役の行者

 

 

 私は、「この国のかたち」・・・我が国のかたちというものは、縄文文化が底辺にあって形作られたものと考えている。そしてその一番の特徴は、「神仏習合」ではないかと考えている。これからあるべき「この国のかたち」としては、その「神仏習合」をさらに発展、成熟させて、キリスト教やイスラム教なども含めた「世界多神教」のようなものを理想として考えていけばいいのかも知れないが、長い歴史的過程を経て形作られてきた今の姿について限定的にいえば、「神仏習合」にいちばんの特徴を見出すことができる。

 

 その「神仏習合」は、もっとも修験道に色濃く結実しているように思われ、これからの我が国あり方に関連して、私は、修験道に大きな関心を持っている。修験道は、山の宗教であり、修行の場は山である。であるから、山好きの私にとって、修験道はひとつのあこがれになっている。次に紹介する「守れ権現」という歌は、「雪山賛歌」や「おまえはそんなに何故嘆く」とともに、私たち山岳部の愛唱歌になっていて、山ではよく歌ったものだ。作詞は多分北原白秋だったと思う。今はとても懐かしい!

 

「守れ権現」

 

守れ権現 夜明けよ霧よ

山は命のみそぎ場所

六根清浄 お山は晴天

 

風よ吹け吹け 笠吹き飛ばせ

笠の紅緒は荒結び

六根清浄 お山は晴天

 

雨よ降れ降れ ざんざとかかれ

肩の着ござは伊達じゃない

六根清浄 お山は晴天

 

さっさ火を炊け ゴロリとままよ

酒の肴は山鯨

六根清浄 お山は晴天

 

 

 山伏たちは小さな虫を踏むのも、また道の修理に鍬を振るうことさえも避けて、生命とそれを育む自然を大切にした。山に登り信仰が深まるにつれて、役の行者の偉大さが、次第に感得されるようになるようです。

 

 

 修験道は、もともと私のあこがれでもあるが、「この国のかたち」に関連する私の重大関心事でもある。修験道の開祖は、役の行者(役小角えんのおずぬ)とされている。今年は、役の行者が亡くなってから1300年ということで、全国各地でいろいろと「遠忌1300年記念行事」が行われるようである。私もできるだけ出かけたいと思っているが、今年は誠にいい機会であるので、是非とも、役の行者を少しでも身近に感じ、少しでも修験道に対する理解を深めたいものだ。

 

 

 

 役の行者については、全国各地にいろんな伝説が残っている。しかし、その割には判らないことが多い。たいていは霧の中だが、私がどうしても知りたいのは、役の行者が何故伊豆に流されたのかということだ。その理由を知りたいと思ってきた。修験道でいえば神さんみたいな立派な人が何故伊豆に流されなければならなかったのか。いくつかの本も読んで私なりいろいろと考えてみたけれど、私にはどうもよく判らなかった。

 しかし、梅原猛さんの「神々の流ざん(かみがみのるざん)」を久しぶりに読み返してみて、役の行者島流しの理由がやっと判ったのである。古い神々は出雲へ!・・・そして危険人物は伊豆へ!・・・ということであったらしい。

 

 梅原猛さんの考えによれば、大和の豪族は古い出雲族と呼んでいい人々であり、山を中心にして古い神道によってその権威を保っていた。

 

 宗教改革を行い、伊勢神宮(アマテラスオオミカミ)を中心とした新しい神道によって、中央集権的な律令国家を作りたいとする藤原不比等にとって、仏教が邪魔であるのは当然のこととして、その仏教と古い出雲族の宗教が結合し、神仏習合の新しい宗教が芽生えることすら邪魔であった。早いうちにそういう芽はつみ取ってしまえ!それが時の権力者の考える当然の帰結であろう。

 

 役の行者は、賀茂族の出身であったらしいが、その賀茂族というのは、そもそも大和朝廷には根強い恨みを持っていたらしい。そのことは当然大和朝廷の警戒するところであり、大和朝廷は賀茂族に対し常に監視の網を張っていたようだ。

 賀茂族は、出雲族の流れであり、いうまでもなく出雲族と同じ古い神道によってそれなりの勢力を保っていたようだ。したがって、役の行者がもし仏教を身につけたとしたら、それは自ずと古い神道と結合したひとつの発展形となる筈である。事実そうなった。修験道の開祖といわれる所以であるが、それは、賀茂族の動向とともに、大和朝廷にとってもっとも警戒しなければならない胎動であったにちがいない。

 

 京都の上賀茂神社は、その頃すでに賀茂族の神社としてあったようだが、役の行者の島流しとほぼ時を同じくして、大和朝廷は上賀茂神社に対しある種の弾圧を加えている。

 

 ちなみに、上賀茂神社と下賀茂神社の間に「出雲路橋」という橋がある。加茂川にかかっている橋だ。上御霊神社はその出雲橋のすぐ西側にある。その付近の古い地名は出雲路である。

 

 出雲族に神々は島根に流せ!出雲族の危険人物は伊豆に流せ!そして賀茂神社には弾圧を加えよ!・・・それが不比等の方針であったにちがいない。新しい国づくりのためには、どうしても役の行者は伊豆の大島に流されなければならなかったのだ。

Iwai-Kuniomi