八坂神社

やさかじんじゃ

 

京都市東山区園町北側(ぎおんまちきたがわ)に鎮座。旧官幣大社。現社名は1868年(明治1),神仏分離にさいして付されたもので,それ以前は園社,園感神院(かんしんいん)(感神院は別当寺)と称していた。こんにちでも市民のあいだでは〈園さん〉の呼称で親しまれている。八坂の称は当地一帯がもと山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に属していたことによる。

 

祭神は素戔嗚(すさのお)命(もと牛頭天王(ごずてんのう))。

 

草創の時期については確実でないが,《貞信公記(ていしんこうき)》の延喜20年(920)閏6月23日条に藤原忠平が〈咳病〉を除去すべく〈園〉に幣帛と走馬を奉納したとみえているので,すでに社の原型があり,信仰されていたことがわかる。しかし当時はまだ,八坂郷の鎮守としての位置をしめる程度であったと推察される。その後,御霊(ごりよう)信仰のひろまりにつれて,しだいに人々の信仰をあつめ,祭礼もさかんとなっていった。

 

 10世紀中ごろまでは,清水(きよみず)寺とともに,南都(奈良)の興福寺の末寺であったが,959年(天徳3),清水寺とのあいだに紛争を生じ,これが契機となって天台宗の延暦寺派に帰属,以後ながく南都と北嶺の確執・抗争の一因となった。996年(長徳2),臨時奉幣社に昇格。1070年(延久2)の大火いらいたびたび火災にみまわれたが,そのつど復興した。

 

だが,応仁・文明の乱による罹災ばかりは,当時の社会情勢により容易に回復できず,正遷宮は1492年(明応1)まで待たねばならなかった。そののち社運の隆昌は豊臣秀吉によってもたらされ,彼は母の大政所(おおまんどころ)の病気平癒を願って1万石を寄進,ついで園大塔を造営して,当社の威風をたかめた。徳川幕府もまた堂舎の修造に力を入れるとともに朱印高140石を寄進し,境内所役を免除して,幕末にいたった。

 

 明治維新により,神仏分離のため坊舎は撤廃され,仏像等は他寺院に移管,また境内地も減少した。社殿は南面し,四条通の東端にたつ楼門は西門で,下河原通につうじる南楼門が正門である。7月14日から24日までの園祭の期間や,大日から元旦にかけての白朮(おけら)祭(おけらまいり)には参詣客でにぎわう。社蔵の古文化財も多く,ことに《園執行日記(ぎおんしゆぎようにつき)》をはじめとする古文書・古記録類は貴重な史料として知られる。⇒園信仰‖つるめそ

   横井 清

 

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