菅原道真の怨霊

 

 

 菅原道真が太宰府に配流(はいる)されて不遇のうちに死んだことはよく知られている。天満宮は受験生に大変人気の神社であり、そこでは、菅原道真は学問の神様になっているのだが、天満宮ができるまでは、道真の怨霊が凄かったらしい。その怨霊を鎮めるために北野天神社ができるのだが、そこまで知っている人は比較的少ないかも知れない。以下、菅原道真の怨霊について少しお話ししたい。

 

 「北の天神縁起」などによると、菅原道真が死んで幾月も経たないある夏の夜、道真の霊魂が比叡山の僧坊に現れて、尊意(そんい。道真が仏教を学んだ師)にこれから都に出没し、怨みを復讐ではらす決意を述べ、邪魔をしないようお願いをしたのだそうだ。・・・・その後、道真の怨霊は暴れまくることになる。

 

 その後数年経った908年10月7日、道真配流の首謀者のひとり藤原菅根(すがね)が54才でなくなったが、都では道真の怨霊の祟りだという噂が流れたが、翌年、道真の怨霊はいよいよ核心に迫っていく。

 

 道真配流の張本人・藤原時平は、すでにこのとき病床にあったが、天竺渡来の妙薬も効き目がなく、また陰陽師(おんみょうし)の祈祷の効き目もなかったので、文章(もんじょう)博士・三善清行(きよゆき)は、自分の長男であり当時都でもっとも有名であったかの浄蔵(じょうぞう)に加持祈祷をさせることになった。

 

 ところが、4月4日のこと、清行が時平のところに見舞いに来ると、道真の霊は、時平の左右の耳から二匹の青竜となって現れ、次のように語りかけた。

 「無実の罪で配流となり、太宰府で死んだ私は、今や天帝(梵天ぼんてん・帝釈たいしゃく)の許可を得たので、怨敵に復讐を加えようと決断をした。なのにおまえの息子浄蔵は頻繁に時平を加持祈祷している。どうせ無駄なことだから、やめさせよ。」

 

 鬼神を操って冥界のことにも明るい清行は、即座に理解し、浄蔵に時平邸からの退出を命じ、自分みずからも退出したのだが、まもなく時平の命は絶えたという。

 時平の命を奪った道真の霊は、その後ますます激しさを加え、時平の子孫たちを次々と死に追いやり、遂に923年、醍醐天皇の皇太子の命まで奪うに至る。

 

 そして930年6月26日には、清涼殿(せいりょうでん)に落雷が起こった。これが凄かったようだ。昼すぎの頃、愛宕山の上より起こった黒雲はたちまち雨を降らせ、にわかに雷鳴を轟かして清涼殿の上に雷を落とし、神火を放った。

 この結果、殿上の間に侍していた大納言藤原清貫は胸を焼かれて死亡し、右中弁平希世(まれよ)の顔は焼けただれた。また紫宸殿(ししんでん)にいた者のうち、右兵衛佐美努忠包(みぬのただかね)は髪が焼けて死亡、紀陰連(きのかげつら)は腹部が焼けただれて悶乱、安曇宗仁(あずみむねひと)膝を焼かれて倒れ伏すというありさまであった。

 そして、この落雷で、天皇も病に伏し起きれなくなったしまった。

 

 おそろしや!おそろしや!

 

 理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加え、ついには最高責任者たる天皇をも殺しかねないのだという認識が当時の人々の間にすっかり定着してしまった。

 

 939年12月、かの平将門は新皇即位の儀式をするが、そのときにも道真の怨霊が出てきて平将門をけしかける。このように道真の怨霊は実に執念深いのだが、人々の意識の変化とともに次第に怨霊の怨みもやわらいでいく。

 

 浄蔵の弟・道賢は、わずか12才であったけれど、父清行の命で、・・・・吉野は・・・「役の行者」ゆかりの金峰山(きんぷせん)に篭もり、父の死にも帰京せず26年間の修験道に励む。道真の怨霊を鎮めるためだ。

 

オンボダロシャニソワカ

オンバサラダドバン

オンアビラウーンクハン

オンアメリタティー

ゼイカラウーンノウマクサマンダボダナン

 

 26年後やっと修験の効なって、・・・「冥界めぐり」に成功、・・・・・道賢は、道真の怨霊の怨みを聞いてやる。神通力のある修験者に聞いて貰えれば道真の怨みもさすがにやわらぐというものだ。

 

 遂に、その後942年になって、道真の霊は多治比のあやこという女性にご託宣を下し、道真の霊を祭らせる。天神の誕生であり、北野天神社の創建へと繋がっていく。今の位置に北野天神社が創建されたのは946年である。

 



Iwai-Kuniomi