赤山大明神

 

 日本人が、外国の影響ですっかり呑み込まれたようにように見えたときが、歴史上二度あった。一度はこの國がシナ文化をひたむきに摂取した7世紀においてであり、次は、日本が東アジアに対する西洋の膨張に刺激された19世紀においてであった。

しかし、ジョン・w・ホールによれば、それは単なる模倣ではない。ジョージ・サンソン卿やアーノルド・トインビーら他の歴史学者が「日本はシナの実例に圧倒的な印象を受けた結果、模倣することに夢中になった。」と言っているのに対し、ジョン・w・ホールは、日本固有の文化というか日本独自の歴史的な流れとの脈絡をよく見ないと7世紀におけるシナ文化摂取の本当の意味は理解できないだろうと言っている。

 

空海や最澄がそうであったように、円仁(えんにん)もほぼ完成された人格をもって唐に留学に行っている。今我々が言う留学生ではない。円仁が我が国に持ち込んだシナ文化についても、円仁という人物の感性を通して我が国に入ったということだ。ちなみに、円仁は、15歳で比叡山に登り、最澄に師事。44歳で入唐している。第3代目の天台座主である。

 

世界の三大旅行記というのがある。玄奘(げんじょう)の大唐西域記とマルコ・ポーロの東方見聞録、そして円仁の入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)である。入唐求法巡礼行記は、元駐日大使ライシャワーが英語に翻訳し、研究を重ねて博士号を取ったことでも知られている。

 

円仁は、9年間の留学中、8ヶ月ほど山東半島文登県赤山にある新羅商人の集団居住地・新羅坊に滞在したことがあったが、その新羅商人の祭る神が赤山大明神である。

 

当時、朝鮮海峡、黄海、東シナ海の制海権や海上貿易は新羅人が独占していて、新羅人の庇護がなければ入唐は難しかったようである。最澄は新羅系だといわれているが、そんなこともあってか、比叡山・延暦寺と新羅との関係は極めて深いものがある。円仁とならび称せられる円珍が再建した園城寺(おんじょうじ。三井寺ともいう。)の守神も新羅大明神である。

 

 

 

ともあれ、赤山禅院に行ってみて下さい。日本最古の「みやこ七福神」のお寺でもあり、福禄寿がお祭りしてある。賑やかである。

 

 

             

 

  

 

Iwai-Kuniomi