期の画面の構成は,とりわけ風景画において,余白を残さず,近景から遠景へ重畳して隈なく書きこむことを特徴とする。その迫力は,洒脱の味からもっとも遠く,むしろ西洋の近代絵画に近い。たとえば《旧蝦夷風俗図》)1896,東京国立博物館)の大画面は典型的である。水墨の筆法は,薄い墨で山や水や樹木を描き,そこに濃い墨を加えて,律動感をつくり出す。濃墨は描写的にも用いられるが,また描写を離れて,抽象的表現主義的な効果のためにも用いられる。たとえば《東瀛神境図》)1915,清荒神清澄寺)。水墨のこのような用法は,大雅にも,石涛にも,みられないわけではない。しかし鉄斎は,はるかに徹底して,水墨の抽象的表現主義を追求し,独創的な画面をつくった。また色彩家としても,中国日本の伝統的な画家のなかで際立つ。たとえば《聚沙為塔》)1917,清荒神清澄寺)にみるように,緑,紺青,朱,金泥の配合は,墨の明暗と相まって,まさに抜群の色感を示す。近代日本において,油絵の影響を受けることもっとも少なかった鉄斎は,伝統的材料と手法とを駆使して,筆勢においても色感においても,西洋の油絵の傑作にもっとも近い画面をつくり出した。

 

 

 

 鉄斎の評価がきわめて高くなったのは,日本国内でも,国外でも,主として第2次大戦後である。梅原竜三郎や中川一政,美術史家ケーヒルJames Cahillや画家ビニングB.C.Binningは,鉄斎を世界美術史上の天才とし,しばしばセザンヌと比較した。作品は多く宝塚の清荒神清澄寺にあつめられ,鉄斎美術館が設けられている。その蒐集は,主として,鉄斎に師事した清澄寺法主坂本光浄による。

 

 加藤 周一

 

 

 

 

 

嵐山は・・・大堰川の堰!

 

 

渡月橋の下流暫くして・・・

大堰川は名前を変え桂川となる。

 

 

 

桂川も随分変わり当時の面影はすっかりなくなったが、

その名前が変わるあたりに、・・・一軒だけ、・・・

ただ一軒だけ鮎料理の店が残っている。

本当にうれしいことだ!

 

 

桂川は・・・鮎の店!

 

 

 

店の壁にこんなポスターが!

 

 

 

 

三船祭(みふねまつり)は、

車折(くるまざき)神社例祭で、優雅に繰り広げられる

平安時代の船遊び絵巻である。

 

 

 

遥かなる時を越えて今よみがえる王朝人の

壮麗なる祭宴 三船祭

 

 

 

 

秦氏

 

 

はたうじ  秦氏

 日本古代に朝鮮半島から渡来した氏族。秦始皇帝の裔を称し,後帝の子孫という漢氏(あやうじ)と勢力を二分した。《日本書紀》には応神天皇のとき弓月君(ゆづきのきみ)が〈百二十県〉の〈人夫〉をひきいて〈帰化〉し,雄略天皇のとき全国の〈秦民〉を集めて秦酒公に賜り,酒公は〈百八十種勝)ももあまりやそのすぐり)〉をひきい朝廷に絹を貢進したとある。

 

 《新撰姓氏録》もほとんど同じことを記すが,弓月君は秦始皇帝の子孫で,帰化したのち〈大和朝津間腋上〉の地に安置されたとし,酒公は〈秦民〉92部1万8670人をひきい絹を貢進し,それを納めるため〈大蔵〉を宮側にたて,その〈長官〉となったという。

 

 このような説話は,秦氏の渡来後,秦氏の本宗家が全国に秦部,秦人,秦人部などを組織し,氏として成立したのが雄略のとき,5世紀末であることを主張している。その際,本宗家は大和でなく,山背)やましろ)国の葛野)かどの)郡,紀伊郡を基盤としていた。 《姓氏録》にも山城国諸蕃に秦忌寸,左京諸蕃に太秦宿禰を記している。太秦)うずまさ)とは,酒公が朝廷に絹をうず高く積んだのでその名があるというが,山背より京に本貫を移した秦氏の別称であろう。ついで,欽明天皇のとき,山背紀伊郡人秦大津父)おおつち)が〈大蔵〉の官に任ぜられ,〈秦人〉7053戸を戸籍に付し,〈大蔵掾〉として,その伴造) とものみやつこ)となったという。ついで,秦河勝がある。河勝は聖徳太子の財政,軍事,外交に関する側近者で,太子の意をうけて蜂岡) はちおか)寺(広隆寺)をたてたといい,寺は太秦にあるので太秦寺とも称された。ほかに《天寿国繍帳》の製作者として秦久麻があり,椋部)くらべ)と記されている。

 

 このように,大化改新前に秦氏で史上に名をのこすのは4人だけであるのは,秦氏が土豪であり,在地で隠然たる勢力をもつ殖産的氏族で,朝廷ではクラ(倉,蔵)を管理する下級の財務官であったからである。秦氏は,賀茂川,桂川の京都盆地,さらに琵琶湖畔に進出して,水田の開発,養蚕などの事業を行った。さらに伊勢,東国におよぶ商業活動にも従事した。天武天皇のときに定められた八色の姓)やくさのかばね)では,漢氏とならび〈忌寸)いみき)〉の姓を授けられたが,同族の一部が改姓されたのみで,748年(天平20),秦氏1200余烟に(伊美吉)いみき)〉を賜ったとき,はじめて姓が一般化した。しかも,このように多数の同族が一時に改姓される例は,日本の氏族にはなく,いかに同族の基盤がひろく深いかを示すであろう。このことは,秦忌寸のほか,山背葛野郡,紀伊郡に秦大蔵,秦倉人,秦高椅,秦川辺,秦物集,秦前など,また近江愛智)えち)郡に依智秦)えちはた),犬上郡に簀秦などの傍系氏がおり,すべて〈秦〉の一字を共有し,氏の分化が少なく,比較的等質性を保っていることにも現れていよう。要するに土豪性といってよい。

 

 平安京への遷都は,秦氏の基盤への遷都であり,その財政力によって建設されたとの説もある。883年(元慶7),秦氏は惟宗)これむね)朝臣に改姓されたが,なお各地方には,惟宗とならび秦姓のものも多く,ともに在庁官人,郡司として多く名をとどめている。

 

□惟宗氏 平野 邦雄

 

 

 

 

 

蚕の社

 

 

太秦にあるかの有名な「広隆寺」の少し東にあり、古くから泰氏の祭る神社であったらしい。平安時代には水の神社として信仰を集めていた。

この蚕の社には、元ただすの池という池があり、その池の中に何とも不思議な鳥居が立っている。三本柱の鳥居だ。その謎ときは後日にゆずるとして、ここでは元ただすの池の湧水が古くから信仰の対象になっていたらしい点を指摘しておくにとどめる。

 

 

 

 

 

 

家の石垣や玄関

 

 

京都では、東京などと比べて、比較的家の前がきれいだ。東京などで

は、家には必ずと言っていいほど門があって、門の中はきれいにする

が、門の外は余り手をかけない。それに比べて、京都では、「門掃き

会」などというのがあったりして、家の前を手をかけてきれいにする

家が多い。したがって、通る人にとって、京都の家は玄関奥ゆかしさ

がある。わびさびがあるというべきか。

 

 

 

さすが京都文化だ!

 

 

 

御土居

 

 

 

小さな公園になっていて、涼しげな所だ!

 

 

 

この付近には、200メートルほど北のバス通り或いは5〜600メ

ートルほど東は玄沢下というバス停の近くなど、いくつか御土居の遺

跡はあるが、ここ仏教大学の北側にあるここの遺跡のみが自由に見れる。

 

 

 

 

京の七口

 

 

 京の七口が七口として世人の話題に広くのぼるようになったのは、何と言っても豊臣秀吉が天下を制覇し、天正19年(1591)洛中四辺に御土居を築き、皇都の構えとして七口をひらいてからだろう。

 

このとき、実際は、十口あったらしい。長坂口は、清蔵口とされており、場所も鞍馬口の近く、鞍馬口通りにあった。現在で言えば、鞍馬口通り新町である。

 

 10口が七口にまとめてしまったのは、どうも江戸時代に入ってからのようだ。我が国は、陰陽道の影響から七という数字を貴ぶ風習があって、七口になったようだ。七草、七味唐からし、七不思議、七福神などと同じだ。

 

 東海道(五條橋口)、山陽道(東寺口)、西海道(四条大宮口)、南海道(竹田口)、東山道(三条橋口)、北陸道(大原口)、山陰道(清蔵口)をはじめとして、人によって七口が違う。

 

 五條橋口、東寺口、三条橋口、大原口、丹波口、鞍馬口、長坂口がもっともポピュラーかもしれない。

 

 何はともあれ、京の七口は、京に都がおかれてからは、文字どおり「花の都」への主要道路であった。それはまた、千数余年の歴史を秘める道でもあり、さまざまな表情をもつ味わい深い道である。一度は訪れる価値がある。

 

 

 

 

 

十二坊(上品蓮台寺)

 

 

 はじめは皇室の香華寺であったという由緒ある寺。

それが、時代とともに、付近一帯が庶民の墓地となっていくとともに、

無常所の墓守り寺となっていった。それを宇多天皇の孫に当たる寛朝僧

正が再興。その後、子院十二坊が千本通りを挟んで左右に並ぶほど隆盛

を極めた頃もあった。その名残か、今は、上品蓮台寺のことを「十二坊」

とも言う。

 

 

 

 今西錦司の葬儀は、ここ「十二坊」で、しめやかに執り行われた。

 

 

 

十二坊の境内には、源頼光ゆかりの「蜘蛛塚」があり、怪しげな雰囲

気一杯だ!勿論、十二坊が・・ということではなく、この付近が・・

ということである。少し南に行ったところに、「閻魔堂」がある。

 

 

 

 

 

詳しくはここをクリック!

 

 

 

十二坊(その2)

 

 

12坊は、誠に格調・・・高い立派な寺だが・・・・・・

 

 

 

第次第に・・・・なんだか怪しくなってきて・・・・・

 

 

一番奥まったところに、源頼光ゆかりの「土蜘蛛塚」がある。

 

 

 

 

 

[そもそも・・・土蜘蛛について!]

[閻魔堂の狂言について] [源頼光について]

 

 

 

 

 

 

 

 

土蜘蛛

 

 

つちぐも  土蜘蛛

 

古代,ヤマト王権の勢力に従わない在地土着の首長ないし集団を呼んだ名称。土雲とも書く。その内容については土窟に住む農民説,蝦夷説,国津神説,などの諸説がある。土蜘蛛の所伝は大和をはじめ,東は陸奥から西は日向におよぶ広範囲にみられ,ヤマト王権の征討伝承の中に抵抗する凶賊として登場し,土窟に穴居して未開の生活を営み,凶暴であるとして異民族視されている。

 

征討伝承は《古事記》《日本書紀》にあり,常陸,豊後,肥前の各風土記や摂津,越後,肥後,日向諸国の同逸文にも各地土着の土蜘蛛の記事がみえる。

 

《日本書紀》神武即位前紀は土蜘蛛の身が短く手足が長いとしており,同景行紀では石窟に住み皇命に従わなかったとある。また《常陸国風土記》は土窟に穴居したとし,《摂津国風土記逸文》にもつねに穴居することから土蜘蛛と賎称したとする。しかし,これらの習俗はむしろ土蜘蛛の名から作られたものか。

 佐藤 信

 

 

 

 

 

 

つちぐも  土蜘□土蜘蛛

 

能,歌舞伎舞踊の曲名。

□能 流派により《土蜘》とも《土蜘蛛》とも書く。五番目物。鬼物。作者不明。シテは土蜘の精魂の鬼神。源頼光)らいこう)(ツレ)の館へ侍女の胡蝶(ツレ)が薬を持って帰って来る。頼光は重病で苦しんでいるのである。そこへ怪しげな僧(前ジテ)が現れて,頼光に蜘蛛の巣糸を投げかけるが,頼光の太刀先に傷を負い姿を消す。物音を聞いて駆けつけた独武者)ひとりむしや)(ワキ)は目ざとく血痕を見つけ,その跡をたどって怪物の行方を突きとめることにする。独武者が武士たち(ワキヅレ)を連れて葛城山にたどりつくと,岩陰の塚から鬼神(後ジテ)が現れ,土蜘の精魂であると名のって人々に巣糸を投げ,さんざん苦しめるがついに退治される(〈打合イ働キ・ノリ地〉)。

 

お伽噺めいた鬼退治物の能である。巣糸のかたまりを掌中や身の回りに隠しておいて,次々に繰り出すのが見ものであるが,劇としての内容に乏しいので,近年は上演回数が減っている。

 横道 万里雄

 

 

 

□歌舞伎舞踊,長唄 1881年6月,新富座で5世尾上菊五郎が3世の33回忌に初演の《土蜘》。作詞河竹黙阿弥,作曲3世杵屋)きねや)正次郎,振付初世花柳寿輔。□に拠った舞踊は,江戸時代の顔見世舞踊の重要な演目であったが,すっかり能ばなれしていた。本曲は能に近づけた松羽目物で,市川家の《勧進帳》などに対抗して,尾上家では家の芸《新古演劇十種》の一とした。観賞用長唄の《土蜘》は,1862年(文久2)11代杵屋六左衛門作曲。大薩摩物。常磐津節《蜘蛛の糸》を改作したもので上中下3巻の大作であるが,上の巻(別称《切禿) きりかむろ)》)のみが演奏される。 権藤 芳一

 

 

 

 

 

 

つちぐもぞうし  土蜘蛛草子

御伽草子。南北朝時代の作とされる絵巻1軸があり,詞は吉田兼好,絵は土佐長隆と伝える。詞9段,絵13段。源頼光が渡辺綱を従えて洛北蓮台野に赴き,空中を飛ぶ髑髏)どくろ)を見てそのゆくえを追い,神楽岡に至る。古家に案内を乞うと,290歳という老女が出てくる。化け物が来たら斬り破ろうと2人が待つところへ,多くの異類異形)いるいいぎよう)が歩み来て,一度にどうと笑って去ったあと,色白く,面は2尺,丈1尺の化人)けにん)の尼や美しい女が現れる。頼光が美女に斬りつけると白い血だけを残して姿を消す。その血の痕をたどって,西山の方に遥かに分け入ると,洞穴の奥の古屋に,長さ20丈ばかりの化人が居た。それは〈山くも〉というもので,〈けむ〉の切れ目からは千九百九十九の死人の首が見える。頼光は,穴を掘ってくものを埋め,古屋には火をかけて去る。2人は帝から恩賞にあずかる。

原本は東京国立博物館蔵,江戸期の模本が同館,神宮文庫などにある。

 徳江 元正

 

 

 

 

[閻魔堂の狂言について] [源頼光について]

 

 

 

 

千本閻魔堂の狂言について

 

 

 

 千本閻魔堂を開いた定覚(じょうかく)上人が、平安中期、布教のために始めたもの。その後、一時中断したが、鎌倉時代、如輪(にょりん)上人が再興し、今日に伝わっている。京都市指定の無形民族文化財に指定されている。

 

 

 壬生、嵯峨、神泉苑の念仏狂言と共通するところは、「カン デンデン」の囃子にあわせての仮面狂言である。閻魔堂狂言の大きな特徴は、他の三つの狂言がすべて無言劇であるのに対し、ほとんどがセリフ劇であることである。

 

 

 

 千本閻魔堂の狂言では、 閻魔庁、花盗人、でんでん虫、鬼の念仏など多くの狂言が演じられるが、「土蜘蛛」が特によく演じられる。

 

 

 

 

 

[12坊の境内に土蜘蛛塚がある!]

[源頼光について] [土蜘蛛について]

 

 

 

 

 

源頼光

 

 

みなもとのよりみつ  源頼光 948?‐1021(天暦2?‐治安1)

 

平安中期の武将,貴族。清和源氏満仲の長子。摂津源氏の祖。摂津,伊予,美濃等の諸国の受領を歴任。内蔵頭,左馬権頭,東宮権亮等をつとめた。藤原摂関家に接近し,その家司(けいし)的存在となって勢力を伸長した。例えば988年(永延2)摂政兼家の二条京極第新築に際し馬30頭を献じたことや,1018年(寛仁2)道長の土御門第新造のときにその調度品のいっさいを負担したこと,道長の異母兄道綱を娘婿に迎え彼を自邸に同居させたことなどはその現れである。こうした摂関家との関係は,安和の変以降の父祖の伝統を受け継ぎ清和源氏発展の基礎を築くものであった。また頼光は早くからその武勇で知られており,彼や彼の郎党と伝えられる渡辺綱,坂田公時以下のいわゆる頼光四天王の名は《今昔物語集》をはじめ多くの説話集や軍記の中に見いだすことができる。 大塚 章

 

 

 

[説話と伝説] 頼光と渡辺綱など四天王の武勇談は能の《大江山》,御伽草子の《酒□)しゆてん)童子》にみえ,大江山の鬼退治として親しまれるようになった。屋代本《平家物語》剣巻に,瘧)ぎやく)病(わらわやみ)にかかった頼光は,加持しても効果なく,床に伏せっていると,ある夜たけ7尺ばかりの法師が縄をかけようとするので,枕元の名剣膝丸)ひざまる)をとって切りつけると手ごたえがあり,灯台の下に血がこぼれていた。その血をたどると北野社の塚穴に達し,掘ると中に大きな山蜘蛛)くも)がいるので,からめとって鉄の串にさし川原にさらした。これより膝丸を蜘蛛切と改名したと伝える。この話を脚色したのが能の《土蜘蛛》で,悩ますのが葛城)かつらぎ)山の土蜘蛛,退治するのが独武者)ひとりむしや)となっている。御伽草子絵巻《土蜘蛛草子》も同材で,葛城山の土蜘蛛となっているが,退治するのが四天王となる。能も絵巻も葛城山の土蜘蛛とするのは,神武紀に,高尾張邑)たかおわりのむら)に土蜘蛛と称する土着民がいて,神武が征伐し,村名を葛城と変えたとする伝承と関係があろう。

 山本 吉左右

 

 

 

 

[12坊の境内には源頼光ゆかりの土蜘蛛塚がある!]

[閻魔堂の狂言について] [土蜘蛛について]

 

 

 

 

鞍馬口

 

 

 京の七口の一つ、いわゆる「鞍馬口」は、京都御所の東側を北に行

って、加茂川にぶつかる当たりにあった。西の御土居は紙屋川の東岸

に沿ってあったが、東の御土居は加茂川の西岸に沿ってあった。した

がって、鞍馬街道は、そこから直ちに加茂川をわたり北上、深泥が池

の横を通って鞍馬に向かった。

 

 

 

鞍馬口に出易く東西方向に鞍馬口通りがあり、南北方向の大通りと交

差する所は、例えば、千本鞍馬口、堀川鞍馬口、烏丸鞍馬口などと称

している。すべて東の端が本来の「鞍馬口」である。

 

 

 

 

閻魔堂

 

 

 

恐ろしげな寺?

 

 

 

閻魔さんが祀ってあり、よく拝めば極楽にいくこと間違いなし!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎年五月に、「土蜘蛛」という狂言が演じられる。源頼光ゆかり

は、例の「蜘蛛塚」との関係があって、大変興味がそそられる。

 

 

 

 

 

詳しくはここをクリック!

 

 

 

 

 

 

 

千本閻魔堂の狂言について

 

 

 

 千本閻魔堂を開いた定覚(じょうかく)上人が、平安中期、布教のために始めたもの。その後、一時中断したが、鎌倉時代、如輪(にょりん)上人が再興し、今日に伝わっている。京都市指定の無形民族文化財に指定されている。

 

 

 壬生、嵯峨、神泉苑の念仏狂言と共通するところは、「カン デンデン」の囃子にあわせての仮面狂言である。閻魔堂狂言の大きな特徴は、他の三つの狂言がすべて無言劇であるのに対し、ほとんどがセリフ劇であることである。

 

 

 

 千本閻魔堂の狂言では、 閻魔庁、花盗人、でんでん虫、鬼の念仏など多くの狂言が演じられるが、「土蜘蛛」が特によく演じられる。

 

 

 

 

 

[12坊の境内に土蜘蛛塚がある!]

[源頼光について] [土蜘蛛について]

 

 

 

 

 

 

船岡山

 

 

 

西南方向を見ています。

ここからは定かではありませんが、多分、山裾が「御室」です。

 

 

 

朝の散歩では、・・・・・・通常、

十二坊から船岡山を素通りをして大徳寺に向かうのだが、

 

 

 

船岡山は、・・・・・・・立派な公園になっているし、

織田信長をお祀りしてある建勲神社や命婦稲荷があって、

景色も楽しみながらゆっくり散策したいところだ。

 

 

 

船岡山は、平安遷都の際、都市計画の起点になったところで、

風水思想での竜頭に当たる大変意味のあるところだ。

 

 

 

また、頂上には古生層が出ていて、

地質学的にも大変興味のあるところでもある。

 

 

 

 

 

 

 

大徳寺

 

 

北大路通りから入る。

大徳寺は、チリ一つ落ちておらず、誠にすがすがしい。

 

 

 

 

 

 

大徳寺は、漫画やテレビでお馴染みのあの一休さん、

とんちで有名なあの一休さんとイメージがだぶって、

多くの人に親しみを持って記憶されているようだ。

 

 

 

実際は、一休さんの小僧時代は祇園の安国寺で過ごすのだが、

応仁の乱の後、一休禅師が大徳寺の再興を果たすので、

大徳寺といえば一休、一休といえば大徳寺のイメージは正しい。

 

 

 

 

 

 

誠に立派な勅使門は、そのときのもの。

 

 

 

 

 

 

大徳寺は、禅寺の中でも特異な存在で、

織田信長や小堀遠州をはじめ・・・・

多くの歴史上の人物の菩提寺がある。

 

 

 

ほとんどが面会謝絶担っているが、拝観できる寺院もあり、

仁和寺の石庭にも匹敵する素晴らしい庭が楽しめる。

 

 

是非、一度はゆっくり訪れて欲しい。

 

 

 

 

 

 

今宮神社

 

 

 

今宮神社は、平安遷都以来、京都では災厄や疫病が増え、

それを祓うため建立された。

祭神は事代主命(ことしろのみこと)である。もとは船岡山にあった。

 

 

 

四月の第二日曜日に行われる「やすらい祭」は、

京都三大奇祭のひとつとして有名。

 

 

 

大徳寺側の横の入り口から入ってすぐ左側の小さな祠、

その土台に、

末社・宗像神社は神の使いという鯰の彫り物が彫ってある。

大変珍しいものだ。

 

 

 

また、境内には、

「阿呆賢さん」という枕大の「神占いの石」があって、

三度たたいて軽くなれば願い事かなうという。

おもしろい。

 

 

 

西陣帯の神さんもお祀りしてある。

 

 

 

 

 

 

多摩川の夜明け

 

 

 

野鳥を横目に、多摩川の水辺をぶらぶらと!

 

 

 

 

多摩川の水辺をぶらぶらと!

 

 

 

野鳥を見ながら

 

 

 

 

陸閘を通って二子玉の駅へ!

 

 

 

 

陸閘を抜けて二子玉の駅へ!

 

 

 

 

陸閘です。 めずらしい!

 

 

二子玉川駅前

 

 

 

行善寺から富士山を眺める!

 

 

 

陸閘を抜けて二子玉の駅へ!

 

 

 

陸閘です。 めずらしい!

 

 

 

 

二子玉川駅前

 

 

 

行善寺から富士山を眺める!

 

 

 

 

 ねこたまキャッツパーク!

 

 

 

 

 ゴンちゃん!

 愛ちゃん!

 

 

 

 

 

 

 

にこたまキャッツパーク

 

 

 

 

 

 

 

 

ねこたまよ!

 

 

 

 

 

 

 

二子玉! ちゃうちゃう  ねこたまよ!

 

 

 

 

 

三菱総研の前を通って!

 

 

 

 

 

三菱総研の前を通って!

 

 

 

 

 

教会を曲がればもうすぐ家だ!

 

 

 

 

もうすぐ家だ!

 

 

 

 

その先を曲がって!     「朝飯はできてるか?」

さあ、今日も頑張らなくっちゃ!

 

 

もうすぐ家だ!

 

 

 

 

 

その先を曲がって!     「朝飯はできてるか?」

さあ、今日も頑張らなくっちゃ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「7日淵」の下流にトロトロガンドウがある。

そこに落ち込んだら7日間どころかまずは出られない。人間なら・・。

さて、この度そこへなんか大きなものが落ちてきた。

なんだろうか・・・・・?

 

 

 

 

 

 

 

こりゃあなんだ!才官寺の釣り鐘ではないか。

昨日の洪水で流れてきたのか・・・?えらいこっちゃ。

これはその後無事寺に返され、えんこうは今なお畏敬の対象として

人々の心に生き続けている。

 

 

 

 

今後少しづつ河童に係わる作品を揃えていきたいと思っています。

 

 

Iwai-Kuniomi

 

Iwai-Kuniomi